出奔

 ダンが、殺気立った目でわたしを睨む。 

 胃がギュッと縮むような感覚を覚え、ゴクンと喉を鳴らす。冷や汗が出る。


 ダンのこういう顔を、どこかで一度、見たことがあると思った。


 相当ひどい顔色をしていたのだろう。呆然として、カタカタと小さく震え出したわたしを見て、ダンがハッと息を飲んだ。


「いや、わりぃ……」


 一瞬、顔を手で覆ったダンは、軽く息を吐いた。口調は軽くなったが、顔はまだ強ばったままだ。


「……アキ」


 一度ギュッと目を瞑ったダンが、静かに目を開き、大きく息を吸う。意を決したように、一度息を止めて、真っ直ぐにわたしを見つめた。


「ここを、出るぞ」


 一言一言区切るように、ゆっくりと息を吐き出しながら、告げる。


「え……?」


 ……なに?


 わたしは目を見開いた。さっき頭が真っ白になってしまってから、まだ戻っていない。


 …………出かける?


 こんな時間から、どこに出かけるというのか。


「荷物をまとめろ。神呪の痕跡を全て消せ」


 わたしの耳にちゃんと届いているのを確認するように、ゆっくりと言う。わたしは、いつの間にか下がっていた視線を、ゆっくりと持ち上げた。呆然とダンを見る。


 ……痕跡?消す?なんのために?


「服は、今着ているものに上着だけだ。他に必要なものはオレが準備する。作った動具は全部出しとけ。お前は、オレとお前が特定できる痕跡を全て消すんだ」


 頭の中がジンジンとしびれたような感じがする。


 ……ダンは、何を言っているのだろう?


 目まいがして、無性に、自分の呼吸が意識された。


 ……息。息して。…………吸って。……吐いて。……吸って。……吐いて……。


 考えることを、感情が拒否しているようだ。視線が揺れて、目が回る。


 ……荷物を、まとめる?にもつ?にもつって?


 頭が回らない。これではダンを困らせてしまう。


 ……かんがえて。かんがえなきゃ。なにを?なにを考えればいい?


 自分の頭なのに、自分の感情なのに。焦れば焦るほど、思い通りにならなくて泣きそうになる。浅い自分の呼吸が、いやに耳に響く。


 ぼんやり突っ立ってちゃいけないのに。ダンを困らせてしまう。


 ……でかける……出かける?何日も?糠床は?ゾーラさんは?納品、考えないと。


 よく回らない頭に、そんなことが浮かんだ。だって、約束しているのだ。


「………………どこに……出かけるの?」


 口の中がからからに乾いてくる。

 

 ……ちがう。今、きかなきゃいけないのは、それじゃない。


 何が必要なのかとか。痕跡ってどれのことなのかとか。


「いつ、戻る?」


 ……そんなこと、どうでもいいのに。わかってるのに。


 ダンが荷物をまとめろって言っている。急いでいるのに。ダンを困らせてしまう。


「……納品、どうしよう?」


 ダンが顔を歪めた。眉をひそめて、奥歯を噛みしめている。

 噛みしめた歯の隙間から、息を絞り出すように答える。


「…………もう、ここへは戻らない」


 ……荷物を、まとめなきゃ。ダンを、困らせてはいけない。


「……アキ。時間がないんだ」


 ダンが、傷ついているみたいに見えて、それを見ると、喉の奥が痛む気がした。コクンと喉が鳴る。


「頼むから、今は荷造りしてくれ」


 ……ああ、ダンが頼んでいるのは、荷造りじゃなくて、わたしが傷つかないことだ。


 遠くで、後の3の鐘が鳴っているのが聞こえた。

 いつもなら、そろそろダンの仕事が終わり、わたしは、夕飯を作り始める時間だったのに。






 翌日は、始めの2の鐘の後にようやく境光が薄くなった。足元は見えるが、薄暗い。もうそろそろ収穫となるので、農家の人たちは出歩いていない。みんな、まだ寝ている時間だ。


 ダンは、家にあった食料品や水、わたしが作った秘密動具のいくつかを袋に入れてわたしに持たせ、わたしを抱えて小走りで東へ向かう。

 職人街はもともと領都の南東にあるので、始めの3の鐘が鳴って、みんなが起き出す前に領都から出られた。


 領都の周囲を囲んでいる大きな道と、穀倉領を通って東の湖へ流れ込む川が交差するところから、今度は川沿いに、更に東へ向かう。ダンには目的地が決まっているようだった。


「ちょっとここで待ってろ」


 田んぼが広がる景色の中に、ポツンと小さな小屋があった。納屋のようで、古いが今でも使われているもののようだ。隣には厩があり、足が短いずんぐりした馬が2頭繋がれていて、飼い葉を食べている。


 ダンは、ギギッと音を立てて戸を開くと、躊躇いなく中に入って行った。

 わたしがぼんやりと馬を眺めていると、ダンが出てきた。厩へ行き、馬を一頭連れてくる。


「行くぞ」


 ダンは、荷物を抱えたわたしを馬に乗せ、わたしの後ろに自分も跨った。


「口を閉じてろ。舌を噛むぞ」


 ダンはそう言うと、馬を走らせ始めた。結構なスピードが出ている。背の低い馬だったが、わたしにとっては慣れない馬上だ。落ちないように、ギュッと鞍にしがみついていた。


 しばらく走っていると、ダンが馬を止めた。馬を降りて、わたしと荷物を降ろすと、馬に水を飲ませる。そこは、船着き場だった。馬上でずっと鞍にしがみついていたので、体がこわばっていて変な歩き方になる。


