家庭教師のアリーサさん

 翌日の朝は、まだ教育係の人は来ていなかった。

 わたしが仕事の間に部屋を整えるのだそうだ。


「それで、ペッレルヴォ様、アンドレアス様にはどのような荒療治をしたのですか?」

「おお、そうじゃったな。うむ。アンドレアス様をな、人の住まぬ森に一人で放置したのじゃ」

「え……放置?」


 ……放置って、ほったらかすってことだよね。


「ん?え?……どうやって?」

「どう、とは?」


 ペッレルヴォ様が笑いを噛み殺して聞いてくる。


「だって……寝るところとか、ご飯とか……」

「何も?」


 ……いや、何もって…………。


「えっと……護衛とかはどんな感じに?」

「護衛などおらん。一人じゃからの」

「………………」


 若干混乱する。いや、だって、アンドレアス様は王族だ。何かあったらペッレルヴォ様はお叱りを受けるどころの話じゃないだろう。というか、何もなくても放置した時点でどうなのだろう。


「それ……何歳くらい?」

「成人前じゃったからのう。アキより少し大きいくらいじゃの」

「………………」


 口をポカーンと開けて、しばらく固まってしまう。


「アキちゃん、アキちゃん。時間がなくなっちゃうよ」

「……ハッ」


 我に返るわたしの横で、ヒューベルトさんも我に返った気配がした。


 ……そうだろう、そうだろう。ヒューベルトさんにも信じられないだろう。


 わたしだけじゃなくてホッとする。礼儀作法としては怒られる態度だったからね。


「では、この話はまた今度じゃの」


 フォッフォッフォと笑いながらペッレルヴォ様がビチャビチャにしたパンをすするように食べる。その後に、干し肉をガシガシ食べているのを横目に見ながら食事を急いだ。






 仕事から戻ると、着替える間もなくドアがノックされた。


「はい」


 ドアを開けると、目の前に若い女の人が立っていた。後ろのリニュスさんがちょうど後ろ手にドアを閉めたところだった。


 ……リニュスさん、慌てて出てきたのかな。


 そういえば、わたしはヒューベルトさんとリニュスさんが自室に出入りするのを見たことがなかったなと気付く。


「はじめまして。わたくし、アキ様の家庭教師を勤めさせて頂きます、アリーサと申します。よろしくお願い致します」


 アリーサさんは、柔らかな色の目と髪の、朗らかな女性だった。20歳を過ぎたくらいだろうか、ややふっくらとした体型で、なんとなく、雰囲気がフレーチェ様と似ている気がする。礼を取る姿がとても自然で、落ち着いて見える。礼を取っているというよりも、気安く挨拶をされているような自然さだ。だが、手の位置も、膝を曲げる速さも完璧で、全てが優雅で見惚れてしまう。


「アキです。よろしくお願い致します」


 挨拶をして目を上げると、静かに微笑んで微かに頷く。全てがなんだか滑らかだ。


「お部屋に入れて頂いてもよろしいでしょうか?」

「あ、ど、とうぞ」


 ポケッと見惚れている場合ではない。この人はわたしに礼儀作法を教えに来た人なのだ。


「アキ様の今日のこれからのご予定を伺ってもよろしいでしょうか?」

「あ、今日は夕食以外は神呪の研究をします。とりあえず、図書館から借りてきた本を読もうと思ってます」

「承知致しました。ところで、アキ様はわたくしのことをどのように聞いていらっしゃいますか?」


 アリーサさんの微笑みは素敵だが、様付なのが気になる。絶対にアリーサさんの方が上流階級寄りだ。


「特に何も聞いてません」

「そうですか。では、まずは自己紹介を致しますわね。わたくしはフレーチェ様の姪にあたりまして、領都に住んでおります。アキ様がしばらく通われていたフレーチェ様のご実家は、わたくしの祖父母の家でもあります」


 なるほど、フレーチェ様に雰囲気が似ているはずだ。そして、庶民の上流階級として領都に住んでいるから、王族の侍女であるフレーチェ様のような黒さがないのだろう。ないと願いたい。


「結婚しておりまして、現在妊娠中でございます」

「ぇぇえええっ!?こんなところにいていいの!?」


 旦那さんは許可したのだろうか。というか、それより、体は大丈夫なのだろうか。


「フフッ、大丈夫ですわ。もう安定期に入っておりますもの。恐らく、出産はアキ様がここを出られてからになります。どうせ暇だろうからと、今回のお話を頂きましたの。わたくし、一度お城に勤めてみたかったので、今回のお話は感謝しておりますのよ」

「でも、何かあったら……」

「ここには領主様がおられるのですよ?同じ敷地内に領内で最も腕の良いお医者様がおられるのです。領都にいるより安心だと主人も申しておりましたわ」


 ……なるほど。そう言われればそうかも。


「しかも、アキ様はそのお年でもう朝から夕まで働いておられるとか。つまり、わたくしは家事をすることもなく、三食昼寝付きという環境まで頂けたのです。これは飛びつくしかありませんでしょう?」


