第123話 バレンタインの優先順位
互いに曖昧な笑みを向け合う親子の、その娘の方は時折響樹の方を向いて眉尻を下げながら少し困ったようにはにかむ。それが大変愛らしい姿で頬が弛む。それに対して吉乃は僅かに口を尖らせるのだが、それもまたなんとも可愛らしい。
もちろん本当に困っているのであれば笑いなどしないが、今の吉乃が感じている困惑が辛いものでない事がわからない響樹ではない。
良かったと、本当に心からそう思う。今はまだぎこちなさが目立つ二人は、きっとこれから時間をかけて親子の関係を取り戻していける。吉乃が何の憂いも無く笑顔を浮かべられる日々が待っている。それが嬉しくて堪らない。
堪らないのだが、そう考えてしまった途端に自分の場違いさが浮き彫りになったような気がして、響樹は気まずさに苛まれた。
「ええと、そろそろ僕は失礼させていただきます」
弾かれたように響樹の方を向いた吉乃が整った顔に不安の色を乗せたのは一瞬の事で、やはり少し困ったような笑みを浮かべこそしたが、彼女はしっかりと響樹に頷く。そして「また後ほど」と普段の口調で静かに、優しく微笑みながら伝えてくれた。
「コーヒーとケーキをご馳走様でした。お邪魔してすみま――」
「天羽君」
吉乃ばかり見ていたため宗介の反応はわからなかったが、この時点では既に大人としての落ち着いた表情を取り戻していた。
「君には本当に、吉乃ともども世話になった。後日改めて礼に伺わせてもらうよ」
「いえそんな……」
席を辞そうとしていた響樹よりも先に立ち上がった宗介が頭を下げた。大の大人、それも恋人の父親のまさかの行動に、響樹は言葉が出ない。
助けを求めて吉乃を窺ってみたが、最初こそ彼女の方も目を丸くしていたが、響樹の視線に気付いて以降は、意趣返しなのか頑張ってくださいと言わんばかりの小悪魔な笑顔を保っている。
「吉乃」
「はい」
「申し訳ないが今日はそれほど時間が取れない。後日改めて、私の方から場を設けさせてもらう。必ずだ、約束する」
「わかりました」
まだ少し硬さの残る吉乃の応答に、宗介は自嘲気味に笑ってから軽く頭を振った。
「という事で天羽君。別で席を用意するから20分ほど待っていてもらえるだろうか? 娘を送って行ってもらいたい」
「そういう事でしたら喜んで」
「ああ、ありがとう」
宗介は店員を呼んで何やら話し、それからすぐに響樹の新しい席は用意された。因みに先ほどとは別のコーヒーとケーキのセットも用意された。
「合計いくらだよ……」
そんな事を口にしてカップを口元へと運びながら元の席を窺うが、静かに話している二人の声は聞こえないが、やはりまだ会話の様子はぎこちないように見える。吉乃の表情も少し硬く、少ない笑顔もどこか曖昧だ。
親子の間にあったわだかまりがこの短時間で完全に解けてしまったはずもない。宗介はいまだに吉乃に重ねた面影を振り払えずにいるし、吉乃にとっても最高の結末ではない。
ただそれでも、二人はきっと大丈夫なのだろうと思える。身振り手振りを交えて話す宗介に対し、くすりと口元を押さえた吉乃の笑顔が印象に残った。
◇
約束した20分より少し早く、宗介から何かを渡された吉乃が先に店を出て行った。
「タクシーを呼びに行ってもらった」
吉乃を目で追った響樹の前までいつの間にか歩いて来ていた宗介は、そう言って向かいに腰を下ろす。
発言の内容は事実だろう。しかしそれが二人で話をする口実なのは明白だ。
「ありがとう。そしてやはり、すまないね」
「こちらこそ、お忙しい中で時間をとっていただき、ありがとうございます」
「いいんだ。それほど忙しくなかったところに無理やり予定を入れたのだから。こちらを切り上げる口実にするためにね」
苦笑。いや、自嘲だろう。宗介は小さなため息をついた。
「……黙っていればわからない事を、どうして言うんですか?」
吉乃の顔を見るのが少し辛いと言った事もそうだが、言った事で状況を悪化させる事はあっても良化はさせないだろう。
「吉乃にも同じ事を言われたが、フェアでないと思ったというのが一番だろうか」
「別に俺……僕はそういうつもりで言った訳じゃありませんよ」
「わかっているさ。私なりのけじめと言えばいいのか、あれほどまでの事を言わせてしまった吉乃には、嘘をつきたくなかった。吉乃に一度嘘をついてしまったら、嫌っていないという言葉を受け取ってもらえないような気がした……自己満足だな」
そう言って少し長めに息を吐き出し、俯きがちの宗介はまた自嘲の表情を浮かべた。
「それに、君がいてくれれば娘はきっと大丈夫だろうと思った。話をすべきだと思ってこの店に来たのはいいが、君に幸せそうな顔を向けるあの子を見た時、現状維持を選んでしまった。私と会って踏み込んだ話をすれば、あの顔を曇らせる事になるだろうと言い訳をして……逃げたんだ、私は。向き合おうとしてくれた吉乃から」
そこまで言ってからハッとしたように顔を上げ、小さく首を振った宗介の拳から力が抜けた。
「あのまま互いに連絡を取らぬまま、次に会うときは私の父の葬式くらいだろうと思っていたからね」
「はあ……」
恐らく冗談のつもりだったのだろう、どう返答すべきかわからないでいた響樹の前で宗介が咳払いを一つし、苦笑を浮かべ、まっすぐに響樹を見据えた。
