第36話 勉強中の糖分摂取②
日曜も朝から吉乃が来てくれている。しかも前日より早く、朝食の支度から。
それなのに昨日家事をしにくいと言っていた吉乃の装いは、以前も見た事があるハイウエストの黒いロングスカートだった。
動きづらくないのかと尋ねてみようかと思ったが、それではまるで吉乃に家事をさせるためだけに来てもらっているようで憚られ、服装について言及はやめた。
それに当然スカートなど履いた事の無い響樹にはわかりはしないが、吉乃がこの格好を選んだ以上問題無いのだという信頼もある。
そしてやはり吉乃はスカートでの動作を苦にしていないようだった。濃いグレーのシンプルなエプロンを身に着け、長く綺麗な濡羽色の髪を一纏めにして料理をしている今も、動作に不自由さを感じさせない。
響樹も何か手伝うと言ったのだが、昨日と同じで吉乃にそれが聞き入れられる事はなかった。「その腕では難しいでしょうし」と吊った張本人である吉乃はにこやかに笑い、「勉強をしていてください」と響樹を机へと
流石に吉乃に自分の家事をしてもらっておきながら勉強というのは2日目になってもまだ慣れず、しかも後姿とは言えエプロンと結った髪といういつもと違う装いに集中力も奪われた。
結局、朝食前の勉強は申し訳ない事にあまり捗らなかった。
◇
「今日はクッキーを焼いてきましたので、勉強中の糖分補給としてよければどうぞ。正確に言えば昨夜ですので、焼きたてではありませんけど」
朝食を頂き少し休憩した後、昨日と同じで隣に座った吉乃は鞄から可愛らしい包みを取り出し、少し遠慮がちに響樹へと差し出した。
「いや十分だ。ありがとう、すげーやる気が出る。……最初に一枚食っていい?」
「どうぞ。でも、昼食前にあまり食べ過ぎないでくださいね」
僅かに眉尻を下げてくすりと笑う吉乃は、「どうぞ」とクッキーを一枚摘まんで響樹の口元へと運んだ。
あまりに自然なその行為に響樹も特に疑問に思わず、「ありがとう」とそのまま頭を動かし、そこでようやく事態の異常さに気付く。
「……なんでこうなってる?」
「バレましたか?」
いたずらっぽく笑い、小さく首を傾げた吉乃が濡羽色の髪を少し揺らす。白い頬はほんの僅かに色付いており、かすかに漂う甘い花の香りと相まって響樹の心拍を上げた。
それでもなお吉乃は姿勢を変えずに細い指を少しだけ前に出すので、響樹は背中ごと顔を後ろにずいっと下げて、彼女の指からクッキーを奪って口に放った。以前と同じ、バターの風味が口の中で広がり、ほどよい甘みが溶けていく。
「相変わらず美味い」
「それは良かったです」
素直に褒める感想を言ったというのに、口にした言葉と裏腹に吉乃は不満げな視線を送ってきており唇も尖っていた。
「ご不満か?」と問えば、「そんな事はありません」と吉乃は響樹にティッシュを差し出し、自分の指も拭う。
「ただ、今日は昨日より厳しくしようと思います」
「理不尽な」
吉乃はふふっと笑い、昨日と同じように響樹との距離を少し詰めてノートを開いた。
本当は、吉乃の手から直接頂き、からかってきた彼女が逆にどんな反応をするか見たい気持ちもあったのだが、流石に恥ずかしくてできなかった。あそこで気付いてしまわなければと、ほんの少し後悔がある。
◇
最初に平常心を乱されこそしたが、吉乃の宣言通りなスパルタ教育により勉強は順調に進んで行く。昼食を挟んだ後の眠気も感じる事などまるで無く、着々と遅れを取り戻した。
時々与えられる適度な甘みのおかげもあるのだが、やはり吉乃の隣にいると士気が上がる。彼女にだけは情けない姿を見せる訳にはいかないと、そう思う。
「よし。どうだ、終わったぞ」
「はい。お疲れ様でした」
窓の外はまだほとんど暗くなっておらず、吉乃の期待通りに2日間で全ての遅れ分をひとまず取り戻す事ができた。もちろん完全に自身のものにするにはもう少し時間が欲しいのだろうが。
隣の吉乃に完了を伝え、感謝を告げようとしたところで先に労いの言葉をもらった。そして彼女は「はいどうぞ」とクッキーを一枚差し出してくるので、響樹は何の疑問も持たずにそれを咥え、気付き、味わってから飲み込んだ。
「……なあ」
「何でしょう?」
首を傾げた吉乃の頬が少しだけ赤い。
「なんでこうなった?」
「勉強の途中で天羽君にクッキーを差し出してみたら、そのまま食べてくれましたので。それからはずっとああでした」
「……ずっと?」
「ええ。実は午前中からずっとです。クッキーで言うと八枚ほど」
「流石の記憶力で」
「ありがとうございます」
ティッシュで指を拭きながら嬉しそうに笑う吉乃を尻目に、響樹は比喩でなく頭を抱えた。
「途中で気付けよ俺」
「それだけ集中していたという証拠ですよ」
頭の上から吉乃の澄んだ笑い声が聞こえる。
よくよく考えればおかしかったのだ。響樹の左腕は吊られたままで、動かそうとすると吉乃に怒られた。そして右利きである響樹の右手はずっと勉強のために動いていた訳で、どうやってクッキーを食べる事ができたのか。
「可愛かったですよ」
「動物の餌付けかよ」
ふふっと笑いながらそういった吉乃に対し、顔を上げて半眼で視線を送ってみれば、彼女は「餌付け」と口にして少し考えるようなそぶりを見せた。
「餌付け、と言うよりも胃袋を掴む、と言った感じでしょうか?」
「それは意味が違わないか?」
少し照れたように笑う吉乃に言葉を返せば、彼女は「そうでしょうか?」と首を傾げた。
「大体、胃袋なら割と掴まれぎみなんだが。元の生活に戻してくれるとは言ってたけど、戻れなくなりそうで困る」
金曜の夕食から今日の昼食まで、計六食分を吉乃に作ってもらっていた。彼女の料理の腕前は本当に大したもので、「家庭料理しか作れませんが」と謙遜こそしていたが、その家庭料理はたったの六回だと言うのに既に響樹に離れ難さを感じさせている。
明日以降で数週間ぶりに作る自分の料理をどう感じてしまうか、そんな不安さえあるほどに。
「掴まれぎみなんですね」
「まあ、だろうな」
目を丸くした吉乃に応じれば、彼女はふふっと笑い立ち上がり、その白く透き通るような両頬に手を当てて響樹に背を向けた。
「それでは、夕食の準備をしてきます」
「手伝いは――」
「大丈夫ですので、お腹を空かせて待っていてください」
「社会復帰できる余地は残しといてくれよ」
吉乃には見えないながらも肩を竦めてそう言えば、彼女は美しく長い髪を翻して振り返り、「どうしましょうか?」とほんの少しの妖しさを覗かせる笑みを見せる。
「翌朝の分も作り置いておきます。同じ物で申し訳ないですが」
「気にしないでくれ、と言うか文句言う筋合いが無い。ありがとう」
「それから、お弁当箱もお借りしていきますね」
「……助かる」
「どういたしまして」
借りを作る事になるし、多少だが彼女の手間にもなるだろう。それでも、嬉しそうに笑う吉乃の厚意を無碍にしようとは思えなかった。響樹自身が食べたいと思う気持ちもだいぶ強いが。
(元の生活に戻るのは苦労しそうだな)
響樹は表向き苦笑せざるを得なかったが、心中にあったのが期待の感情である事を自覚していた。
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