vol.39 人の振り見て


 香坂は駅へ一人で歩いていた。うとうとし始めたアリサを抱っこしたドニは先に帰り、在原は元演者たちと話していたので邪魔する必要もないと思い、金を幹事に渡して居酒屋を出た。



 卒業後、香坂は商社の経理部へと配属された。小説は誰かに何を言われずとも書き続けた。在原の言う通りだ。ずっとそうしてきたのだから、これからもそうして行くのだろう。

 本屋でふと目に留まった小説新人賞へ書いていたものを応募した。賞金10万の、短編小説だ。

 それが賞を取った。

 手元に、賞と10万円。顔も知らない人間に書いたものを読まれ、認められたという。

 次は書いていた長編を違う小説大賞に応募した。大賞は取ることは出来なかったが、特別賞を貰った。特別賞には賞金はなかったが、小説雑誌への掲載が決まった。

 在原とはドニの娘を会いに行ったり、映画を見に行ったりしたが、その話はしなかった。しかし、その小説雑誌が発刊された少し後に連絡があった。


『雪見窓にさ、五月ちゃんの小説載ってる?』


 雪見窓は香坂の長編小説が載った小説雑誌だ。

 珍しい名前でもないので、本名で送った。それが誰かの目に留まることもないだろうと思った。


『もしもーし、香坂五月さーん』

「……載ってます」

『やっぱり、マジか、すげえな』


 特別賞受賞作品と表紙に小さく書かれている。香坂はそれになんと返すのが正解なのか分からず、黙る。在原どころか母親にさえ、このことは話していなかった。

 後から知っても、今更何か言われることもないだろうと予想して。


『おめでとう』

「え、何が」

『特別賞貰ってんじゃん、おめでとうって。今度飯行こうぜ』


 ああ、そうか。香坂は心に詰まっていた何かが落ちた。

 在原にそう言われたかったのだ。

 それから三年。出版社から雑誌での読み切りや短編、長編連載を持ちかけられ、今も書き続けている。





「電話出ろよ……」


 後ろから鞄を掴まれ、香坂は振り向いた。駅がもう見えている。

 追いかけてきたのだろうか。在原は少し息を切らして、スマホを手にしていた。


「あ、今携帯壊れてるの」

「……マジかよ。つか、帰るなら言って」

「言ったよ。お金も払った」

「いや、俺に。置いてかれた俺の気持ちを想像してみろ」

「話してたから邪魔したら悪いと思って」


 きょとんとしながら答える香坂に悪意は全くなく、在原は溜息を吐いた。


「まあいいや、帰ろうぜ」


 駅はすぐそこだが、在原は香坂の隣に立つ。ゆっくりと歩き始める。

 春の終わりの柔らかい空気が二人を包む。


「ドニさんの二人目産まれたの聞いた?」

「ああ、聞いた。名前候補なんだっけ、エリとかアンとか」

「アン……可愛い」


 自分の子どもの名前を決めるわけでもないのに、香坂はしみじみ思った。同時に、在原は香坂が観られていないと言っていた『アン・ハッピー』という映画を思い出す。


「私の今の歳にはもうアリサちゃんが産まれてたってことでしょう? この国にちゃんと貢献してるよね」

「やめろ。俺らだって毎日働いて経済を回してんだろ」

「まあ、それはそうなんだけど」


 経済の歯車となっている自分たちを想像し、香坂は力なく笑った。

 駅に着き、改札を通る。在原も香坂も、もう職場の近くへと引っ越しており、お互い同じ最寄駅ではなくなっていた。


「五月ちゃん、明日休み?」

「うん」

「俺も。朝早い予定は?」

「特にはないけど」


 俺も、と付け加えられる。

 何かあるのか、と香坂は在原を見上げる。


「映画観に行かね?」

「今から?」

「明日誘っても帰ったら絶対来るの面倒になるのが分かる」


 在原の言うことにも一理ある。確かにこのまま帰ったら歯を磨いて風呂に入ることも放棄して眠り、明日の昼までベッドから起き上がらない自信がある。学生の頃の方が飲んでいたのに、翌日朝からバイトに行けたのが考えられない。

