vol.41 すれ違い通信
高身長の在原は、ロングサイズのベッドで眠れる有り難さを社会人になって噛み締めていた。学生の頃は通常サイズのベッドだったので、いつも足がはみ出ていた。
寝返りをうち、目が覚める。そうだ、香坂が居たのだと身体を起こす。昨夜帰ってきたままの格好で、シャツに皺が出来ている。
振り向くと、香坂が……いない。
カーテンを片面開けるが、暗くて見えないわけではなかった。本当に、形もない。
ベッドを下りる。リビングへ行くが、姿はない。時計は朝の十時過ぎを示していた。
洗面所、風呂場、トイレをノックする。最後に玄関。香坂の靴がない。
「……は?」
思わず声が漏れた。
は、帰ったのか?
いや、そもそも香坂は昨日ここに来たのか?
記憶を捏造したのではないか、と香坂の痕跡を探す。本棚の前に座り、ケーキを食べて……、皿とマグカップがない。在原が使ったものも同様に。
キッチンへ行くと、一緒に洗われ水切り網の上に乗っていた。それに安堵する。
いや、安堵している場合ではない。
在原はスマホを出し、香坂に電話しようとした。昨日もこんなことがあったな、とふと思い出す。居酒屋で、香坂が先に帰って電話をかけて……出なかった、理由。
「携帯、壊れてるって言ってなかったか……?」
恐ろしいことに気付いてしまい、在原は額を抱えた。
目を覚ますと、カーテンの隙間から朝日が覗いていた。香坂はゆっくりと身体を起こす。
……何が起きたのか。
服はきちんと着ていた。
酔っていたのか、寝ぼけていたのか、将又急にそういう気分になったのか?
昨夜のキスの理由づけに、頭はフル回転していた。
在原の交友関係は現在も昔もよく分からないほど広いが、近場で欲を満たそうとしたのか。香坂なら手近で、職場の人間でもなく、後腐れないと思ったのか。
……思ったの、だろうか。
前に『同意を得た人間以外とはしない』と言っていたが、同意を得るなら誰でも良いのか。
自分の中で出た回答が、自分のことをグサグサと刺し続ける。
……この家にあがった時点で同意と見たのかもしれない。
その答えに辿り着き、じわじわと目の縁が濡れた。
昨夜の行為より、在原にとって香坂が大学を卒業して三年経った今、そういうどうでもいい存在になっていたことに、ショックを受けた。いつか要らないと切り離される。そんな存在に。
眠る在原から目を逸し、毛布をかけた。薄暗い部屋の中を歩き、リビングへ行くと電気が付けっぱなしだった。ケーキの皿とマグカップも、だ。
手早くそれを洗い、鞄を持って玄関を出た。
オートロックの鍵がガチャンと閉まる音がして、香坂は一度上を向き、歩き出した。
『え、なんですか? 香坂さんの?』
「連絡先。携帯壊れたって言ってて、飲み会から連絡あったか?」
『ないですね』
ドニが簡潔に答える。電話の向こうで子供の泣き声が聞こえた。次女だろう。
「そっか、ごめん忙しいときに」
『いえいえ。連絡があったらまた伝えますね……喧嘩してるんじゃないですよね?』
「喧嘩はしてない」
じゃあ何をしたのか。
電話の向こうでドニが思ったのが在原にも分かった。言おうか言うまいか迷い、言っておこうと決意する。
「……彼女ができた」
『え、真澄くんに?』
「そう、俺に」
『それは良かったですね、相手は『パーパ!!』』
すぐ横にアリサがいるのだろうか、大きい声に在原はスマホを耳から遠ざける。
『すみません。とりあえず香坂さんですね』
「うん、よろしく、頑張れ」
通話を切った。はー、と溜息を吐く。本日何度目か、数えることも忘れた溜息だ。
「在原、手賀沼さんが呼んでる」
「あ、はい」
裏口の扉を少し開けて、先輩が顔を覗かせる。すぐにスマホをポケットにしまい、中に戻った。
紙の束を揃え、赤の入った文章をパラパラと捲る。香坂は無表情でそれを繰り返した。
香坂の担当編集者、与寺がその様子を観察する。
「香坂先生、怒ってます……?」
「どうしてですか?」
