空が青いその世界は

静乃 千衣

プロローグ

「昔の空はひどく不気味な模様だったよ」


 老人は、奇妙な懐かしさを覚えながら、当時を思い出していた。


「濁った藍や茶色や鈍い紫なんかの岩絵具を何色も混ぜてまだらに塗ったようだった。そもそも太陽というものがなかったからな。境光きょうこうというものがあったが、いつ、どこから光が差すか、いつ暗くなるかもわからない。鐘の音でしか時は分からないものだったよ」


 老人が7歳の時、王が代わった。代替わりの際は災害や天変地異が起きやすいとは聞いていた。だが、まさか、これ程とは誰も思ってもみなかったろう。


 ある日突然、空が青くなったのだ。


「王様がすごい神呪師しんじゅしだったんでしょう?」


 孫娘の言葉に頷いて、少し首を傾げる。


「ああ。だが、その後すぐにまた代替わりしたから、詳しいことは分からんがな」


 空が青くなり、太陽ができ、昼と夜ができた。

 最初は慣れなかった昼夜規則的な生活だったが、数年後に王が更に代替わりする頃にはすっかり馴染んでいた。元々、いつ境光が差すかわからない不規則な生活の方が人間の体には無理があったのだろう。






 蜂を飼って暮らしているその老人の、独自の動具どうぐで作られるハチミツ飴が、王都の神呪研究所の御用達となったのは、老人の叔父の代だ。


 動具とは、神呪しんじゅと呼ばれる特殊な呪文が描かれた道具のことで、世界の外に渦巻く神の力をこの世界の内側に引き込み、動力として使うことができるようにしたものだ。地下水路から水を引き上げるのも、船を川下から川上へ進めるのも、この「動具」であり、その大本は神呪だ。


 動具がなければ、人の暮らしは成り立たない。そのため、神呪を描く神呪師は丁重に扱われる。

 こんな森の奥の寂れた小屋に住む養蜂の老人が、そんな特殊な動具を持っているなど、誰も想像もしないだろう。


 なんでも、世話を焼いてやったお礼にと、まだ子どもの神呪師が特別に作ってくれたものだそうで、同じものは二つとないらしい。それ程複雑な神呪を編み出した者が、叔父の親友だったというから、不思議な話だ。


 神呪師のほとんどは王都にいる。神呪の研究所は中央神殿直属の機関で、ここ数十年で特に目覚ましい成果を上げているため、研究者でなくとも腕の良い神呪師は王都に住み、研究所から流される新技術をいち早く習得しようと必死になっていた。

 

 新技術を習得できず、王都での競争に敗れた者は、自然と王都から離れた補佐領ほさりょうに流れる。王都で作られた動具を補佐領まで運ぶと、それだけで金がかかる上に数も足りない。

 王都では使い物にならない時代遅れの神呪技術でも、補佐領ではそれなりに需要があるのだ。農機具など、やたらと新開発されても田舎の農民にはついて行けない。


 つまり、こんな田舎の補佐領に新技術を持った新進気鋭の神呪師など、普通はいないのだ。基本、平民は領地から出ないので、そんな神呪師に出会う機会すらない。


「おじいちゃんはホントに空を見るのが好きだよね」


 倒木に腰かけて空を見上げる老人に、9歳になる孫娘がクスクス笑う。


「……空が青いからな」

「青くない空なんて、あたしには想像もつかないわ」


 少女は、老人と同じように空を見上げる。少女が生まれた時には既に、空は青く透き通り、昼は明るく夜は暗く、星々の煌めきが緩く足元を照らすようになっていた。


「おじいちゃん。あたし、神呪師になりたいの」


 この孫が、もうじきそう言いだすだろうことは分かっていた。いつ言葉にするだろうかと、そう考えていたほどだ。

 元々好奇心が強い子だが、きっかけは間違いなく、老人の話だろう。


「おじいちゃんが使ってるその動具もランプもとても便利でしょう?」


 光を作り出すランプができるまでは、明り取りには火を使っていた。だが、暗い森の中を火のランプで歩くのは難しい。

 金属の丸い筒の中で油や蝋を燃やすため、どうしても足元に明かりが届きにくいのだ。草や木の根に足を取られて油がまかれでもしたら火事になってしまう。


 森にいる間に光が落ちて暗くなったら、次に境光が差すまで真っ暗い中で待機するというのが領の決まりだった。

 だが、どうしても待っていられない場合だってある。森は十数年に一度くらいの頻度で火事になり、火事を起こした者は村にはいられなくなる。


 老人の祖父と叔父は、そうしてこの森のはずれに移り住んだのだ。


「少なくとも、あたしやおじいちゃんはその動具があったおかげで何不自由なく生活できてる。あたし、みんなにももっと便利で豊かになって欲しいの」


 叔父から昔、この動具を作った神呪師の話を聞いたことがある。大変な変わり者だったらしい。

 突然、地面に神呪を描き散らしたり、研究所の許可もなく動具を作ったり、その途中で神呪を暴発ぼうはつさせたり。実はその両親も名の通った神呪師だったのだそうだ。


 それを考えると、目の前の、世話好きで素直な孫娘には、とても無理だろうと思える。だが、それを今言ったところで納得はできないだろう。


「来月、王都にハチミツ飴を卸しに行く。俺にできるのは研究所に一緒に連れて行ってやることだけだ」


 顔を輝かせる孫娘から目をそらして、老人はまぶしい青空を眺めた。


 ……件の神呪師は、もっと嵐のように否応なく周囲を巻き込んでいったに違いない。


 世界をも変えてしまった、とんでもない神呪師の話を思い出すと、かわいい孫娘のおねだりにすら微動だにしない鉄面皮に、珍しく微苦笑のようなものが浮かんだ。



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