第117話 甘やかし甘やかされ(る予定)
「改めてですけど、父から連絡が来ました」
玄関での睦み合いを一度終え、上着をハンガーにかけた吉乃が響樹の向かいに座った。手櫛で髪を整えながら落ち着いた口調で話す彼女の整った顔にはいまだ僅かな赤みが残っており、本来の透き通るような肌へのお目通りはしばらくお預けらしい。
「十四日当日に時間を作ってくれるそうです」
「そうか。改めてだけど、良かったな」
「ありがとうございます。まだとりあえずは、ですけど」
会釈の後で吉乃が苦笑を浮かべる。
「大きな一歩だろ?」
「ええ。今までは連絡すら無かった訳ですからね」
照れ隠しもあるのだろうが、吉乃の笑みがどこか曖昧なものに変わっている。無理に笑っている訳ではないが、自分の感情を上手く理解できていないと、そんな印象を受けた。
無理もない話だと思う。吉乃はもちろん宗介から連絡が来た事を喜んではいるが、それを噛みしめた後に不安が残らないはずが無いのだから。
「因みに十四日ですけど、夕食までには帰れると思いますので」
「こんな時まで俺に気を遣わなくていいんだぞ」
それなのにスケジュールの共有程度の軽さ。互いの予定を伝え合う時と同じく、何の特別感も無く吉乃は言葉を発する。
「気を遣っている訳ではありませんよ。面会は17時からですし、恐らくそう何時間も話す事は無いでしょうから」
積もる話もあるだろうにとは思うのだが――
「そんなに心配そうな顔をしないでください」
「顔に出てたか?」
「それもありますけど、私が響樹君の事をよくわかっているからですよ」
「……それはどうも」
目を細めた吉乃が口の端を少し上げて首を傾げる。先ほどの意趣返しも含まれているのだろうが、口にした言葉に嘘が無い事はわかる。吉乃ほど響樹の事をわかっている人間はいないのだし、彼女がそれに自信を持ってくれている事も伝わる。
「今の響樹君は照れています」と、見れば吉乃でなくとも明らかにわかるだろう事を口にし、彼女はふふっと楽しそうに笑った。
「一応言っとくけど」
「はい?」
「もし時間が延びそうなら俺に気は遣うなよ」
ぱちくりとまばたきをした後、吉乃は目を細めて口元を押さえてくすりとおかしそうに笑う。
「ありがとうございます。心に留めておきます」
「因みに場所は近いのか?」
「駅のすぐ北側ですので、学校帰りにそのまま寄って行くつもりです」
吉乃がそう言って名前を挙げたのは喫茶店との事だが、当然行動範囲の狭い響樹は知りもしない。電車通学だった頃も、どちらかと言えばビジネス街寄りの駅北に行く事はほとんど無かった。
「そこまで一緒に行っていいか? もちろん中には入らない」
「ええと……」
吉乃のためというよりも、響樹がそうしたかった。もちろん彼女が望まないのなら素直に引き下がるつもりだが、吉乃が感じる不安を少しでも和らげる事ができるのなら、響樹はそうしたい。
そんな言葉と思いを受けてか、眉尻を下げた吉乃は僅かに首を傾け、少しの間考えるそぶりを見せた。
「せっかくですので、甘えてしまっても――」
「甘えてくれ。いくらでも」
動き出した綺麗な唇が言葉を全て紡ぎ終える前に、響樹がその先を奪った。
一瞬驚いたような吉乃だったが、すぐに優しく目を細めて小さく息を吐き、「もう、響樹君は」と優しく笑う。
「存分に甘やかしてもらう事にします。ありがとうございます」
「ああ、任せとけ」
笑いながら大きく頷いてみせると、柔らかく微笑んでいた吉乃がふふっと笑い、「その代わり」と少し妖しい笑みへと表情を変えた。
「部屋に戻ってからは私が響樹君を存分に甘やかします。先に甘えてしまっている訳ですから、お返しの意味も込めまして」
「恋人同士でそんな事気にするなって」
「ではお返しは抜きにして、私がそうしたいからそうします。響樹君は私のしたい事を応援してくれませんか?」
計算されているであろう角度で可愛らしく首を傾げ、ほんの少し眉尻を下げたわざとらしく悲しそうな表情を作ってそう言われてしまっては、もはや響樹に逆らいようはない。
「応援するに決まってるだろ? ……好きなだけ甘やかしてくれ」
「はいっ」
悲しげな様子はやはり一瞬で霧散し、整いに整った顔の上には愛おしい彼女の満面の笑みが浮かぶ。
「惚れた弱みってやつだよな、これ」
「それはお互い様でしょう?」
もう一度首を傾げた吉乃に「まあそうだけどさ」と返せば、彼女はふふっと楽しそうに笑った後、「響樹君」と優しく囁くような声を出した。
「本当は、父と会う事が怖かったんです。自分から連絡しておいて矛盾した感情だと思いますけど。いえ、今でも少し怖いんだと思います」
「それはしょうがない事だろ?」
響樹だって両親に直接会うとなれば恐らく平常心でいられない。昨日母と話してある程度の踏ん切りがついた今でさえもだ。
「ええ、そうなんだと思います。でも、響樹君がそれ以上に楽しい事と幸せな事を教えてくれますから。きっと私は大丈夫です。もし、もしも父と――」
「その先はやめとこう」
優しい微笑みを曇らせた吉乃が言おうとした事を遮ると、彼女は丸くした目でぱちくりとまばたきを一度見せ、「ええ」と眉尻を下げながら笑った。
「ありがとうございます、響樹君」
「お礼はまた当日、行動で頼む」
「もう……響樹君からも、してくださいね?」
「ああ、覚悟しとけ」
「ええ、楽しみにしています」
響樹が頷き吉乃が可愛らしく首を傾け、二人で見つめ合ったまま同じタイミングで表情を崩した。
きっと、幸せな二月十四日を過ごすと、二人で過ごして見せると、響樹は心に誓った。
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