蝶が去るとき

新矢晋

蝶が去るとき

 ──いずれ、王はその子に殺される。



 玉座におわすは王、頭に太陽を頂く者。長く伸ばされ編まれた夜色の髪も、染みひとつ無い白磁の肌も、夜空を思わせる深い紫色の瞳も、王を飾る要素に過ぎず……その存在は絶対、神にも等しく、害する者など存在してはならない。

 だから王は、その男の言葉に眉を跳ね上げた。

「……王は殺されるでしょう」

 ただ静かに紡がれた言葉。どこか作り物めいた美貌のその男は、漆黒の瞳で真っ直ぐに王を見上げてそう言った。

 左右に控えていた騎士が気色ばみ剣を抜こうとするのを片手で制しながら、王は感情を押し殺したような声で詳細を問い質す。男はゆっくりと頭を振り、その髪を飾る銀色の鎖がしゃらりと音をたてた。

「私はただ運命を預かっているだけ。曖昧に揺らぐ運命の、仔細は私の知るところではございません」

 ただ、と男は続けた。

「王は、その御子息に殺されましょう」

 男の瞳が細められ窺うように王を見つめ、王は黙ってそれを見下ろした。

 じりじりとした静寂を破ったのは、王の方だった。王は一言「殺せ」と言うと、金の刺繍が施された外套を翻し玉座の間を後にした。

 残された男は、己へ近付いて来る騎士達の剣が抜き放たれるのを奇妙な笑みを浮かべて見つめた。



 その後、王の命令で王子は悉く処刑された。

 生き残ったのは、当時まだ幼かった上に病弱だった第三王子だけだった。

 それから、幾らかの時が流れた。



 王城には一人の妖精騎士が居た。初代の王が妖精国との《取替え子チェンジリング》であるという伝説のあるこの国では妖精国との交流が盛んであり、城下町や王城で妖精の姿を見かける事は珍しくなかったが、この騎士は特別だった。黒耀の髪と紫水晶の瞳を持つこの騎士は、王の息子であってもおかしくないほどの若輩であるにも拘らず重用され、常に王の傍らに控えていた。

 王の意図は明らかだった。王が騎士にとる態度は臣下に対するそれではなく、まるで親子のようなそれだった。己とは血の繋がらない妖精騎士であるからこそ、あの忌わしい予言から外れた存在であるからこそ、王は騎士を寵愛した。次期国王の座は彼の騎士に譲られるのでは、という噂もまことしやかに流れていた。

 その一方で、唯一王家に連なる人間である第三王子は、王城の陰で誰に顧みられる事も無く暮らしていた。自室に半ば軟禁され、病弱であるが故に日の光を浴びる事も無かった。王子は生まれつき色の抜けたような白髪に血の色が透けたような紅色の瞳をしており、その王とは似ても似つかない外見も疎んじられる理由の一つだった。

 だが、王子は王を愛していた。自分が愛されないのには何か理由があるのだと信じて疑わず、忌わしい予言の内容も知らされてはいなかった。

 日当たりの悪い部屋。天蓋付きの寝台も寒々しく、その上に横たわる主は益々弱々しく見える。折れそうに細い身体は寝台をほんの僅かに軋ませる事すらままならず、窓の外を見やる血色の瞳は物憂げ。

 悲しいぐらいに静かなこの部屋で、王子は暮らしていた。訪れる者といえば医者ぐらいのこの部屋は王城の最北端に位置し、本来ならば王子が住むような場所ではない。父王によってこの部屋へ追いやられてもなお、王子の心根は歪まなかった。色の抜けた白髪を王と同じように編み、身体を蝕む病魔に恨み言ひとつ言わず、ただ、悲しくて寂しくてその身を細らせているばかりだった。

「殿下、参りました」

「……入りなさい」

 王子の囁くような声に導かれ、扉を開いたのは妖精騎士だった。その姿に王子は瞳を細め、細い手で椅子を示す。それに従い椅子へ腰掛ける騎士の仕草は慣れた様子で、既に何度もこの部屋を訪れているようだった。

