第46話 ハイ&ロー

「今日はこのまま一緒に行きませんか」


 それは響樹が願っていた事と同じ。


「い……」


 いいのか? そう尋ねかけて言葉を止めた。

 以前同じような事を言って吉乃に叱られた事がある。あの時と同じ。

 真剣に響樹を見つめる吉乃は、いいのかなどと尋ねる必要も無く、いいから言ってくれたのだ。


 しっかりとした意思を持って僅かに響樹を見上げる視線には、しかし少しだけの怯えの色もあったように思う。

 それはそうだろう。以前響樹はそんな事をしたら互いに面倒な事になるという類の事を吉乃に言っている。吉乃からすれば響樹が嫌がると思っていても仕方のない事。

 だがそれでも、吉乃は響樹を誘った。誘ってくれた。

 だから考える必要は無かった。


「ああ、行こう」


 このまま学校に行ったらどうなるか。いくら吉乃が気にしていないとは言え、彼女の影響力は多大だ。以前は少し見られただけで噂になったのに今回はどうなる事だろう。

 吉乃は、響樹は、どんな視線に晒されてどんな言葉をかけられるのか。彼女に賛同してから思考が巡り始めるが、今はそれがどうでも良かった。


「はい」


 そう言って表情を崩した吉乃の笑みに目を奪われ、それどころではなかったから。


「行こう」


 もう一度そう口にし、断腸の思いで吉乃から目を外して歩を進める。

 それでも、僅かに頬を緩めた吉乃の喜色をこれでもかと示す表情がありありと目の前に浮かび、いつの間にか隣に並んだ彼女の顔を見られない。横目では見るが。


 吉乃も吉乃で響樹の方をちらちらと見るものの何も言って来ないのだが、気まずさなどは一切感じず居心地の良さがあるだけ。

 そして先ほど止まったところから約百メートル、普段別れる場所を過ぎたところで吉乃が小さく笑った。

 いいきっかけだと視線を向けてみると、口元を押さえた吉乃がおかしそうにもう一度くすりと笑う。


「どうかしたか?」

「いえ。過ぎてしまえば大した事が無いなと思いまして」

「大した事があるのはこの先じゃないか?」

「そうですね」


 大した事に同意を示すものの、吉乃には身構える様子など一切無くただただ楽しそうにしている。


「口裏合わせとくか?」

「天羽君が『明日からも、朝一緒に行っていいか?』と言ってくれたから、が理由ですね」

「……記憶力はもっと有効活用した方がいいぞ」

「私にとってですけど、最も有効に使っています」

「そうか」

「ええ」


 自慢げに笑う吉乃にため息をついてみせたのだが、そんな事はどこ吹く風と彼女は楽しそうに笑う。

 そしてやわらかな笑みを浮かべ、きっぱりと言い切った。


「少し煩わしいかもしれませんけど、事実と違う事を言われたのなら否定すればいいですし、妙な噂を流すような人は相手にする必要もありません」

「……大丈夫か?」


 一歩も二歩も踏み出しているとは言え、吉乃は誰かから嫌われる事を恐れていた。

 響樹は高校に入ってからの扱いで慣れてはいるが、吉乃が嫌な思いをするような事態は避けたいと当然思っている。


「大丈夫ですよ。別に悪い事をする訳ではありませんから」

「まあ、そうなんだけど」


 煩わしいかもしれないなどと言っておきながら吉乃にまるで気にした様子はなく、上機嫌に歩を進めている。

 しかし響樹の視線に気付いたのか、わざとらしく口を尖らせた。


「また私の事を子ども扱いしていますね」

「そういう訳じゃない」

「じゃあどういう訳ですか?」

「……よくわからん。でも、心配だとは思ってる」


 けっして吉乃を幼子のような庇護の対象として見ている訳ではないと思う。

 しかしだとしたら何なのだと言われると、言葉にした通りわからない。


「大丈夫ですよ。全部を全部という訳ではありませんけど、したい事をすると決めた時からある程度の事は覚悟しています」


 自分自身でもよくわからない響樹の言葉を受けて一瞬目を丸くした吉乃は、やわらかな微笑みと優しい口調で諭すように言葉を発する。


「それでももし辛かったら、その時は天羽君に慰めてもらうつもりでいますので大丈夫です」

「俺の意思は?」


 わざとらしくしなを作ってみせた可愛らしい吉乃に響樹もわざとらしくため息をつく。

 響樹としてはできれば辛い思いをする前に何とかしたいところなのだが、流石にそれでは過保護と怒られるだろう。冗談めかしてはいるが、辛ければ頼ると言ってくれている言葉は吉乃の本心だと思えたので、今はそれで我慢をしておく。