 香坂は了承し、深夜まで上映している映画館へと向かった。

 そして、恒例のことだが。


「岬にて」

「春の歌」


 観たい映画が分かれていた。どちらも今日公開である。


「じゃんけん」

「絶対『岬にて』が観たい。それじゃなきゃ帰る」

「え、それは狡いだろ」


 チケット売り場付近で痴話喧嘩をするカップルがいる、と傍から見ればそうだが、当人たちにとっては何を観るのか決める大事な局面だった。

 この場合、今まではじゃんけんで決めることが多かったが、香坂の敗北が割合で言うと多く、香坂もそれに気付いていた。敗れる確率が高いじゃんけんをするくらいなら、少々狡くても使うものは使う。

 絶対譲らない姿勢となった香坂に在原は根負けして、今回は香坂希望の映画を観ることになった。


 その街の岬で願い事を唱えると、願いが叶うという言い伝えがあった。主人公の女子高生は幼馴染の男子高生に好意を寄せているが、男子高生は進学を機に街から出ていってしまう。そこで主人公は岬へと行く決心をする、という話だ。

 ベタな流れだが、その健気な想いの描写と主人公役の演技力に人気は集まっていた。


 違う映画が観たかった在原だが、終わる頃には気持ちが穏やかに清らかになっていた。


「良い作品だった……特にあの駅のシーン」

「映画の中で成長してた」

「本当にそれ。最初と顔つきが変わってた」


 映画館を出ながら二人は話す。自然と駅の方へと向かったが、着いてから終電がないことを知った。

 仕方ないとタクシー乗り場まで歩き始める。


「そういえば今度アルポルト4やるらしい」

「え、そうなの?」

「またアクションに制作費かけてるって」

「……在原はもう映画作らないの?」


 タクシー乗り場が見えた。在原の足が止まり、香坂が立ち止まる。

 いつか作ると言っていた映画を。

 同じことを香坂も思っていた。

 在原だって、誰に何を言われずとも映画を作るだろうと。


「……俺は」

「あれー? 香坂さん?」


 声が被り、二人はその方向を見る。香坂が眉をピクリと動かしたのを在原は見逃さない。


「あ、どうも建沢と言います。香坂さんと同じ会社で」


 へら、と営業部で培った薄っぺらい笑みを浮かべる。急に自己紹介をし始めた建沢に、香坂は静かに威圧感を出す。在原はそれに気付いたが、出されている男は気付いていないらしい。

 おめでたい性格だ。それとも酔っているから注意力が散漫になっているだけか?

 同じ会社の人間が数人後ろにおり「あいつまたやってるよー」と笑っていた。大凡、ここらへんで飲んでいて終電をなくし、タクシーを拾おうとしていたのだろう。


「お疲れ様です、建沢さん」

「今日も香坂さんを飲みに誘ったんですけど、断られちゃって」


 香坂の声は少しも届いていない。視線は在原を向いていた。というより、身長差があり、見上げていた。


「あー、五月ちゃんの会社の。五月ちゃんがお世話になってます。在原と言います」


 営業部なんかに負けず劣らずの社交性がある在原だ。朗らかな笑みを見せながら、建沢を見下ろす。


「もう遅いですし、建沢さんも気をつけてお帰りください。俺らもそろそろ行きます」


 少しも笑みを崩さないまま、香坂の背中を押してタクシー乗り場へと進んだ。

 振り向こうとする香坂を制して、タクシー乗り場を行き過ぎる。ついてくる気配はない。

 はー、と在原は息を吐き出し、香坂の背中から手を離した。


「え、なに、誰あれストーカー?」


 香坂はちらと振り向き、建沢がいないことを確認する。在原の質問に、心底嫌そうな顔をした。


「営業部のひと」

「営業部ってあんな馴れ馴れしいのかよ。怖い」


 お前が言うな、と在原を知っている人間なら誰しもがそうツッコミをいれるだろう。

 そもそも在原も最初の頃は香坂へストーカー同然に昼休み現れていた。大津が警察に行こうか、と言っていた理由がここで漸く分かり、呆れた。




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