 どこか辛そうに、痛ましげに目を逸らす騎士とは裏腹に、王子は柔らかな笑みを浮かべる。己の居場所であるべき所に納まっている張本人を前にして、何ら邪気の無い笑みを。

「聞かせて下さい、父上のこと……」

 これは、部屋に追いやられ父王に会う事すら叶わぬ王子の唯一に近い楽しみ。何日かに一度、騎士を呼んで王の様子を聞くという、ただそれだけの行為。

「先だって、陛下は遠乗りに出掛けられて……」

 騎士の語りはお世辞にも巧みとは言えないが、王子はその一言一句聞き漏らすまいと真剣に騎士を見詰めていた。不吉な赤い色をした目はそれほど強い光を湛えてはいないが、騎士にとってはどんな武器よりも鋭く恐ろしかった。

「……妖精は生まれ変わらないというのは本当ですか?」

 ある時世間話の一環で何気なくそう問うた王子に、騎士は怪訝そうに眉を寄せてから慎重に答えた。

「はい。妖精には魂が無いので、死んだ後は死体も残らず、蝶となって妖精の国へと帰ります」

「お前も?」

「そうなります」

 寂しいですね、と呟いた王子に騎士は胸を痛める。この尊い生き物は、恐ろしいくらいに優しく美しい。不気味な容姿すらどこか神々しく見える程に、薄暗い部屋の中でさえ輝かんばかりに。……それは騎士の罪悪感からそう見えているのかもしれない。王に重用されているが故に王城内で浮いてしまっている騎士にとって、畏れ多くも、王子だけが唯一の友人と呼べる存在だったからかもしれない。

「もし私が妖精だったら、蝶になっても、この城の庭で暮らしたい。……父上の目を、楽しませて差し上げたいから」

 王子が王を愛すれば愛するほど、騎士は心臓を締め付ける罪悪感と王への反感に泣きたくなる。王に仕えてその望みを叶えるのが自分の喜びだと思っていたのに、王子の顔を見ると王を憎みそうになる。忠誠と友情の狭間で引き裂かれる痛みは日に日に増し、騎士は庭の隅で妖精と遊びながら考え込む事が多くなった。差し伸べた指の先で踊る小妖精は何も知らず、ただくるくると踊っていた。

 成長するにつれ、王子の身体は丈夫になっていった。病魔は遠ざかり、遠出は無理でも中庭を散歩するくらいなら出来るようになった。騎士は自分の罪悪感が和らいでいく事を自覚し恥じたが、喜ばしい事には変わりなく、嫌な予感が日に日に強くなっていくのに気が付かないふりをした。

 王子が二十歳を迎える頃、初めて遠乗りが出来たと嬉しそうに報告してくるその笑顔に、騎士はうまく笑い返す事が出来なかった。それについて騎士から聞かされた王もまた笑みひとつ浮かべず、その不穏さに騎士はただ口を噤んだ。

 ──王はその子に殺される。

 その予言が再び王の首を絞め始めていた。王は自分が王子を虐げている事を後ろめたく思い、それが故に王子の殺意を疑っていた。王を深く愛している王子の心を信じられず、忌まわしい予言に足首を掴まれていた。

 だから王が王子との遠乗りを計画した時、騎士は不思議には思ったが、これが和解のきっかけになればいいと心の底から思った。護衛として自分が供するようにと言われた時には二つ返事で承り、楽しみだと笑う王子に今度こそは笑い返せた。

「……あれを殺すのだ」

 遠乗りを三日後に控えたその日、王と二人きりの小部屋でそう囁かれ、騎士の心臓は凍り付いた。言葉は出ずに喉元で塊になった。

 遠乗りに連れて行くのは騎士一人だけだという事、そこで落馬したということにする事、他にも様々なはかりごとを言い聞かせられたがそのどれもが騎士の血潮を凍てつかせていった。

 ──あのひとは、あの優しく美しいひとは、あんなに貴方を愛しているのに……!

 指先までを覆う寒さに震えながら頭を垂れた騎士の仕草を了承の意と受け取った王はその部屋を去り、残された騎士はしばらくの間震えていた。きつくきつく己の手首を握り締め、指先が白くなっていた。



 三日後、遠乗りに出掛けた王と王子、そして騎士は、城から少し離れた草原にいた。王子は本当に楽しそうに笑ってばかりで、その眼差しは父を慕う気持ちで満たされていた。それを目の当たりにした騎士は痛苦を表情に出さないようにするのが精一杯で、腰に携えた剣の重さに汗をかいていた。