「ありがとう。君のおかげで、私は最低の親になる前に踏み止まる事ができた。いや、娘の口から自分の事が嫌いか、などと言わせた時点で親としては最低だろうが、それでも何とか、これからも吉乃の親でいる事ができる。何と礼を言っていいかわからない」
「お礼は、吉乃さんに言ってあげてください。勇気を出したのも、頑張ったのも全部吉乃さんですから」
深々と頭を下げた宗介は、呆けたような表情を貼り付けた顔をゆっくりと上げ、そして何がおかしかったのか声を上げて笑った。
「吉乃と同じ事を言うんだな。『お礼は響樹君にお願いします』だそうだよ」
「……そうですか」
嬉しいが、恋人の親から受けるからかいの視線は中々に気まずいものがある。
「いや、重ね重ねすまないね」
「いえ」
口元を押さえて笑う宗介に短く返すと、彼は気持ちを落ち着けるかのように一度深呼吸をし、響樹を見据えた。
「今更お前が何を言うと思うかもしれないが。娘を、吉乃をよろしく頼みます」
「はい。僕の、いえ。吉乃さんには俺の隣でずっと笑っていてもらうつもりです」
時には怒らせたり拗ねさせたりするだろうが、それでも。吉乃の隣は誰にも譲るつもりはない。響樹だけの場所だ。
「そうか、ありがとう。願わくば、私が今言った事をまた、何年か先の君に頼みたいと思うよ」
「言わせてみせます」
「頼もしいな」
背筋を伸ばしてまっすぐに視線を返すと、宗介はふっと笑い「さて」と立ち上がる。
「そろそろ行こうか。タクシーも着く頃だろうし、私の余裕も無くなってきた」
「はい。それから、ご馳走様でした」
「ああ」
優しく笑った宗介に促されて店を出ると、彼の言った通り二台のタクシーが店の前で止まっていた。
「ありがとう、吉乃」
「いえ、呼んだだけですから」
「そうか。それでは、また連絡する」
「はい。お待ちしています」
まだ距離感のあるやり取りをたったこれだけで終わらせ、響樹に挨拶をした宗介はタクシーへと乗り込んでしまった。
「いいのか? もっと話さなくて」
「これからまた時間は作れますから」
宗介の乗ったタクシーを見送り、吉乃は優しい声で響樹へと向き直った。ニコリと笑った顔には少しだけ寂しさが滲むのだが、「それに」と彼女は明るく笑う。
「今日はバレンタインですよ? 父親よりも彼氏が優先です」
「……お父さん、泣くぞ」
「泣かせておけばいいんですよ」
くすりと笑い、「さあ、私たちも」と吉乃は響樹をタクシーへと促す。
多分まだ宗介に直接こんな事は言えまいと思う。しかし。父親に対して気安く接するのだという吉乃なりの決意表明のような気がして、響樹は心中で「頑張れ」と彼女に向けた。
◇
夕方の退勤時間と重なったせいもあって進みの遅いタクシーの中、運転手という部外者がいるからか、手こそ繋いでいたものの二人の間に会話はほとんど無い。
車の外に降る雨はやはりまだ弱いままで、フロントガラスを往復するワイパーの速度は遅い。目を細めながらそんな弱い雨を眺めていた吉乃が、静かに口を開いた。
「響樹君」
「ん?」
「少し、歩きませんか? この辺りからなら家まで5分ほどだと思います」
「ああ、いいよ」
清算を済ませ、先に降車した響樹が傘を広げて手を伸ばすと、吉乃は「はい」と頬を少し緩めてその手を取り、体を寄せた。
「わがままを聞いてくれてありがとうございます」
「彼女の小さなわがままくらいなら何でも聞くって。それにわがままだとも思ってないし。ほら」
響樹としても二人きりになりたかったのだと、そんな意味を込めて腕を差し出すと、吉乃は「はい」と嬉しそうに微笑んで自身の腕を絡めてくれる。
「やっぱり私、雨の日が好きです」
傘に落ちる雨音の代わりか、吉乃は小さな水たまりに足を乗せてぴちゃぴちゃと水音を立てた。隣の響樹にかからぬようにそっとではあったが、彼女の心が少し浮かれている様子が見てとれて、響樹の心に温かい思いが流れ込んでくる。
「今日、響樹君のおかげで父とまた向き合う事ができました。まだまだ時間はかかると思いますけど、きっと以前のように戻れると信じています」
「ああ。俺も信じてる」
「はい。ありがとうございます」
落ち着いた声で話す吉乃の表情はやわらかい。
「因みに父とも話しましたが、今後も実家には帰らずあの部屋から学校に通います」
「いいのか?」
響樹としては吉乃と過ごす時間が減ってしまうのは歓迎できないが、それでも彼女が宗介と良好な関係を築いた結果であれば顔では笑って送り出すつもりでいた。もちろん心では泣く。
「実家は遠いですからね。たまには戻るつもりでいますけど、通うには不便です」
そう言ってくすりと笑い、吉乃は「それに」と言葉を続ける。隣を歩く響樹に上目遣いの視線を向け、どこか嬉しそうに。
「私と離れたら響樹君が寂しがってしまうでしょうから」
「俺は喜んで送り出すぞ?」
先ほど考えたばかりの事を、意地を張って口に出す。しかし吉乃はニコリと笑い――
「本当は?」
「……寂しいに決まってるだろ」
「はい。私も寂しいですから」
目を細めてやわらかく笑い、「ずっと一緒です」と響樹の肩に頭を預けた。
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