第122話 お父さん

 宣言通りほぼ10分で戻って来た宗介は自身に注がれる吉乃の視線に気付いたようで、表情こそ変えなかったものの一瞬だけ歩みを止めた。しかしすぐに自身の視線の行き場を変えてそのまま何もなかったかのように自席に戻る。


「さて、待たせたね」

「いえ。お時間を作っていただきまして、ありがとうございます」


 言葉も視線も響樹に向いていた。

 下げた頭を戻しながら吉乃を窺ってみたが、彼女はほんの少し眉尻を下げながらも、大丈夫と言いたげに優しく笑った。


「お父さん」


 落ち着いた、綺麗な声だった。それでいてきっと、並々ならぬ覚悟の下で発された声。吉乃が発する本日二度目の「お父さん」の言葉が、初めて宗介に届けられた。

 ようやく、宗介の表情が変わる。僅かではあるが驚きのような感情を含んだ顔が、吉乃へと向いた。


 頑張れと、心の中でもう一度吉乃に声をかけた。今の彼女は既に自分のしたい事を決めている。ただそれでも、そう思わずにはいられなかった。

 きっとこれは響樹が不安を覚えているからなのだろう。吉乃のしたい事を応援すると決めたその選択は絶対に間違っていないと思う。だが正しい選択が必ず最良の結果に辿り着く訳ではない。それでも――


(信じてる)


 膨らみかけた不安は全て追い出した。響樹が一番信じていなければいけないのだ。誰よりも信じたいのだ、吉乃の思いが届く事を。

 目の前の宗介をじっと見つめていた吉乃はそんな響樹の視線に気付いて優しく笑い、ふっと息を吐き出してから自身の鞄に手を伸ばした。取り出されたのは正方形の赤い包み。


「これは?」

「バレンタインのチョコレートです」

「……私に、か?」


 テーブル上で差し出された包みから視線を外さないまま、宗介は少し言葉に詰まる様子を窺わせた。響樹の印象ではあるが、信じ難いものを見たといったふうであると思う。


「ええ」

「……どうして?」


 すまし顔の吉乃に対し、チョコレートの包みに視線を落したままの宗介の様子はどこか呆けているように映った。


「娘が父親に……お父さんにバレンタインのチョコレートを渡す事に理由が要りますか?」


 きっと、世間一般では娘からバレンタインにチョコレートを貰った父親は喜ぶのだろうと、一人っ子の響樹でも想像がつく。

 だからこれは当たり前の事なのだと、私とあなたはこういう事が当たり前の関係なのだと、吉乃は真剣な表情でまっすぐに宗介を見つめている。


「どうして」


 そう口にして天井を仰ぎ、宗介は大きく息を吐き出した。吉乃に対する疑問ではなく、ただの独り言のような言葉が続く。


「……没交渉のままでも、困りはしないだろうに」


 戻って来た宗介の顔には苦笑が浮かんでいる。


「その方が、君も余計な傷を思い出さずに済む」

「そうなのかもしれません」


 苦笑から真剣なものへと表情を変えた宗介の視線を、同じ表情の吉乃が受け止めた。恐らく今日初めて、二人がしっかりと向き合った瞬間だろう。


「でも、私は……それはもう嫌です。だから……」


 そこまでを言葉に出し、しかし開かれた唇から次の言葉が出て来はしなかった。

 膝の上で握られた吉乃の手は、震えている。


「吉乃さん」


 きゅっと結んだ唇を僅かに噛んだ吉乃に声をかけ、その手を取った。彼女の父親の前でするべき行動ではなかったかもしれないが、響樹にとってそんな事は些末もいいところだ。

 吉乃に寄り添って支えて、彼女のしたい事に向けて背を押す事が、響樹の一番したい事で、一番すべき事なのだから。


「……はい。ありがとうございます」


 丸くしていた目を優しく細め、吉乃はまだ少し震えの残る手で響樹の手を確かに握り返す。


「お父さん。一つだけ聞かせてください」

「……何だろうか?」


 吉乃がすぅっと息を吸い込み、決意とともに吐き出すように、握った手にも更に力がこもる。


「お父さんは、私の事が嫌いですか?」


 きっとこれは、吉乃がずっと胸に抱き続けてきた疑問なのだろう。吉乃を避けるように家に帰って来なくなった父に、吉乃を遠ざけて安堵した父に、その後一切の連絡をしてくれなかった父に。ずっとずっと圧し潰されそうになりながらも抱えていた思い。

 響樹が抱いていた親に愛されていないという思いの更に先。自分の親に嫌われているなどという考えは、吉乃をどれだけ苦しめただろうか。


「……嫌っていると」


 それでも悲痛な様子など一切見せずしっかりと自分の父親を見つめる吉乃に、その父が長い沈黙を破った。


「言えてしまえば楽なのだろう」


 テーブルの上に乗せた拳を強く握り、吉乃と対照的に悲痛な様子が顔に浮かぶ。


「本当に情けないな、私は」


 宗介はそう口にしてちらりと響樹を窺い、そのまま吉乃に視線を戻す。


「吉乃」

「……はい」


 初めて、宗介がその名前を呼んだ。僅かに揺れた体同様、吉乃の短い返事にも少しだけ震えが混じる。


「私は吉乃を遠ざけた。連絡も生活面のサポートも、全て冴島さんに任せたままだった。正直なところを言えば、もう顔を合わせるつもりも無かった」


 吉乃は唇を結びながらも、宗介から視線は外さなかった。


「更に言えば、きっとこれは吉乃を傷付けるだろうが、情けない事に今君の顔を見るのも少し辛い」


 離婚をした妻の面影が残る吉乃の顔を見たくないと、以前聞いた話の通りだ。

 吉乃はか細い声で「はい」と頷き、顔を伏せた。彼女の手からは力が抜けている。

 宗介のあまりな言いように響樹は思わず彼を睨みつけたが、宗介の視線が響樹へと向く事は無かった。


「だが……吉乃の事を嫌ってなどはいない。説得力などまるで無いだろうが、それは事実だ」


 肩を震わせた吉乃がゆっくりと顔を上げると、宗介はぎこちないながらも優しい笑みを顔に貼り付けた。


「すまなかった。私は自分の事しか考えられず、吉乃をそこまで思いつめさせているとは考えもしなかった」


 深々と下げられた宗介の頭に釘付けになった吉乃の目が大きく開かれ、潤んだ。そして彼女は、ゆっくりと天井を仰いで目頭を押さえた。

 宗介の答えは吉乃にとってきっと満点ではない。余計に傷付けられた面もあるだろう。ただやはり、本当に聞きたかった事を聞けた事に変わりはない。


 繋いだ手を離してハンカチを差し出すと、吉乃は「ありがとうございます」と涙を溜めた目を細め、右頬に流れた一すじを慌ててハンカチで抑えた。

 頬が赤いのは照れているからではなく、本当に色々な感情が混ざった結果だろう。そんな吉乃は泣き顔を見せてしまった気恥ずかしさからか、可愛らしく恨めしげな視線を響樹に向けるので、頬が弛んだ。


「もう」と唇だけを動かし、僅かの間だけ膨らんだ頬を見せた吉乃だが、ふっと優しく笑んだ。

 響樹も同じように表情を崩して吉乃に頷くと、彼女は小さな首肯を見せ、顔を正面に向けて優しく透き通る声を発した。「お父さん」と。

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