カンタレラの夢

芋メガネ

第1話 ニゲラの章

夢、それは眠りし人が見る幻想、幻覚。

科学的には記憶の整理と言われるが、時としてそれは深層心理を現し、無意識の願望、自覚なき欲望を映し出す。


それは時に甘美で、現実に苛む人々にとっては心の薬にもなり得る物だ。


そして薬とは同時に、毒にもなり得るという事である。

それも命を奪う程強く、それでいて甘い毒に……



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日本 東京都 某所


所々に白き雲の浮かぶ青い空。郊外のこの場所には大きな建物もなく、空を遮るものは少しの電線と生茂る木々のみだ。今日は気温も穏やかで、秋らしい過ごしやすい空気に満ち満ちていた。

街を歩く人たちも


そしてここはそんな住宅街にポツンとそびえ立つ一つの寂れた探偵事務所、"夢見探偵事務所"だ。長閑な町の中にあまりにも溶け込んだその建物は、もはや本当に探偵事務所かも定かでは無い。


私、稲村裕子(いねむら ゆうこ)はこの探偵事務所で助手を務めている。もっとも仕事は月に一回あるかないか。看板も寂れて、そもそもここが探偵事務所だと認識されていない可能性の方が高そうだ。


そんな事務所の前に青年が一人。

「あれ、藪先生」

「お、裕ちゃん」

彼は藪 敬助(やぶ けいすけ)。この街で一番大きな病院の内科医だ。

私と彼が知り合いなのは、彼がうちの常連で、この事務所の主と旧知の仲だからだ。


「あの馬鹿に仕事を頼みに来たんだが……あの野郎、インターホンを何度鳴らしても足音すら聞こえてこねえ」

「ああ……多分先生、いつも通り寝てますね」

「ったく、今年で28だっつーのにだらしねえんだから……」

「先生、一度寝るとなかなか起きませんからね……」

懐から鍵を取り出し、ノブに手をかける。

錆び付いたドアは引っ掛かりがあるが、思いっきり力を込めればそこからは勢いだ。

「相変わらずボロいですが」

「構わねえよ。そいじゃ、お邪魔するぜ」

ドアを開ければホコリだらけの階段が。人が通った後がはっきりとわかるほどに灰色に埋め尽くされていた。

そんな階段をミシミシと音を立てながら、私たちは二階へと足を運んだ。



ドアを開けば先ほどよりは幾分かマシに整えられた事務所。

奥には私と先生のデスク、手前には来客用のソファーと机が。

そして大抵先生が寝てる場所はここだ。

「あ、いました」

案の定だ。もう夏も終わり夜は秋の寒さに見舞われているにもかかわらず、この人は毛布の一枚もかけずに寝ていた。

「おーい、起きろ」

ソファを蹴って起こそうとする藪先生。

だが彼は相変わらずというか、もはや生きているのさえも分からないほどに無反応だ。


「ったく、眠りの深さは相変わらずかよ……」

「ですね……」

私は彼の額に手を当て、言葉を発する。

「夢見先生、藪先生がお見えになってますよー」

「うおあああっ!?」

飛び起きるその人。額に乗せていた手も弾かれた。

「い、稲村!!夢見てたのにお前いきなり直接話しかけてくるんじゃねえ!?」

「起きない夢見先生が悪いですよ。藪先生がいらしたんですから」

まだ軽く寝ぼけているのか、辺りを見渡し状況を確認するその人。

まさに彼がこの事務所の主、"夢見 嶺武"(ゆめみ りょうぶ)。私が事務所に来ればいつもこのように深い眠りに落ちていて、私が声をかけるまで全く目を覚まさないのだ。


「ったく、目覚めが悪いのは相変わらずか」

「ああ、スケか。何か用か?」

「何も用がなけりゃこんな寂れたビルに来るわけねえだろ」

「なんだ、喧嘩売ってんのか?もう二度と仕事受けてやんねえぞ?」

「お?うちの仕事だけで食い繫いでるお前がよく言うぜ」

「なんだとこのヤブ医者?」

私の目の前で悪態を突き合う二人。まあ昔からの仲だからこそこうも口が悪くなるのだろうが……いや寝起きで機嫌が悪いからか夢見先生の口があまりにも悪い。

「ほら、夢見先生は顔洗って歯を磨いてきてください。朝ごはんも冷蔵庫にパンが入ってますから」

「ったく、稲村に感謝するんだなヤブ医者」

「お前こそ裕ちゃんに感謝するんだな」

最後の最後まで悪態をつきながら一度部屋を離れた夢見先生。

「裕ちゃんもこんなとこで働くなんてもったいねえなぁ」

「いえ、私はここでこそ力を発揮できますから。拾ってくれた夢見先生には私こそ感謝ですよ」

「はぁ〜全く。本当にアイツの助手にしとくには勿体ねえなぁ」

