リアリストの浮つき

「流石にそろそろ起きないとな」


 二度寝こそしなかったものの、学期中であれば家を出る時間まで布団の中で吉乃と戯れ続けていた。正直な気持ちを言えばもっとずっとこうしていたい。

 だが春休み中とはいえ、あまり自堕落な姿を見せてしまう訳にはいかない。それにきっと、響樹から言い出さなければ吉乃はずっと付き合ってくれてしまうだろうから。


「ええ。名残惜しいですけど」


 少し眉尻を下げ、吉乃が言葉通りの表情を見せてくれる。恐らく響樹自身の顔もこうなのだろうと思う。


「先に洗面を使ってください。私は恐らく響樹君よりは時間がかかりますので」

「……分かった。ありがとう」


 一緒に寝起きするのだからその辺りも考えておくべきだったと、少し不甲斐無く想いながら頷き、抱き合っていた体をゆっくりと離す。布団の中に二人の熱は残ったままだというのに、少し寒さを覚えたのは心の方だろうか。


「響樹君」


 呼びかけに返事をする間も無く、唇に訪れたのはやわらかな感触。ほんの一瞬だけ触れて、すぐに離れていった。

 まだすぐ傍にある整った顔に浮かぶのは可愛らしいはにかみで、響樹の視線を奪った淡紅色の綺麗な唇に、吉乃はそっと人差し指で触れた。


(俺って忍耐強いよな)


 最愛の恋人にこんな事をされて、そのままベッドを出ようというのだから。

 響樹が先に洗面を使わなければ吉乃が使えないし、今日一日の予定も大幅にずれる。吉乃はけっしてそうは思わないだろうが、彼女に迷惑をかけたくない一心で感情を殺す。


「吉乃さん」

「はい」


 せめてもの反撃で同じ事を返すものの、吉乃は響樹がする事などお見通しだったようで、もう一度唇をそっとなぞりながら、少し色付いた頬を綻ばせた。

 そんな可愛らしい反応にますます後ろ髪を引かれる訳だが、吉乃の頬を軽くつつき、響樹は断腸の思いでベッドから立ち上がる。


(自爆したなぁ)


 くすぐったそうに、それでも嬉しそうに、ほんの僅かに身をよじった吉乃を見ながら、また忍耐力にダメージを受けたと思った。



「考え事ですか?」


 食洗器を動かして戻って来た吉乃が響樹の隣に腰掛けた。


「ん? ちょっとな」

「私が聞いてもいい事ですか?」

「吉乃さんに聞かせられない事は考えないな」

「本当でしょうか?」

「当たり前だろ」


 サプライズの類は除く。と、くすりと笑って口元を押さえた吉乃に内心で付け足しておく。


「将来の事と言うか。一緒に寝起きしたから意識したんだけど、将来的にはどこかのタイミングで一緒に暮らす事になるだろ? ちゃんと形にする前にそういうのも必要だと思ってるし」

「響樹君は……いえ、私だって将来的にはそうしたい考えていましたし、響樹君が同じ考えでいてくれた事は嬉しいですけど……」


 顔を赤くして目を見開いた吉乃は、そこまで言ってハッとしたように視線を逸らした。「続きをどうぞ」だそうだ。


「洗面とかもそうだけどさ、二人で暮らすとなると色々考えないといけない事って多いんだなって思ってさ、そういうの考えてた」


 洗顔の最中に考えた。今はまだ髭剃りの必要が無い響樹だが、同級生では既にそれを行っている者もいる。高校在学中には恐らく自分もそうなるだろうと思っているし、そうなれば朝の支度に要する時間も増える。

 吉乃は吉乃でそんな響樹よりも更に時間が必要なはずで、二人で使うためにはどちらかがずらす必要がある。


 もちろん響樹も吉乃も家事を問題無くこなせるため、同棲生活における時間の効率は上がるだろうし、洗面や風呂などの事を考慮してもトータルではプラスになると思う。

 ただやはり、自分の家において自分のタイミングで物事が進まないというの、はあまり気分の良い問題ではない気がするのだ。

 これ以外にもきっと、今思い付く事だけでなく、共に暮らすとなれば吉乃に負担をかけてしまう事もあるのだろうと思うと、幸せな未来だけを思い描けない。


「響樹君はリアリストですね」


 と、考えていた内容を話してみると、吉乃はほんの少し眉尻を下げ少し困ったようにしながらも、頬を綻ばせながらそう言った。

「私は少し浮かれた考えをしていたかもしれませんね」と付け足し、吉乃はふふっと笑い、そのままゆっくりと響樹の肩に頭を預ける。


「響樹君が今の内からそこまでしっかりと考えてくれている事、とても嬉しいです。ありがとうございます」

「そりゃ、吉乃さんとの将来の事だからな」

「でも大丈夫ですよ。楽観視する訳ではありませんけど、お互いの事を大切に思っていれば、きっと解決できる問題ですから」


 優しい声でそう言い、響樹の肩から頭を離した吉乃が唇を尖らせた。


「大体、響樹君は過保護なんです」

「過保護?」

「響樹君と一緒に暮らせるんですから、少しの我慢くらい耐えられない訳が無いでしょう? 細かい事は考えていませんでしたけど、何の我慢も無しに幸せを手に入れようなんて、そんな虫のいい考えはしていませんよ?」

「……浮かれた考えは俺の方だったな」


 吉乃を大切にすると決めている。しかしそれは、彼女のために万難を排する、あらゆる苦難から遠ざける、といった事とは違うと思っている。尊敬する吉乃に対して、対等な接し方ではない。

 そう思っていたはずなのに、幸せな未来を考えていたせいなのか、気持ちが鈍っていた。


「悪い」と響樹が苦笑しながら軽く頭を振って言葉を伝えると、吉乃は少し目を細めて優しい笑みを浮かべた。


「響樹君が私の事が大切で大切で仕方がない、と受け取っておきますよ」

「そうしてくれ」


 実際にその通りなので言い訳のしようも無い。

 白旗を上げた響樹に対しくすりと笑い、吉乃がまた肩に頭を預けた。

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