第37話 十二月には何がある?

「ごちそう様。美味かった」

「お粗末様でした」


 ここ数日間で何度目になろうかというやり取りに吉乃が目を細める。


「流石に片付けくらいは――」

「ダメです。明日から固定を外す事を許可したのは今日までの静養が条件ですから」


 ニコリと笑う吉乃だが、「反論は許しません」とその端正な顔には書かれている。


「……ありがとう。頼む」

「はい。お任せください」


 素直に礼を言えば吉乃が嬉しそうな笑顔を見せてくれる。できればもう少し別の形でお目にかかりたいものなのだが、彼女は今のところ響樹の世話を焼く事が楽しいらしい。

 昨日の勉強中は甘やかすように響樹を褒めたし、今日はクッキーを食べさせてもらった。弟扱いされているような気分で少し複雑なのだが、吉乃が楽しそうに笑っているのを見るとどうしようもなく胸が温かくなるのだから、響樹としては受け入れるのに吝かではないのだ。


 それに、吉乃が昨日言っていた「気持ちの整理にもう少し時間が欲しかった」という言葉を思い出す。

 吉乃が自分をからっぽだと悩んだ時間は2年以上、そして家族との問題はその更に倍以上彼女を苦しめ続けた。それが昨日今日で解決するとは思っていない。

 だから、吉乃が必要としているその時間を少しでいいから共有したかった。



「それじゃ送ってく」

「静養をしてくれるという――」

「左腕は動かさない」


 食事の片付けを済ませてくれた吉乃は想像通り良い顔をしなかった。

 昨日と一昨日も送りは不要と言って聞かなかったが、今日は響樹も譲るつもりはなく、彼女の前でダウンジャケットを羽織ってみせた。


「それに体もだいぶ鈍ってるからな。明日から登校な訳だし、少しくらい歩かせてくれ」


 ここ2日間、とても有意義な時間を過ごした。許されるならばもう少し吉乃と話をしていたいと、そう思うがそれはできない。明日は週明け、この2日間を響樹のために使ってくれた彼女にも支度すべき事は多いはずだ。

 だから、時間にしたら15分に満たないかもしれないが、その時間を貰おうと思った。


「……わかりました。お願いします」


 響樹が吉乃のコートのかかったハンガーを手渡すと、彼女は諦めたように力なく笑って受け取った。


 昨日と同じ白いコートを纏った吉乃が紺色のマフラーを巻くと、彼女の濡羽色の髪がその中にしまわれていく。

 隠してしまうのはもったいないなと思う反面、普段まっすぐな髪が少しだけ膨らんでいる様子はどこか可愛らしく、吉乃の冬支度のようで微笑ましい。


「どうかしましたか?」

「なんかそれ、動物が冬毛でもこもこしてるみたいで可愛いなって」

「かわいい……」


 響樹の言葉を反芻してほんの少し顔に熱を集めた吉乃だったが、すぐに口を尖らせてじとりとした視線を向けてくる。


「そう言っていただけるのは嬉しいですけど、言われ方が不本意です」


 言葉の通り不満げな吉乃はマフラーの中の自分の髪に触れ、次々にその拘束から解放し、手櫛で長く綺麗な髪を整えた。

 長い髪なのにまるでひっかかる様子もなく、さらさらと間を流れるように梳いていく吉乃の細い指を見て、その美しさだけでなく手ざわりまでもが理想的なのだろうと、そんな事を考えてしまう。


