第3話 Kadenz

とにかく、逃げよう。




……カノンはそう思いながらも、その獣のような大きい存在はこちらに気付いていないことを"音"で確信する。

周りに生えているねこじゃらしもどきの穂を、せっせとかわいらしいキャラクターの絵があしらわれたポーチに詰め込んでいた。

というか、逃げるってどっちに?というくらいその獣の力は強大に感じた。

ポーチは筆箱が入るか入らないかくらいの大きさだったので、さっき食べた量と同じくらいしか入らなかった。







と、あらかた詰め終わった次の瞬間。

地面に生えていたねこじゃらしもどきが、次々と大きな音を立てて爆発し始めた。




「キェャァアアアアア!?!?」とカノンは、必要以上に大きな叫び声を上げた。ゲーム実況をやっていた時の癖である。叫び声が大きければ大きいほど、ウケたのだ。

カノンは急いでキーボードを持ち上げると、その場から走り抜けた……




(やられた。遠くにいるおっきいのに注意を払いすぎて、周りのねこじゃらしの"音"がどんどん大きくなっているのに気付いていなかった……)

急いでポーチの中にある穂の"音"を確認したが、枯れ木のように静まり返っていた。カノンはこんなときでも、ポーチが汚れることを気にしていた。お気にだったのだ。




森中に響いた絶叫が聞こえたのだろうか。大きな獣が、殺意を伴った不快なメロディを放ちながら、こちらに近づいてくる…それはどんどん大きくなり、もはや"調律"の力など必要ないくらいに周囲の異常が感じ取れた。





遠くに見える木が、葉っぱを撒き散らしながら砕け散る。

逃げ遅れたのだろうか、足を怪我した鳥のような生き物が、声をあげる暇もなく惨殺死体となる。







カノンは頭が真っ白になった。20秒間棒立ちの状態になり……ここであることを思い出す。





ミケが人の精神を自在に操ることができると言っていた、"調律"────それは獣や魔物にも通用するのではないか?






急いでキーボードの蓋を開け、カノンの中の魔力を込める…この時初めて、カノンは自分の中に魔力というものがあることを意識したが、不思議とカノンの魔力は周囲に漏れることなくキーボードに吸い込まれた。短い一曲のエチュードの展開を聞くように、自身の中にある魔力の流れを、カノンは"聞く"ことが出来ていたのだ。カノンの中の魔力はありふれたJPOPのコードを紡ぐように、いとも簡単にキーボードに作用し、キーボードの電源をONにさせた。キーボードの蓋がタブレットPCの液晶画面のようになり、そこにはボタンがいくつか表示された。

キーボードにある、左から「調律」「ステータス」「メッセージ」「アラーム」「プリセット」「電源」の6つのボタンのうち、一番左の「調律」のボタンを渾身の力を込めて連打した。たぶん、これを使って、チートのような精神操作を行うのだろうとカノンは判断した。









すると…何も起きなかった。







(え?これ、これって、これで、精神を自在に操れる感じのボタンじゃないの…?)







獣のようなものは、既に100m先くらいに居た。それが通った後には、抉れた土しか残っていなかった。











(私の二度目の人生…終わった────)




















カノンは錯乱する中、キーボードで泣きながらハ長調のカデンツのメロディを弾いた。「終止系」である。



(このキーボード、弾いたのこれが初めてだけど、いい音するなあ………もっと弾いておけばよかったなあ………ははっ、なんか、なにもかも、どうでもよくなってきちゃった。だって、もう、一度死んでるし。)




カノンは、完全に幼児退行していた。






「一度(ミソド)、二度(レファラ)、五度(シレソ)。属七(シファソ)、一度(ドミソ)。は~い、よくできました!!ぱちぱちぱち~~~!!!!」


3歳の時に教わっていた、笑顔の素敵な、でも怒ると怖いピアノの先生の顔を、カノンは走馬灯のように思い返していた。





(自分で決めて、自分で死んで、それで生き返ってまたすぐ死ぬなんて、それじゃ一回死ぬ前となんも変わらないよ…なんのために、転生したんだっけ……自分のことを守れなきゃ、なにも、なにもできない……)




そうして、何度その和音を繰り返しただろうか…




一度自殺をする覚悟を決めたというのに、死ぬのが、こんなにも、”悲しい”──





前が見えていなかった。手は勝手に、和音を繰り返していた。




























目の前に角を生やした筋骨隆々の獣が、カノンの3mほど先で立ち止まり、同じように涙を流していたのに気付いたのは、それを十分ほど繰り返した後だった。

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