第118話 二月十三日

 二月の中旬となる十三日。センター試験から私立大学の入試までが終わったとは言え、三年生にはまだ国公立大学の入試を残す者が多く、彼らのための特別授業も開催されている。そちらの方は教師陣含めてピリピリとした空気が流れているとの事だが、下の学年の者からすればそもそも教室が違う階にあるため申し訳ない事にあまり関係が無い。

 だから、恐らく二年生もそうなのであろうが、響樹たち一年生の周辺では週明け辺りから段々と、甘い匂いのしそうなふわふわとした空気が漂い始めていた。


「いよいよ明日だな」


 そんな空気を誰よりも醸し出している友人に辟易しながら、響樹は「ああ」と適当に相槌を打った。


「何だよ響樹、ノリが悪いな」


 悪くもなると言うものだ。週明けから「あと3日だな」「あと2日だな」と日に複数回聞かされてきた上、今日は朝からずっと海が浮かれっぱなし。朝一番に教室で挨拶を交わした第二声が「明日だな」で、休み時間ごとに同じ言葉を聞かされて帰りのHR前の今になってもまだ続いている。


「天羽お前、烏丸さんからチョコ貰えるんだからお前はもっと喜べ」


 近くにいたクラスメイトは海の味方らしい。のだが――


「俺があんなふうに浮かれてもいいのか?」

「……やっぱウザいし、天羽があれだとすんげー気持ち悪そうだからやめてくれ」


 考え直してくれたようである。釈然としない事も言われたが、確かにバレンタインを全力で楽しみにしてだらしない顔をする自分などはあまり想像したくないのも事実である。


「俺、ウザいか?」


 苦笑を浮かべつつ席に戻って行ったクラスメイトの背中を一瞥し、海は心底不思議そうな顔で首を捻った。


「ウザいぞ」


 とは言っても笑える鬱陶しさだろう。海が優月への好意を持っている事は二人を知っている人間からすれば明らかだったらしく、ようやく告白できたヘタレが嬉しさのあまり惚気ている印象のようで、悪く言う声は一切聞こえない。

 あとは元々の人徳のおかげもあるだろう。しかし当の本人は不満顔である。


「響樹だって楽しみだろ?」

「そりゃそうに決まってる」

「だったらもっとそういう顔しろよ」

「吉乃さんの前ではしてるからいいんだよ。ってかそういうのは吉乃さんにしか見せたくないし」


 明日、吉乃にとってはとても重要な事が待っている。だから響樹は言葉と態度でその後の事を楽しみにしていると彼女に伝えるのだ。


「……やっぱお前の方が大概だよな」


 ちょうど佐野教諭が教室に入って来たタイミングという事もあって海は自席へと戻って行ったが、表情は呆れ顔に変わっていた。


 HRでは明日についての話があった。一応学校という場であるので明確に許可するような発言ではなかったが、意訳としてはチョコレートを持って来るのは構わないが三年生に迷惑はかけないように、という事らしい。


 そんなHRが終わり帰り支度を済ませ、ふと視線をやった教室の扉からひょっこりと出て来た顔には見覚えがあった。明るい色をした短めの髪と人懐っこそうな笑みを浮かべた、友人の恋人。

 そしてその後ろには穏やかな微笑みを湛えながら、見惚れるほどに綺麗な姿勢を保つ少女がいた。


「海ー」

「響樹君」


 先にHRが終わったためか揃って出迎えに来てくれたらしい二人が、それぞれの恋人に呼び掛けた。表情は静と動といった対照的な雰囲気で、声の調子もやはりそんなふう。

 一方呼ばれた彼氏たちの方は二人とも動的な反応で、級友たちのからかいも気にせず即座に席を立って教室を出る。反応は同じでもせめて表情は違ってくれと、弛み切った海の顔を見ながら響樹は自分の頬に触れた。


「待ったか?」

「ちょうど今来たところですよ」


 僅かに傾げられた首と、ほとんど変わらない穏やかな笑みの中に響樹にだけわかる程度の喜色が滲む。

 響樹が「良かったよ」と返せば、吉乃が目を細めて「ええ」と小さな首肯を見せた。


「ナチュラルに恋人感だすよね」

「恋人だからな」


 少し呆れたように笑う優月に何を当たり前の事を言い返してみると、彼女の方はあははと乾いた笑いを浮かべた。隣にいた吉乃は小さく「もう」と口にしながら響樹のブレザーの裾を少し引っ張り、僅かに目を伏せていた。


「こいつ普段からこんなふうなくせに俺の事ウザい惚気野郎みたいに言うんだぞ」

「それは間違ってないからしょうがなくない?」


 そういう扱いをするのは響樹だけではなくほぼクラス全員である。そして顔の広い優月は自分の彼氏がそういう扱いをされている事を知っている。吉乃が言うにはそれでからかわれる事もあるそうなのだが、文句を言いつつも優月はまんざらでは無さそうとの事だ。

 なんだかんだで「おい優月」とじゃれつき始めた海と、楽しそうにそれを受け入れる優月は気心の知れた似合いの二人なのだと響樹は思うし、彼らを楽しそうに見つめる吉乃も同じように思っているのだろう。


