平常心と足りないもの

 それはちょっとした興味からだった。


 吉乃と出会った――正確に言うのであれば知り合った――季節は秋で、冬に恋人となり、そして春を迎えた。季節とともに彼女の服装も厚手に変わり、今はまた少し薄くなってきている。

 だからなのか、元々見た目でも抱きしめた感覚でも知っていた吉乃の細さを改めて認識した、とでも言えばいいのだろうか。


 こだわりのモノトーンの装いは変わらないが、薄手のブラウスから覗く手首は折れてしまいそうなくらいに細い。

 もちろんスキンシップの過程で吉乃の体がやわらかい事を存分に知っている響樹としては病的な細さだとは思わないのだが、一体どれほど軽いのだろうかと、ふとそう思った。


(流石に直接は聞けないよな)


 いくらスレンダーな吉乃と言えどあまり答えたくはない事柄だろうと横目で窺っていると、ソファーの隣にいる吉乃が響樹の視線に気付いた。


「どうかしましたか?」

「ん、いや、やっぱ吉乃さん細いよなあって」

「ありがとうございます」


 はにかみを見せた吉乃は少し嬉しそうで、女性にとって細いはやはり誉め言葉なのだとの実感する。だからこそ興味が湧いた。


「ちょっと抱き上げてもいいか?」

「私をですか?」

「ああ」

「響樹君が?」

「そりゃそうだろ。他の奴にはやらせたくない」


 わかり切った事を聞き返す程度には驚いたらしい吉乃はその表れか目を丸くし、そして苦笑を浮かべる。


「重いですよ?」

「世間の女子に謝るべき発言だな」

「いえ、そういう相対的な事ではなく、絶対的な意味で」

「大丈夫だろ……吉乃さんが嫌じゃなければだけど」


 おずおずといったふうに言葉を発した吉乃に対し、響樹は抱えるような格好をとった腕を少し持ち上げてみせた。

 響樹の言葉と仕草を受けてか、吉乃は「嫌ではありませんけど」と珍しくはっきりしない様子で、「うぅ」と何度か小さな声を吐息に乗せる。


 響樹からしてみれば何をそんなに迷う事があるのだろうと思うのだが、吉乃の葛藤は続いており、頬を朱に染めた彼女の視線は響樹と他所を行ったり来たりしていて、それが可愛らしい。可愛らしいのだが、流石に困らせるのは本意ではない。


「また今度にするか。悪い、急に――」

「いえ! 今日にしましょう。せっかく響樹君が言い出してくれた訳ですから」


 熱のひかないままの顔で、吉乃は響樹に体を寄せて手を取った。元々機敏な彼女ではあるが今の動きは更に速く、当の本人ですら無意識に近かったのではないかと思えた。

 その証拠に響樹の顔を見つめる吉乃は「あ」と口を開く。勢いで言ってしまった自身の言葉に気付いたのだろう。


「どうする?」

「……お願いします」


 短い逡巡こそ見せたが吉乃は撤回を選ばず、握り合ったままの手に少しだけ力がこもった。


「了解。ありがとう」


 愛らしい羞恥を覗かせながらも響樹から目を逸らさない吉乃の髪に手を伸ばすと、彼女は口を尖らせて「ずるいんですから」と響樹の胸にこつんと額を当てる。

 ふわりと香るほのかに甘い匂いの中でしばらく天上の触り心地を堪能していると、顔を隠していた吉乃がふふっと笑い、体を起こした。まだ少し赤い顔の上には、優しい微笑みが浮かべられている。


「いいか?」

「ええ。お願いします」

「任せてくれ」


 そう言って響樹が立ち上がると、座ったままの吉乃はロングスカートの裾を抑えながらそっと足をソファーの上に運んだ。響樹の視線を気にする様子に頬が弛むと、対して彼女の頬は少し膨らんだがそれも僅かの事。

 やはりまだ恥ずかしいのだろう、吉乃は可愛らしい照れ笑いを浮かべながら首を傾けて体の向きを変え、響樹へと両腕を伸ばす。


「じゃあ、失礼して」

「はい」


 屈みながらゆっくりと手を伸ばす。吉乃が抑えてくれているスカートの下に腕を差し込んで膝裏を前腕で支えると、くすぐったかったのか彼女がふっと息を吐いた。

 平常心と自分に言い聞かせ、背中から回して脇腹へともう片方の腕を回すと、吉乃が僅かに身をよじる。


(平常心平常心平常心)


 提案をした時には抱擁を交わしている仲であるし、響樹は膝枕などもしてもらっていると、身体的な接触にそれほど考えを及ばせなかった。しかし実際に支えてみると触れている場所は中々に際どい。

 吉乃が迷っていた理由がわかり、そんな要求をしてしまった事と触れている部位のやわらかさ、そしてこそばゆさを堪える彼女の反応が響樹の心を乱す。


「く、くすぐったくないか?」

「少しくすぐったいですけど、大丈夫です」


 誤魔化すような質問を投げかけ、先ほどまでよりも赤い顔の吉乃と顔を見合わせていると、彼女は少ししてからくすりと笑った。


「嫌ではありませんから、気にしないでください。むしろ」


 やわらかな笑みと優しい声がそっと近付き、吉乃の腕が響樹の首の後ろへと回される。


「私も、響樹君にこういう事をしてもらいたいと、考えなかった訳ではありませんから」

「え?」


 そんな言葉が響樹の耳をくすぐった後、吉乃は「だから」と言葉を続ける。抱き着くような姿勢になった彼女の顔は見えない。


「叶えてくださいね」


 ただ、その声に期待がこもっていた事だけはわかる。きっと、主に染まった可愛らしいはにかみとともにその言葉を発したであろう事も。


「ああ。持ち上げるぞ」

「はい」


 期待を裏切る訳にはいかないと、響樹は全身に力を入れた。



「響樹君。私は気にしていませんから」


 ソファーで体育座りをする響樹の背中が優しく撫でられる。


「俺は気にする」


 結論から言えば響樹は吉乃を持ち上げられたのだが、とても彼女の望みを叶えたとは言い難い状況だった。


「お互いに慣れればもっとできますから」


 重かったのだ。吉乃が非常に細いからと、自分が人並み以上に体力があるからと甘く見ていたのだ、人一人分の重さを。

 持ち上げて、「軽いな」と言ってみせたものの吉乃には完全にお見通しだったようで――吉乃でなくともわかっただろうが――すぐに「ありがとうございます。もう下ろして大丈夫ですよ」と穏やかな笑顔で気遣われた。それが逆に辛い。


「吉乃さん、もしかしてわかってた?」

「……一人暮らしが長くなれば重い物を持つ機会も増えますから、何となくですけどね。でも、響樹君が私のために一生懸命になってくれた事が嬉しいです」


 吉乃が渋っていた理由はもう一つあったのではないかと今になって気付き尋ねてみると、案の定だったようで彼女は少し眉尻を下げた。

 きっと吉乃だって響樹に重いなどとは思われたくなかっただろうに、彼女はそれを気にしたそぶりも無く、ただただ優しい言葉をかけてくれる。

 だから、次こそは吉乃の願いを本当に叶えるのだと、響樹は息を吐き出した。


「次は過程じゃなくて結果も出す。もっとカッコよく持ち上げてみせるから。覚悟しといてくれ」

「ええ。楽しみに待っています」

「早速だけどあれ、使わせてもらってもいいか?」


 響樹が指差した先のトレーニングマシンを見て、優しく笑っていた吉乃の眉尻がまた下がった。

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