vol.49 蝶の口づけを
蔓が脚に絡みつく。ゆっくりと動きを取られる。止まらないように払いながら行くが、足元を見た瞬間に、それと目があった。
歩みが止まる。
あなたは誰だ。
わたしは、誰だ。
白菜をいれる。続いてえのき、春菊、しらたき、しいたけ。
鍋の湯気を見上げ、在原は頬杖をつく。
「なんか久しぶりに帰ってきた気がする」
「いやあなたの家じゃ無いんですけど」
「五月ちゃんの居る場所は俺の帰る場所」
「これ、チョコレートと酒」
「すっげえスルーされた。ありがとう」
本日バレンタインデー、二月十四日。在原の誕生日である。
らしい日に産まれたな、とよく言われる。実際、香坂も思った。覚えやすく祝われ易い。
チョコレートは市販のもの。プレゼントのは、日本酒の飲み比べセットだ。在原の好きな銘柄が並んでいる。
「センスが光ってる」
「どんな意見」
ちなみに昨年はコーヒー飲み比べセット、一昨年は高級和牛だ。一昨年その和牛ですき焼きを作ったことから、何故か在原の誕生日にはすき焼きのイメージがついた。
外で良い店のすき焼きでも食べれば良いという意見は却下され、香坂の家で静かに祝福されている。
テーブルの真ん中ですき焼き鍋がぐつぐつと煮立つ。
木箱を開け、くるくると小瓶を回して銘柄を見ている在原。密かに香坂は安堵し、白菜に火が通ったか確認する。
毎年、何を贈れば良いのか迷って胃が痛い。付き合う以前は特に何も考えず万人受けするものを選んでいたが、以降も同じようなものだ。結局食べられるものになってしまうのは、残って邪魔になるよりは良いかと本能に従った。
在原が前髪をかきあげて鍋を見る。
「髪切りてー」
「切らないの?」
「切る時間がない。けど、今月中に今撮ってるやつが終わったら、休む、ぜってー休む」
二度言った。意思は固いらしい。
香坂は二度頷いて肩を竦めた。
「とか言って次の話が持って来られたりして」
「やめろ、そういうフラグは立てるな」
「売れっ子監督は大変ですね」
やめろ、と在原は額を抱える。クスクスと香坂は笑い、キッチンへと立った。冷蔵庫からビールと、冷えたグラスを持ってくる。
白菜を突く在原の前に置き、ビールを注ぐ。
「誕生日おめでとうございます」
「あ、どうもありがとうございます」
「良い29歳を」
グラスがぶつかる。良い音が部屋に響いた。
皿を洗い終えると、ソファーで在原が眠っていた。香坂の家で在原がベッド以外で眠ることはとても珍しく、思わず二度見をした。座ったまま寝ずとも、狭いとは思うがせめて横になって眠れば良いのにと、香坂は毛布をその身体にかける。
ベランダの窓を開けて、外に出る。冷たい空気が首を撫でた。
星は見えない。こちらに来てから、見えないのが普通になってしまった。正月やお盆に地元に帰ると、よく見えると思えるくらいには。
"普通"の度合いは変わっていくのだと知った。
これからも、変わっていくのだろうか。
からから、と窓が開く音。すとん、とベランダにおりた足音に、振り向くより先に後ろから抱きしめられた。
「ごめん、寝てた」
「うん」
「冷て」
在原が少し屈むと、香坂の冷たい耳が触れる。うん、と返事をしながらそれを見上げれば、熱い唇が重なる。
離れるときに睫毛が触れ合う。
「在原、好き」
香坂の言葉に、在原は朗らかに笑った。
「お疲れ様です、こんにちは」
出版社の小会議室に入ると、そこに父親世代の男性がいた。香坂は与寺と話をするのだと思っていたので、驚いて立ち止まる。後ろで詰まった与寺が香坂にぶつかり、つんのめって香坂が小会議室へと入る。
「……こんにちは」
男性の名前は和久井という。昨年末に同じようにこの会議室で話をした。
名の知れた映画プロデューサー。小説家でもあり脚本も書き、監督の経験もある。映画をよく観る人間なら、一度はどこかで目にしたことのある名前だ。
そう、どちらかといえば映画に特化している和久井だ。何故小説家として働いている香坂に会いにきたのか。
「先生、さ、座りましょう」