「いや、なんか悪い。余計な事言って」

「別にそれは構いません。それよりも何か言う事はありませんか?」


 じっと響樹を見つめて言葉を発した吉乃は、その視線の前でゆっくりと一回転してみせ、「どうですか?」とはにかむ。


「……こっちの方が可愛いと思います」

「はい。ありがとうございます」


 恥ずかしさを我慢して本心を伝えると、吉乃は満面の笑みでそれだけ言って逃げるように玄関に向かってしまう。

 しかし、その顔に集まった熱が先ほどの比では無い事は隠せていなかった。そしてそれは響樹の方も同じだったと、鏡は敢えて見ない事にした。


 そのまま玄関を出て階段を下りて歩きアパートの敷地を出ると、普段は響樹の右側を歩く吉乃が何故か左に陣取った。

 交通量こそ少ないが車の通る方向であるので、響樹としては吉乃にそちらを歩かせたくはないのだが、彼女は譲らない。

 さり気なく位置を変えようと動いてみたが、「病み上がりな上に怪我をして左手を使えないんですから」とニコリと圧をかけてくる吉乃が先回りし、響樹にそれを許さない。


「怪我が治るまでだからな」

「ええ」


 不承不承である事をこれでもかと態度で示してみたのだが、何故だか吉乃は口角を僅かに上げて目を細め、足取りもどこか軽い。

 何がおかしいのかふふっと笑う口元からは白い吐息が漏れる。街灯から少し離れた弱い光の下にもかかわらず吉乃は幻想的な美しさを湛えており、その吐息さえも輝いて見えた。

 響樹も少し息を吐き出してみたのだがそれはただ白いのみ。空気の冷たさを皮膚の感覚と一緒に教えてくれただけだった。


「結構寒いし、だいぶ暗いんだな」

「もう十二月も半ばですから。あと1週間で冬至ですよ」


 腕を吊っているのでダウンの前を閉められず、響樹は僅かに首を竦めた。

 吉乃はくすりと笑いながら腕を伸ばし、そんな響樹の上着をそっと引っ張って肩に掛け直してくれる。「寒くありませんか?」と尋ねる彼女に「おかげ様で」と笑って返せば、その顔が明るさを増す。


「しかしもうそんなになるのか。暦の感覚がだいぶ狂ってるな」


 響樹の中では試験前でほぼ時間が止まっている。あの頃は吉乃の事しか頭になく、今が何月何日であるかよりも試験まであと何日としか考えていなかった。

 晩秋から冬への変わり目などまるで意識をしておらず、と言うよりも記憶自体が無く、その後は倒れて家にいたせいもあり眠っている間に季節がだいぶ飛んでしまったような気さえしている。


「そういった感覚も戻していかないといけませんね」

「どうすれば戻るんだろうな」


 ふふっと笑って口元を押さえた吉乃に尋ねてみれば、彼女は数秒考えるようなそぶりを見せた後、響樹に少し照れたような上目遣いの視線を向けて「たとえば」と口を開いた。


「たとえばですよ? 直近で季節のイベントなどを楽しんでみてはどうでしょうか? 日付の感覚を強く意識できると思いますよ」

「なるほど……確かに年末年始が近付けば嫌でも意識するだろうな」

「……そうですね」


 流石の提案だなと感心しながら吉乃へと視線を向けると、何故かその頬が膨らんでいた。


「どうかしたか?」

「どうもしていませんけど?」


 上目遣いが恨めしげだったが、はあと白い息を吐き出した吉乃はこの話は終わりだとばかりに首元のマフラーに顔を沈めてそっぽを向いた。

「天羽君らしいと言えばらしいですけど」と小さな、かすかに笑うような声が聞こえた後、やわらかな笑みを湛えた端正な顔が戻って来て響樹に向けられる。


「ゆっくりでいいんだと思います。焦らない方がいい事もありますから」

「まあ、そうだな。体戻す方が優先だ」


 久々に吉乃の隣を歩いてみた居心地の良さに反して体は少し重い。相当になまっている事が実感できるのだが、左腕の怪我もあってすぐに体力づくりとはいかない。吉乃の言う通り、焦っても余計な心配をかけるだけだろう。


「ええ」


 頷いてから目を細め、優しい笑みを浮かべた吉乃がもう一度響樹のダウンコートに触れて摘まみ、そっと体の内側に向けて引っ張る。

 冷たい外気がほんの少しだけ遮られ、とても温かい。


「腕に負担はかかっていませんか?」

「ああ、問題無い。ありがとう」


 気遣わしげな吉乃を安心させるために大きく頷いてみせれば、彼女は嬉しそうに笑った後で少し眉尻を下げた。


「もう少しの間、固定しておいた方がいいかもしれませんよ? 傷が開いてもいけませんし」

「重い物は持たないし体育もしばらく休む、大丈夫だろ」


 吉乃からくれぐれもと注意されていた事を守ると宣言し安心してほしいと思うのだが、彼女はまだどこか納得のいっていないような表情を見せる。


「……そうですか。でも、痛いと思ったらすぐに固定してくださいね」

「ああ、ありがとう。悪いな、心配かけて」


 感謝と謝罪を伝えると、諦めたように肩の力を抜いた吉乃が少し長めに白い息を吐き出した。

 それがやはり、とても綺麗だと思った。

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