 父は息子の想いに気付かず、ちらりと騎士の方を見た。王として君臨し続けるべく、己を縛る予言を回避するべく、息子殺しの大罪を犯そうとしていた。

「少し休むか」

 そう言って馬を降りた王に続き、王子も草原へ降り立つ。同じようにした騎士は、腰でかちゃりと鳴った金具の音にびくりと指を動かした。

 自分の剣は何の為にある。それは勿論王の為にある。だが、ただ父を愛している無垢な息子を殺すのが本当に正しい事なのだろうか。わからない。わからない、と呟いた騎士の手は震えて剣を握れない。紫水晶の目が泣き出しそうに濡れている。

 急かす王の眼差しに浅く息を吐いて、騎士は鞘より剣を抜き放ち構えた。だが剣はまだ殺意に乏しく、切っ先は向かう先を見付けられずにいる。王子は不思議そうに騎士を見たが、騎士は王子の目など見られる筈も無く唇を噛んだ。

「早くしろ」

 一歩踏み出した騎士はそこでようやく王子の顔を見た。長い睫毛を揺らして瞬きをした王子はかすかに口を動かして騎士の名を呼んだ。

「うあ、」

 言葉にならない声を洩らした騎士は進めた足を元に戻し、今度は王を見た。王は何の躊躇いも無い冷たい目で王子を見、それから騎士を見る。騎士を縛る王の目は紫だが騎士の紫とは違う。苦悩も痛苦も内包しない、深く暗い色。

 ぶるぶると震える剣の切っ先が向かう先を変える。まだ形をあらわしきっていない不定形の殺意が向けられているのは王子ではなく、王その人だった。王はしかし動揺もせず、王子を指差して当然のことのようにその言葉を口にする。

「私を殺す呪いの子。早くそいつを殺せ」

 騎士が凍り付いた。そして、王子も。まったく状況がわかっていないまま王を見る赤い目は見開かれ、漏れた声は掠れていた。

「ちちうえ……?」

「許せ、我が息子。私はまだ死ぬわけにはいかないのだ」

 理解出来ないながらも、自分が父に愛されていない事だけは深く思い知った王子は、呆然とした顔のまま静かに涙を零した。父を憎む事が出来ず、身を切る痛苦に震えながら、逃げようともせずただ涙を零し続けた。

「あ、あぁぁァ!」

 それを切っ掛けに、騎士は叫びながら足を踏み込みその剣を突き出した。その視界の端で白い何かがひらりと動いた。

 騎士の剣はあやまたず王の腹を貫いていた。だがその剣は、間に割って入った王子の腹までも貫いていた。刃を伝って赤い血が滴り落ち、騎士の手はぬるりと血に滑って震え始めた。ゆっくりと刃が引き抜かれると、王と王子は地面に崩れ落ちる。

「あ……あ、あ」

 緩く頭を振った騎士は剣を取り落とし、光を失いつつある紫紺の目をそれと同じ色の目で見た。次に、王と重なるように倒れた王子の白い髪が偽物の海のように広がっているのを見た。そして何度も頭を振って目の前の光景を否定し、拒絶し、踵を返して逃げ出した。

 濃厚な血の匂いが周囲に漂い始める。二人分の血が地面を赤く染めていく。白く華奢な手が、重たげに王の胸元へ置かれた。

「ちち、うえ」

 吐き出す息のひとつひとつが死を招き寄せる。けれど王子は必死に口を開いて言葉を絞り出した。それは当然言うべき恨み言ではなく、消え入りそうな謝罪の言葉だった。

「父上、ごめんなさい、……守れ、なかった、私は……やはり、不出来な息子です……」

 王はようやく王子の愛を知った。そして自分がどれほど愚かだったかを知った。息子を抱きたくてももう腕は上がらず、その顔を見ようにも視界は霞んでいた。何もかもが遅すぎた。

「生まれ変わったら、……次は、お前を、愛せる父親に……」

 ひゅう、と最後の呼吸が喉を鳴らしてその場に生きている者はいなくなった。

 折り重なる二つの死体。そのうち一つはさらさらと光の粒になって消え、一匹の白い蝶がそこから飛び立った。ある妖精のいのちが、幸せになれないまま、飛び去った。



  ▼  ▼  ▼



 《取替え子チェンジリング》。人間の子供と妖精の子供が入れ替えられる事、或いはそれによって入れ替わった子供の事。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

蝶が去るとき 新矢晋 @sin_niya

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