「聞こえてっぞヤブ医者」

閉じられたドアの向こうから悪態で返す夢見。

なんというか、喧嘩するほど仲がいいとは言うが、ここまでくると少し不安にもなってきた。


「そういえばお仕事って……」

「ああ、いつもの用件だ。目覚めねえ患者が出たからアイツの力を借りたくてな」

念のため手帳を確認する。

大丈夫、真っ白だ。

「今日は……と言うよりは今日も何も予定がありません」

「素直にゃ喜べねえがこっちとしては助かる。アイツが準備できたら来てくれ」

「分かりました。伝えておきますね」

「おう、助かる。これが資料だ。移動がてら読んでおいてくれ」

手渡された一束の封筒。彼はそれを渡すとそのままそそくさと事務所を出て行った。


「稲村、先に資料見て後でざっくり説明頼む」

「はーい、いつも通りですね」

厳重に閉じられた封を開け資料を取り出す。

中に入っているのはある少年のカルテ。

私はそれを手に取り、彼の事を頭に入れ始めた。



時は変わり、場所は市民病院。

この街の中で一番大きな病院で、内科に外科に小児科まで全てが揃っている。

その中は清潔に整えられた廊下を看護師たちが慌ただしく駆け回り、時折救急車の音も聞こえ、静寂とは無縁の場所と思えた。


私たちはそんな病院の一室に案内される。

「こちらです」

場所は個室。中央には二つのベッドと数多の電子機器。そして片方のベッドの上で横たわるのはあのカルテの少年。

「来てくれたか」

私たちを待っていたのは先ほど事務所に来ていた藪先生。先ほどとは打って変わって白衣を纏い、厳かな様子で待っていた。

「スケ、彼がか」

「ああ」

目を閉じた少年。酸素濃度も心拍も安定しているが、自身で呼吸してる様子はない。いわゆる昏睡状態だ。


少年の名は"斎藤 雅史"(さいとう まさし)。

17歳のごく普通の高校生で、健康状態にも生活にも異常は見られなかった。

「怪我はねえみたいだが……自殺未遂か何かか?」

「ご名答。睡眠薬の過剰摂取で一昨日運ばれてきた」

改めて資料を手渡される夢見先生。彼の答えた通り少年はいわゆるオーバードーズで運ばれてきたのが記されていた。


ただ、少し私の頭にも疑問が湧いた。

「藪先生、睡眠薬のオーバードーズって書かれてましたけど最近の睡眠薬って……」

「ああ、裕ちゃんの言う通り。最近の睡眠薬は自殺する方が難しいってもんだ。それにオーバードーズって程の量を摂取してるわけじゃねえしよ」

やっぱり。藪先生が付け加えた情報で余計疑問が深まった。

ただ睡眠を取るには量が多く、死を選ぶにしては量が少ない。

何となく迷いのようなものが見えてしまったが、これだけでは真実はわからなかった。


「まあ何にせよ俺を呼んだってことは、"夢"を見てるんだな?」

「ああ。幸か不幸か彼は"夢"を見てるからな。起こしてきて欲しい」

「ったく、だからお前はヤブ医者なんだよ」

「うっせえ、救える方法があるならどんな方法でも使うのが俺のモットーよ」

夢見先生はああだこうだ言いながらも、誰も寝ていないベッドに横たわった。

「モニターは頼むぞスケ。それと稲村、いつも通り諸々頼んだぞ」

「あいよ、頼んだぜ嶺武」

「はい、先生!!」

先生はいつも通り眠るように瞳を閉じ、眠りについた。


「……よし、裕ちゃん。俺たちは俺たちのやるべき事をやるとしようか」

「私はまず、先生と話せるか試してみます」

「おう、頼んだ」

私は先生の額に手を当てる。

そしていつものように、口を開いた……


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————落ちる、落ちる、落ちる。



いや、落ちているかどうかも定かではない。

暗闇では上下も左右も感覚もなくなって、ただひたすらどこかに進んでいく。


光だ。


暗闇の先に光が見える。

ただ真っ直ぐそちらに落ちて行く。

光は次第に大きくなり、視界が開けて行く。


光を浴びて初めて気づく。

自分は落ちていなかった。ただその場所へと登っていたのだ。






光の先、そこは夕暮れ時の街。

一時停止の標識には『止まわ』、と記されている。

世界に生じている歪みをこの目で確認することで、自分が少年、斎藤雅史の夢の中に入った事を確かなものとして認識した。





俺、夢見嶺武にはある日を境にして不思議な力が芽生えた。


それは、他人の夢の中に入り込む力。