「ほっといて帰るか?」

「ええ」


 穏やかな笑みを湛えたまま頷いた吉乃はそのまま響樹と一緒に歩き出し、背後から聞こえた「置いてかないで!」の声にくすりと笑ってから振り返り、「はい」と優しい微笑みを見せた。


「仲良くなったなあ」

「妬けますか?」


 ほんの少し嬉しそうにふふっと笑いながら、吉乃が響樹を見上げて首を傾げた。


「ちょっとな」


 喜ばしい事だとは思うのだが、やはり妬けてしまう。同性でかつ同じクラスの友人という響樹には得ようの無いポジションだ。

 恋人として吉乃の最も可愛らしい姿を独占している自覚はあるのだが、恐らく優月にしか見られない顔もあるのだろうなと思うと小さな嫉妬心が生まれてしまうのも仕方が無いと思う。


「それはいい事を聞きました」


 小悪魔の笑みから送られる上目遣いの視線ではあったが、ほんの少しだけ朱に染まった頬が吉乃の喜びを示していた。



 吉乃と優月が一緒にチョコレートを作るという事で、吉乃といられない響樹は一人で過ごすつもりだった。だったのだが、もう一人予定の空いた人物が家を訪ねて来た、来ている。


「響樹料理上手くなったか?」

「わかるか?」

「そりゃな。前食わせてもらった時よりもかなり美味いぞ」


 優月を待つにも多少時間はかかるだろうという事で少し遅めの時間ではあるが夕食を出したのだが、海の反応は良かった。もちろん響樹としても自信はあったし吉乃からも上達は褒められているのだが、それでも客観に近い評価が得られたのはありがたい。


「烏丸さんのためか?」

「と言うよりもプライドのためだな」

「やっぱめんど……武士道精神て感じだな」

「いいよ。めんどくさいのは自覚してる」


 もちろん結果という面からしても吉乃に勝ちたいと思っている。しかしそれ以上に、彼女が今までしてきた努力に釣り合えるだけの研鑽をしたと、自分自身で胸を張りたいのだ。もちろん吉乃の隣で。


「何て言うか、お前のそういうとこはほんと素直に尊敬するわ」

「……何だよ急に。気持ち悪いな。まあでも、礼は言っとく」


 普段の軽薄な笑みではなく柔らかく表情を崩した海は、「ひでーな」と響樹の肩を叩いた。


「罰として恋バナ1時間な」

「そんなに話す事ねーよ」

「そんなにって事は、ちょっとはあるんだな」

「……無い」

「またまたー」


 吉乃と付き合っている以上恋愛嫌いが過去の事であると、海は遠慮が無い。響樹としてはこの友人に以前は窮屈な気遣いをさせてしまっていた負い目はあるのだが、やはり吉乃との事を話すのには抵抗がある。

 気恥ずかしさと、やはり独占欲なのだろう。


「お? 何かキザったらしく笑ったぞ今」

「そんなふうに笑って……電話だ。花村さんから」

「優月?」


 海の追求からの救いはその海の恋人から。しかし用件が済んだという事であれば海の方に連絡が来るはずで、彼も怪訝そうに首を捻っている。


「しかもビデオ通話だ……もしもし」

『天羽君にプレゼントでーす』


 応答した響樹にハイテンションな声を浴びせるものの画面に当の優月は見当たらず、『本当にかけたんですか?』と吉乃の声が聞こえた。誰もいない吉乃の家のキッチンを背景に、少しだけ慌てた様子の吉乃の声と『大丈夫大丈夫』と楽観的な優月の声だけが聞こえる。


「プレゼント?」

『もう……響樹君。見えますか?』


 次の瞬間、響樹は覗き込んできていた海を突き飛ばして部屋の隅まで即座に移動した。

 画面に映ったのは吉乃で、ほんの少し眉尻を下げて恥ずかしそうに小さく手を振ってくれている。


『吉乃のエプロン姿見える?』

「ああ、よく見える。可愛い」


 エプロン姿の吉乃も、調理のために髪を結った吉乃も、何度も見ている。しかしそれに制服が加わるのは初めてだ。

 恐らく制服の優月に合わせるために部屋着に着替えなかったのだろう。ブレザーを脱いだブラウスの上から纏うエプロンが普段と違う印象を響樹に与える。

 響樹としてはブレザーを脱いだ姿すら見た事が無く新鮮で、それが家庭的なエプロンと合わさった魅力は言葉にできない。しかもあの姿で響樹のためのチョコレートを作ってくれていたのだから、感動は一入ひとしおである。


「一回転して後ろも見せてくれ」

『もうっ』

『あっ。ちょっと……』


 素直な願望を伝えると、頬を膨らませると同時に手を伸ばして優月のカメラを遮った吉乃は、『また今度、二人の時に』と小さく言ってから通話を終わらせた。


「また今度、か」

「『また今度、か』じゃねーよ。お前俺に言う事あるだろ?」

「花村さんはいい奴だな」

「わかってるなら良し」


 先ほど響樹に突き飛ばされたまま床に寝そべっていた海は、その姿勢でサムズアップを見せて笑っていた。

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