「お嫌ですか?」

「嫌な訳ないだろ」


 小悪魔の笑みを浮かべて小首を傾げる吉乃にぶっきらぼうに応じれば、彼女は「ありがとうございます」ときっちりと頭を下げ、濡羽色の髪を揺らし、自慢げな笑みを浮かべた。


「その代わり、天羽君に辛い事があれば私が何でも受け止めます」

「期待しとくよ」

「本当ですからね?」

「わかったわかった」


 ぞんざいな扱いに頬を膨らませる吉乃だったが、かけられた「おはよう、烏丸さん」の声に一瞬で穏やかな笑みを浮かべた。

 その笑みが向く方向は差し掛かった小さな三叉路の合流してきた道。声をかけてきた二年生の男子生徒が目を丸くしていた。そちらの視線が向く先は響樹だった。


「おはようございます」


 猫を被った吉乃の横で響樹も軽く頭を下げ、呆気にとられた様子の先輩をそのまま置き去りにした。


「知り合いか?」

「自己紹介をしてもらったのでお名前は知っていますけど、通学路でこうやって顔を合わせるだけですね」


 いまだすまし顔を崩さぬ吉乃がそう口にしたところで次の「おはよう」が飛んでくる。

 今まで別れていた場所から進むにつれ、当然学校に近付く訳で生徒は増えるので、吉乃に声をかける者も増える。


 吉乃はかけられる「おはよう」の言葉に対し、同じように「おはようございます」と穏やかな笑みを浮かべて綺麗な会釈で返していくのだが、相手側の反応は主に二パターン。

 普通に挨拶をしてきた後で響樹に気付いて固まる者。挨拶の段階から探るような視線を送ってくるものの結局何も言えずに終わる者。因みに基本的に前者が男子で後者が女子だ。

 男子は吉乃しか目に入っていないのだなと思うと少しおかしかった。


「視線が痛い」

「気のせいですよ」


 校門に辿り着く頃には「おはよう」の挨拶が飛んでくる事はなくなったのだが、代わりに視線が突き刺さる。

 遠巻きに「烏丸さんが……」「横の奴誰だよ」などと言った声が聞こえてくるのだが、吉乃は全く気にした様子を見せず、穏やかな笑みを響樹に向けた。


「楽しんでるだろ?」

「わかりますか?」


 感情を隠す笑みではあるが、響樹に対しては隠すつもりがないのか伝わってくる。

 小声で話しかけると吉乃も小声で返してくるのだが、内容が聞こえない周囲は楽しそうな会話にでも見えたのかざわめきが強くなり、吉乃はそれを見て口元を押さえてふふっと笑った。そこでまた周りがざわつく。

 ここでも反応は主に男女別。男子はローテンションに、女子はハイテンションに。


「あいつ、天羽だ」

「天羽って、例の?」


 そしてついにローテンション側から響樹の名前が出た。


「お知り合いの方ですか?」

「いや、多分見物に来た誰かだろ。見た覚えもないけど」

「ちゃんと覚えておくと対処がしやすいですよ」

「俺にそこまでの記憶力は無いし、男子は話しかけて来ないからな。覚えようが無い」

「男子、ですか」


 穏やかな笑みを浮かべたままにもかかわらず、吉乃が僅かに響樹に圧をかける。


「何だよ?」

「いえ。やはり一緒に登校して良かったなと」


 そう言って吉乃は穏やかな笑みを崩し、普段学校では見せないであろうにこやかな笑みを浮かべた。

 今まで響樹以外誰も見た事もなかったであろう吉乃の笑顔に周囲のざわめきが一番大きくなるのだが、その表情にまだ圧力が残っていた事は響樹以外誰も気付かなかっただろう。


 そして、天羽響樹の名前はあっという間に広まった。吉乃に勝って学年一位を取った時の比ではないくらいに。

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