決して他人の夢に大きく干渉することはできずとも、その人の無意識下の願望や潜在意識をはっきりとこの目に捉え、記憶に残すことができる。


そして同時に彼のように昏睡状態であれど夢を見ている人間であれば、彼の意識に直接接触することができるのだ。


それが俺という探偵に与えられた、奇怪な力だ。




場所は市内の高校の正門前。一応俺の母校でもあるから大体の場所は分かった。

そして足元には光の穴。

ここに入れば俺は強制的に目覚めることができる。


基本的にここから出るということは滅多にない。

その人が目を覚ませば勝手に追い出されるし、大抵はそれが殆どだ。

ただ何度かそうではないケースにも巻き込まれたことはある。正直二度とごめんだとは思ったが————


『聞こえますか、夢見先生ー』

声が聞こえる。若干ノイズが掛かったような声。それでもすぐにわかる、聴き慣れた稲村の声だ。

「ああ、感度良好だ」

『それなら良かったです』

ここにはいない彼女との会話。


彼女もまた、特殊な力の持ち主だった。


夢の中にいる人間と会話を可能とする。

心知る人間としか会話できないという制限はあれど情報が限られる夢の中にいる俺に対し唯一外の情報を渡すことができる存在が彼女だ。

そしてそれが彼女が俺の助手たる所以でもあった。


『先生、状況を確認しましょう』

「場所は市立高校、時間は夕方……ちらほら学生がいる感じ下校時間だな」

『場所が現実にある場所で良かったですね。前は水の中でしたっけ』

「しかも対象はロボットになってたとか……どんな夢だよ本当」

いつも通りの確認。

この夢の世界ではスタートの情報が重要となってくる。

「俺は対象に接触するために動き始めるが……まずは登下校のルートを探ってくれ」

『了解です。いつも通り携帯を貼り付けていきますね』

「ああ……ただできれば剥がす時痛くないように頼む」

『はーい』

彼女の声が途切れた後、顔にぺたぺたと何かが張り付けられる感じがする。

そろそろ慣れてはきたが、やはり不快感というのは襲ってくるものだ。


ただこれに意識を割いたところでどうしようも無いと割り切り、足を一歩前へと踏み出した。



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「よし!!」

「いやこれ毎回思うけど本当にいいのか?」

「いいんです。これくらいしとかないと剥がれ落ちますから」

夢見先輩の顔に乗せたスマートフォン。落ちないように念入りに貼り付け貼り付けたガムテープ。

多分後でまた文句を言われるが、以前セロテープでやって落ちた時にはもっと文句を言われたのでこれくらいでちょうどいいだろう。

「とりあえず親御さんには俺から連絡を入れておいた。調査の方頼んだぜ裕ちゃん」

「もし何かあったら連絡ください!!」

「おうよ。廊下は走るなよ」

彼に会釈をし、病室を後にした。


私はこちら側でできる事をする。

中で活動する先生の手助けをする、それが私の助手としての仕事だ。



夢の中というのは、どうしても記憶や情報が偏るらしい。


夢というのは人の記憶を元に作られる。

ただ記憶というのはどうしても人の主観が入り混じり、歪みや欠落などが生じる。


そしてその歪みや欠落は世界を象る際にも影響が大きいらしい。下手をすれば奈落の底に落ちることもあるとか。


だからこっち側で私は、少年が確かに記憶している、夢の中でも確かなものを探して先生に伝える。

今回は特に夢の世界が現実の場所を元に作られているのならその場所を、少年の事を調査する。

そして夢の中にいる先生に唯一伝えられる私がそれを伝える。


まずは先生の現れた学校へと向かってみるとしよう。


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…………危なかった。


具体的にはスタートからわずか三分で奈落の底に落ちるところであった。


足を踏み出した場所は確かに見かけはそこに地面が存在していたが、あくまでもこの世界では見かけのみ。

記憶が定かで無い場所はぼやけ、脆く、たとえその道がはっきりとしていても、そこが落とし穴の可能性もある。

そして一歩踏み間違えれば誰にも認識される事のない、奈落の底へと落ちていくのだ。


奈落に落ちたところで死ぬわけではないが、自分の体を無理やり起こすか夢の主が起きるまであの先ほどの空間に放り出されるだけだ。