与寺が背中を押して椅子を勧めてくる。その姿をじっと見つめた。計画的に黙っていたのだろう、思い出したように「お茶淹れてきますね!」と逃げていく。
香坂は少し息を吐いて、椅子に座った。
「考えていただけましたか」
「そのことなんですけど」
「乗り気じゃなさそうですね」
言葉を奪われる。和久井からすれば小娘の香坂に対しても、敬語を遣う。それは和久井が香坂に注文をする側だからだ。
昨年末、和久井から脚本を書かないかと持ち掛けられた。轟賞を取った作品『月の湖』を観て、一緒に仕事をしたいと考えたらしい。監督をした洛間からも「すごい人だよ、きっと勉強にもなるし、幅も広がる」と助言を受けた。
「何か、引っ掛かる部分がありますか?」
和久井の質問に、答えを探す。いや、すぐそこにあるのだが、取ることが出来ずにいた。
与寺が何も言わずに香坂を呼んだのも、これがまたとない機会だからだろう。和久井ほどの人間から声がかかるなんて、小説家としてそんなに確立していない香坂には勿体ないほどの話だ。それを断る雰囲気を、与寺は感じ取っていたのだ。
「あたし、みたいな人間が脚本を書かせてもらうなんて、恐れ多いです」
「私が書いて欲しいと思ってるんです」
その言葉に、在原を思い出した。不意に泣きそうになった。泣いたとしても、誰も助けにきてはくれない。
「香坂さん、大学の時も脚本書いてますよね。あれも観ました」
「え」
「今は何でも動画で観られる時代ですから」
「拙い作品を……」
「いえ、面白いと思いました。在原くんが監督したんですね。すごく息の合っている作品でした」
出てきた在原の名前に、香坂はじわりと救われる。助けに来てくれないと思っていたのに、こうして来るとは。
「……在原に才能があったんです。脚本もよく直されましたし」
「じゃあ、才能のある監督を抜擢すれば引き受けてもらえますか?」
「いや、そんな」
我が儘を通したいわけではない。香坂がぶんぶんと首を振る。その様子に和久井が笑った。冗談なのか本気なのか分からない。
「こんなことを和久井さんに言っても、困るだけだとは思うんですが……。最近、全然書けないんです。雑誌で連載してる短編も今月休載にしてもらっていて、理由も自分で分からなくて。だから、すみません、話はやっぱりお受けできません」
「書けないのは初めてですか?」
和久井は淡々と尋ねる。香坂はテーブルに視線を泳がせ、次は力なく首を振った。
「そうですか。なら、脚本書いてみませんか?」
……は?
声が漏れそうになったが、寸前に止めた。話を聞いていたのか、と香坂は和久井を見る。
「小説と脚本が全く別物なのは書いたことがある香坂さんには分かると思います。案外、良い気分転換になるかもしれないです」
「え、そんなリハビリみたいな」
「そういう軽い気持ちでやってみてください。多分、香坂さんは両輪必要な人だと思うんですよ」
柔らかく和久井が笑った。両輪の意味が分からず、香坂は続く言葉を待つ。
「小説と脚本。幸い僕らは車じゃないので、どちらかが蔦に絡まって止まったとしても、もう片方が回れば動くことが出来る」
くるくると指先を回した。
車じゃないのに、車輪が必要なのか。という揚げ足を取るような質問はしないとして、香坂は尋ねる。
「その片輪で、どこへ進めば良いですか?」
一番知りたいのはそれだ。
小説だけ書いていたい。ランダムが解散し、脚本を書くことはもう無いと思っていた。元々映画とは無縁の場所にいた。『月の湖』が賞を取り、映画化が決まるまでは。
洛間に脚本を書いてほしいと言われたとき、在原の作った映画は公開されていた。勿論、香坂はまだインディーズ映画だと言われていた時に観に行った。つまらない話ではあったが、在原らしい、そしてもう一度観たい映画だった。
変化していく。全ては、変化の連続だ。
だから、脚本の話を受けた。香坂は飛び込む必要があった。映画の、在原の、父親の見る世界へ。
「それは物語が教えてくれると思いますよ」
にこりと和久井が微笑んだ。
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