「アキ、こっちだ」


 船着き場には行かず、近くの小屋に向かう。


「タージオンはいるか?」

「お、ダンじゃねぇか。どうした?」


 ダンの呼びかけを聞いて、奥から小柄な男の人が出てきた。髭がモジャモジャだ。


「ああ、荷物と船を頼む」


 それを聞いて、タージオンと呼ばれた男の人は、ハッとしたようにわたしを見た。


「……そうか。行き先は決めてあるのか?」

「ああ、だが、言わない方がいいだろう?」

「……そうだな」


 タージオンさんは、ちょっと寂しそうにそう言って、奥の部屋から大きな背負い袋を三つと小さ目の革袋を一つ持ってきた。


「少し先に、川幅が広くなるところがある。そこで落ち合おう」


 タージオンさんが袋を二つ背負い、ダンが一つ背負う。わたしは革袋を渡された。ジャラジャラと音がする。お金だろうか。


「おおい、ちょっと出てくる。2~3日で戻るから後は任せたぞ」


 タージオンさんが、船着き場の船頭さんたちに向かって怒鳴りながら、小さな船を引っ張っているのが見えた。


 わたしとダンは、再び馬に乗り、川沿いを下る。すぐにタージオンさんに追い越されたが、しばらく進むと、川岸に立つタージオンさんが見えた。


 馬を降り、川岸の浅いところで馬に水をのませる。


「よくがんばってくれたな。助かったよ、ありがとう。もう戻っていいぞ」


 頭を上げた馬の鼻を撫でながらダンがそう言うと、馬がヒヒンと鳴いた。馬のお尻をポンと叩くと、馬は元来た道をゆっくりと戻って行った。





「湖まででいい」

「ああ」


 まず、わたしが船に乗せられた。次にダンが乗ったのを確認すると、タージオンさんは船を岸に固定していたロープを外す。船がゆっくりと動き出した。


 田んぼが広がる長閑な風景が、ゆっくりと後ろに流れていく。

 穀倉領に来て3年が経つ。いろいろと知ったつもりになっていたけれど、船に乗るのは初めてで、わたしはまだ穀倉領のことを何にも知らなかったのだなと思う。


 ……いや、でもちょっと待って。ザルトは乗ったことあるのかな?


 領都の工房の息子が、船に乗る用事なんてあるだろうか?

 何にもってほど知らないわけじゃなさそうだ。穀倉領で生まれ育ったザルトが知らないことを、わたしが知っているかもしれないのだ。これはミルレやみんなに自慢してもいいだろう。


 ……糠床はどうなるかな。


 生活用品などは荷物になるため、置いてきた。当然、糠床なんて持ってこれない。引き継いでくれるとしたら、ゾーラさんか宿屋の女将さんか庄屋さんの奥さんだろう。だが、わたしがやっていたようにできるだろうか。


 ……焼き石灰があるから、セインさんとかザルトに聞いてくれれば、手入れの仕方は分かると思うんだけど。


 問題は、糠床が腐ったりする前に、ゾーラさんたちの手元に渡るかどうかだ。

 警邏隊の人とかお役人さんが調べるのなら、ちょっと時間がかかるかもしれない。バルさん辺りが気を利かせてくれればいいのだが。腐ったりしなければいいな。


 ぼんやりと景色を眺めながら、そんなことを考えていると、瞬きした拍子に涙がこぼれてきた。


 ……あ、マズイ。


 涙が出る予定ではなかったので内心焦るのだが、涙は堰を切ったように、後から後から流れてきて止まらない。パタパタと、膝の上の袖に落ちて濡らしていく。


 ……染みになっちゃう。水分を乾かさないと。


 そんな、どうでもいいことを考えているのに、泣くようなことを考えているわけではないのに、どうしてか涙が止まらない。


 …………胸が痛い。


 ダンやタージオンさんに気付かれたくない。でも、涙を止める手段がなくて困る。涙を拭う仕草をすれば、泣いていることがバレてしまう。仕方なく、わたしはそのままの姿勢で瞬きだけで涙を散らす。後から後から溢れてくる涙が、次々と落ちて袖を濡らす。


 ダンはもしかしたら気付いていて、どうしていいか分からなくて、戸惑っているのかもしれない。


 ……ダンが自分を責めないようにしなくちゃ。


 穀倉領のことを考えていると嗚咽が漏れそうになるので、唇を噛んで、思い出さないようにといろいろ考えてみるのだが、そう思えば思うほど、みんなの顔が浮かんできて困る。


 ……もう会わないんだから。忘れてしまえたら良かったのに。


 そうしたら、こんなに苦しい思いを、しなくて済んだのに。


 それなのにやっぱりわたしの思考は、セインさんとの交渉だったり、ゾーラさんへの納品だったり、来月の収穫作業なんかに向かうのだ。


 …………全部、捨ててきたくせに。


 胸が痛い。涙が止まらない。これはダンのせいじゃない。わたしのせいだ。


 わたしは、せめて声が漏れないように、必至に息を殺し、奥歯を噛みしめていた。





 こうして、ザルトと別れたその二日後には、わたしたちはもう、穀倉領の外に出たのだった。




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