 アリーサさんがクスクス笑いながら言う。気さくな性格そうで良かった。領都育ちなら、フレーチェ様やマリアンヌ様より話が合うんじゃないだろうか。


「わたくしのことは、アリーサ先生とでもお呼びください。領都で商うわたくしよりも、このお城で官僚の一人として働くアキ様の方がお立場は上でございます。ですが、わたくしの立場はアキ様の家庭教師。わたくしには目上の者に接するような礼を持ってご対応くださいませ」

「わかりました、アリーサ先生」

「結構でございます」


 わたしとしても、明らかにわたしより上流階級っぽい人を目下として扱えと言われるよりずいぶん気が楽だ。フレーチェ様のような謎の圧もないので、例え毎日家庭教師が一緒でも、案外、心安らかに日々を過ごせそうだ。


「では、早速お着替えを致しましょう」


 そう言うと、アリーサ先生はクローゼットからシンプルなワンピースを出してきた。


「お衣装が少ないようですね。もう少し、後ろボタンのワンピースがあった方が良いですよ」

「後ろボタン?」

「ええ。ボタンが後ろにある方がわたくしが着せやすいですし、ボタンが後ろではご自分で留めることができないでしょう?使用人を使う身分だということが周囲に分かりやすいのです」

「……相手が礼を取る目安にし易いということですか?」

「察しが良い生徒だと話が進みやすくて良いですね」


 アリーサ先生がにっこりと笑う。


「今度のお休みにでもお衣装を作りに参りましょうか」

「えっ!?えっと……衣装代はまたアンドレアス様が出してくださるのでしょうか……?」

「え?領主様?」

「はい。わたし、お城に来るためだけに衣装を用意したんです。町では普通に職人の恰好をしていたので。ですから、衣装代を全部アンドレアス様に出して頂いたのです」

「まぁ……」


 アリーサ先生が口元を抑えて絶句している。もしかしたら言ってはいけないことだっただろうか。


「あの……」

「わかりましたわ。明日フレーチェ様にかけあってみましょう。たしかに、仕事のためだけに用意された衣装ならば必要経費ですわね。とても良いことを聞かせて頂きましたわ」


 ……え、良いこと?


 サラッと出てきた単語に反応して目を上げると、アリーサ先生が微かに黒っぽい微笑みを浮かべていた。フレーチェ様ほどではないので見なかったことにしようと思う。


「次の休みだと、都の日ですよね」

「ええ。領都の服飾店へ向かおうと思いますが、ご予定はいかがでしょうか?」

「……大丈夫です」

「では、護衛にもそのように伝えておきますわね」


 都の日は家に帰る日だ。だが、正直言って、まだ帰りたくない。思い出したくない。


 ……衣装が必要だって先生が言うんだもん。別におかしくないよね。


 ダンへの連絡は、ヒューベルトさんにお任せすることにした。





「アキ様、姿勢が崩れておりますわよ」

「ページを捲る際は指先で優雅に。手のひらをベタッと付けるのは品がございませんわ」

「書き物をする際に顔を近づける癖がございますわね。それは美しくありません。背筋を常に伸ばしてペンを走らせるのですよ」


 着替えの後、本を読んで、重要そうな箇所を書き出しているのだが、一つ一つの動きにチェックが入る。


 ……さすが、フレーチェ様の姪。


 ページを捲るのに優雅とかが必要だとは思わなかった。


「常に視線を意識なさいませ。必ず、誰かに見られておりますよ」

「一人でいても?」

「ええ。使用人は案外家主を見ているものです。そして、自分が仕えるに相応しいかを常に見極めようとしています」


 なるほど。ペトラがわたしをお嬢様と呼びたくないのは、自分が仕えるに相応しいと思えなかったということだろう。それはそうかもしれないと納得する。別にお嬢様と呼ばれたいわけではないけど。


「仕えてくれる者たちが誇らしく思えるような振る舞いをなさいませ。使用人が気持ちよく家事をこなしてくれなければ、上の者は美しい衣装に着替えることも美味しい料理を頂くこともできないのですから。それは、使用人を使う立場に立つ者の義務でもございますよ」


 わたしを教育する誰の口からも、必ず上とか下とかが出て来る。それだけ、わたしには明らかに自覚が足りていないのだろう。それは分かっているのだが、そもそも自覚が必要なのかという時点でわたしは躓いて起き上がれずにいる。


 ……もともと職人の娘のわたしは、使用人を使う立場ではないんだよ。


 たった半年間のために、そこまで意識を変えてしまうと、半年後に町に戻った時に、今度はそちらで今と逆の間違いを犯してしまうのではないかとも思える。

 わたしは職人の娘という立場を捨ててここに来たわけではない。新しい立場を覚えても、それに馴染んでしまうのは怖いと思ってしまう。たぶん、そこを何とかしないと前に進めない気がする。


 ……誰か、同じような立場の人に助言してもらいたいな。


 生憎、わたしの周りには上か下かどちらかの人間しかいない。

 こういう時に、誰に相談したらいいんだろう。たぶん、ダンは下の立場を貫いていたのではないかと思う。だから、神呪師なのに偉そうにしていないのだ。


 ……わたしが感じていることを、そのまま話して良い相手がいればいいのにな。





 

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