「顔が……難しい顔をしていたので」
言葉を選んだ。怖いので、とは言えなかった。
香坂は与寺の方を見る。
「怒ってるんですかね?」
「さあ……?」
ぼんやりとした返答に与寺は香坂よりもぼんやりした返答をした。ですよね、と香坂は頷き原稿を鞄にしまう。
立ち上がった香坂を送ろうと与寺も立ち上がる。
「今日は会社、お休みですか?」
「半休とってきました。有給消化しないといけなくて」
「お疲れ様です」
「与寺さんも」
エレベーターの前まで歩き、下りのボタンを押す。すぐに扉が開き、香坂が乗り込む。与寺に少し頭を下げた後、視線が横にずれた。「あ、乗るみたいです」という言葉と共に男が入ってくる。
反射的にボタンの方へ避ける。視界の端に映ったそのマスク姿に、ぱっと見上げた。扉が閉まる。
「あ、五月さん」
「棗」
同時にお互いの名前を呼んだ。
それから笑い合う。
「久しぶり、本当に久しぶり。てかこの前会ったのいつだろう?」
「去年の春です。就職祝いしてもらいました」
「そっか、じゃあ一年以上ぶり」
就活をするしないというタイミングで事務所にスカウトされ、今はナツメという名前で俳優をしている。最初のドラマ出演で多方面から注目され、今度写真集も出る。その打ち合わせで今日は来ていた。
一階に着き、扉が開く。
「この前のランダムの飲み会で、棗の話してた。あ、在原が棗に会ったって」
「たまにすれ違います。そういえば、一昨日五月さんの連絡先知ってるかって聞かれました」
「連絡先? 携帯でも壊れたの?」
「いや、五月さんの携帯が壊れたって言ってたような……」
あれ、違ったかな。と棗は小さく首を傾げる。ビルのエントランス付近で足を止める。外で楢のマネージャーが待っているのが見えたからだ。
一方違う理由で香坂は足を止めていた。
「まずい」
本当にまずい様子で。
「大丈夫ですか?」
「携帯壊れてたの、忘れてた」
忘れたまま、今日まできてしまった。
ああ、本当だったのかと棗は納得する。しかし、それだけの『まずい』ではない気がして香坂の顔を見る。
「どれくらい放置してたんですか?」
「三日間」
「携帯あります?」
鞄からスマホを出して楢へ渡す。くるくると手元で回し、見た。
「本体は傷ついてないみたいですけど、落としたんですか?」
「ううん。突然電源が落ちて、つかなくなった」
「本当だ」
電源ボタンを長押しするが、画面が明るくなる気配はない。
楢はSDカード挿し込み口を開け、ポケットからヘアピンを出した。何をするのかと香坂は黙って観察する。
ヘアピンの先をそこへ突き立てた。
「そこに何があるの?」
「この機種はここに強制終了ボタンがあるんです」
「あ、ついた! 棗、すごい」
スマホが香坂に戻る。明るくなった画面は一瞬で暗くなった。
「……携帯ショップ行ってくる……」
「それが良いですね」
「まだ一年経ってないのに」
「それなら補償してもらえるかもしれないです。とりあえずメモリ移せないかもしれないんで、俺の連絡先持ってってください」
「ありがとう。棗はいつもあたしのピンチに降り立つ」
スマホをしまいながら香坂は言った。その言葉に楢は少し笑う。
「それは良かったです。少しでも、役に立てたなら」
「何言ってるの、今や売れっ子俳優なのに」
香坂は静かに笑いながら言った。自分の後輩が有名になるのは見ていて嬉しい。役に立つどころではなく、誰かの希望にもなっているだろう。
楢はその言葉を受け止める。
「じゃあ、行きます」
「暇になったら飲みに行こ、皆も会いたがってた」
「はい」
軽く会釈をして楢はエントランスを出ていく。マネージャーと何か話をして、再度香坂の方を見た。
頑張れ、と言おうか迷った。
言わない代わりに手を振ると、楢も大きく振り返した。それが楢らしくなくて、香坂は笑った。
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