第116話 お礼は行動で

 宗介が約束を破るとは思わなかったが、あの電話の後に吉乃から連絡は無かった。少なくとも昨日の内に宗介からのコンタクトはなかったらしい。時間についての指定はしなかったが、可能な限り早く連絡をしてやってほしいと思う。

 そう思ってしまうと中々落ち着かず、鳴らされたチャイムで響樹は玄関まで走った。


「おはようございます」

「おはよう。待ってた」


 開いたドアの向こう、普段より少し早く部屋を訪れた吉乃の表情は明るい。無理をしている様子などは一切見られず、彼女の喜びは一目瞭然と言えた。響樹がズルをしていなかったとしてもきっと気付けただろう。


(良かった)


 昨日覗かせていた暗い表情とはまるで違う笑顔に、響樹は安堵の息を軽く吐いてから吉乃をまっすぐ見つめた。


「良かったな」

「……私、そんなにわかりやすいですか?」


 もちろんわかりやすい表情をしていたのも事実だが、響樹にとっても待ち望んでいた顔なのだ。吉乃が寂しそうにする時間など1秒だって短い方がいい。そうずっと思って待っていたのだから。

 眉尻を下げて苦笑を見せた後、吉乃は響樹に上目遣いの視線を送りながら照れくさそうに前髪に触れた。僅かに尖った唇は彼女なりの照れ隠しのつもりなのだろう。


「前に言ったろ? 吉乃さんの事ならわかるって」

「聞きましたけど……響樹君は……もうっ」


 頬を朱に染める吉乃の頭に手を伸ばしてそっと撫でると、彼女は頬を緩めながらも「子ども扱いしないでください」と先ほどよりも口を尖らせてみせた。そのくせ少し手を浮かせると――恐らく無自覚だろうが――僅かに寂しそうな様子を覗かせるのだから堪らない。


「それじゃあ今度は恋人としてだ」

「え?」


 口にするのが先だったか手を伸ばしたのが先だったか、響樹は吉乃の背に手を回し手華奢な体を抱き寄せた。抱きしめた吉乃のやわらかさから少し遅れ、甘い匂いがふわりと香る。


「もう、響樹君は……玄関ですよ?」

「ああ」


 吉乃はまだブーツを脱いでいないが、一段高い所にいる響樹との頭の位置はいつもより離れている。今彼女の頭はすっぽりと響樹の胸の中。

 そんな状態から視線を上げ、至近距離からの上目遣い。吉乃は「仕方の無い恋人ですね」と眉尻を下げ、ゆっくりと響樹の胸に顔を埋めた。


「まずは一つだけど、頑張ったな」


 左腕で吉乃を抱きしめて右手で彼女の頭を撫でると、胸の中でこくりと小さな首肯を見せた吉乃がぎゅっと響樹の体を抱きしめ返す。

 ずっと辛い環境にいた吉乃がどれだけの勇気を振り絞って、致命的な断絶を迎えてしまうかもしれない恐怖を抑えて、今回宗介に連絡したか。少しはわかるつもりでいるが、その全てをわかってやる事はできない。

 だからこうやって、吉乃の頑張りに対しては響樹がいくらだって褒めて彼女に報いたいのだ。響樹はそう思いながら吉乃の髪を撫で続けた。


「響樹君」


 頭をそっと撫で、指を通して髪を梳く。どちらの手触りも大変に心地良く、報いたいという思いだけではない個人的な感情でもこうしていたいと強く思い始めたころ、しばらく続いたそんなふうな静かな時間を吉乃の優しい声が終わらせた。


「背中を押してくれてありがとうございました」

「押させてくれてありがとう、だな。こっちとしては」

「もうっ。お礼くらい素直に受け取ってください」


 胸元から顔を上げた吉乃が眉根を寄せて響樹に恨めしげな視線を送る。彼女はそうやって怒っているとアピールをするのだが、口の端が優しい曲線を描いているのでただただ可愛らしくて仕方がない。


「響樹君がいてくれなければ、背中を押してもらう前までも行けませんでしたから」

「そういう事ならありがたく礼は貰っとく。でも、できれば行動で貰いたいんだけど、いいか?」


 吉乃の記憶力を信頼しての言葉を、やはり彼女はしっかりと理解してくれたらしい。大きな目を丸くしてまばたきを一度、そしてほんのりと温かな色を帯びていた顔には更に熱がこもる。


「仕方がありませんね。響樹君がしたいのであれば、彼女として応えなければいけませんから」


 くすりと笑った吉乃はゆっくりと踵を上げ、響樹の胸にそっと手のひらで触れた。そこに少しだけかけられる彼女の体重が心地良く、徐々に近付く瞳に吸い込まれそうになりながらも、響樹は軽口を叩く。


「吉乃さんがしたくないならしなくてもいいけど」

「したくないはずが無いでしょう?」


 手のひら一つ分ほどの距離で吉乃はやわらかく微笑み、首を傾け、囁くような甘い声で「目、閉じてください」と響樹の耳をくすぐる。

 響樹がまぶたを下ろすと、ふふっと優しい笑い声が聞こえ、胸に置かれていた吉乃の手のひらの片方がそっと響樹の頬に触れた。やわらかな手のひらに次いで頬の上をつつっと滑るのはきっと吉乃の白くしなやかな指。背中にぞくりとした感覚を覚えたが、不快感ではなく期待の表れなのだと自覚するほどに心地が良い。


「響樹君」


 小さな声には甘い音色が含まれていて、肌に触れる吐息で吉乃がすぐそこにいる事を感じた瞬間には、唇にやわらかな感触が届いた。胸に置かれた吉乃の手のひらに重みと力が加わるのがわかる。

 吉乃の頭と背中に触れたままの手に、響樹もほんの少し力を入れて抱き寄せると僅かに彼女から吐息が漏れる。「ん」と、静かな、甘い、そして僅かに艶めかしい。


「お礼の気持ち、伝わりましたか?」


 甘い感触が離れていくので瞳を開けると、瞳を潤ませた吉乃が可愛らしく首を傾げていた。


「ああ、十分に」

「私はまだ伝え足りませんよ?」

「それじゃ、もっと貰っとく」

「ええ。もう一度、目を閉じてください」

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