まあ落下するあの感覚は得意ではないしロスタイムも多くなるから、できれば落ちたくはないものだ。


『聞こえますか先生。こっちも先生と同じ場所に着きましたよ』

顔に張り付いてあるだろう携帯を通じて聞こえる声。稲村の声だ。ノイズは増しているが、問題はない。

「よし、じゃあこっちも移動を開始していくぞ」

『はい、逐一連絡を取りながら移動しましょう』

恐る恐る一歩を踏み出す。

ああ、ここは大丈夫なようだ。

二歩目、既にここは崩れかけのようだ。

『とりあえずこっちは道路の方には出ましたよ』

そして十分に用心しながら足を何度も前へと運び、ようやっと彼女と同じ場所に出た。

「俺の方も道路に出た。こっちの方は崩壊が始まってる。少しペースを上げて探索して行こう」

『分かりました。まずは右折して駅前の方に向かいましょう』

また歩み出す。

用心に用心を重ね、彼女と同じペースで彼の通っただろう道を歩み始めた……





『どうですか、こっちの道は』

「こっちは崩れかけだ。恐らくこっちじゃ無いんだろうな」

『じゃあルートBのほうに向かいましょう』

かかとを返し来た道を戻る。

夢の世界では、夢の主の意識が近いほど世界が確かな物となる。裏を返せば世界が不安定な場所は主の場所から離れたという事だ。


「っと……いきなり場所が変わりやがった」

加えて夢の中では、時折道や場所のつながりなどといったものも狂っている事がある。

具体的にはその場所の記憶があまり思い入れがなかったり、定かで無い場所は空間のつながりが曖昧になるのだ。

『近くに何が見えます?』

「花屋だ。ああ、"Aster"だ」

『ああ、Asterさんですね。すぐ向かいますね』

「……いや、その心配はなさそうだ」

20mほど先に4人の高校生の姿。

1人は彼、斎藤雅史だ。


「対象を見つけた。おねむのガキンチョをさっさと起こしてくる」

『分かりました。でも気をつけてくださいよ』

駆けた。

「余計な心配すんなって」

『いやだって先生、油断した時によく踏み外してますから』

「あっ」

瞬間、またも足元が抜けた。


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何となく声を聞く限り足を踏み外したようだが、まあ大丈夫だろう。


そして花屋、Asterの前に着いた。

「やあやあ、裕ちゃん」

「あ、霧間さん!!」

声をかけたのは花屋の店主の"霧間 林太郎"(むま りんたろう)さん。

夢見先生や藪先生とは昔からの仲との事で、それでいてとても穏やかで優しい好青年だ。


「今日も夢見先生のお手伝いかい?」

「はい……今日も今日とて駆け回ってます」

「相変わらず大変そうだね……」

「まあ、その分ちょっと給料はいいですから……」

「夢見先生はちゃんと寝てる?」

「いつもソファーで寝てますよ。本当寝すぎなくらいに」

「相変わらずかぁ……ま、睡眠にいい花があるからもし寝れなくなったらラベンダーを買いに来るようにでも言っといて」

「わかりました!!」

「じゃあ、頑張ってね」

「ありがとうございます!!」

会釈しその場を去る。


『おい、稲村』

電話から声が聞こえた。夢見先生の声だ。

「あ、先生。無事で何よりです」

『無事じゃねえよ……ギリギリだった……』

「いつもの事じゃないですか」

大方ギリギリで確かな足場を掴んだのだろう。

何度かこの仕事をやったおかげで慣れてしまった。

「そういえば、Asterの店主の霧間さんが寝れない時は花でも買いに来てと」

『ああ……うん、分かった。いつか寝れなくなったら行くって言っといてくれ』

「分かりました。今日の夜に行くって伝えておきますね」

『誰が行ってたまるか』

こうも悪態をついてはいるが、旧知の仲だからという事もあるからか花を買う時はいつもあの店だし、なんならうちの事務所の唯一の彩りとなっているラベンダーはあの店のものだ。


『とりあえず俺は斎藤少年に声をかける。そっちは家に行って親御さんに報告する準備でもしといてくれ』

「分かりました。先生ももうヘマしないでくださいよ」

『ああ、心配すんなって』

通話が切れる。

私は少年の家へと向かう。


ただこの時、何かが胸に引っかかっている、そんな気持ちに襲われていた……



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流石に、いい加減足元に注意を払いながら少年たちに近づく。

そして彼の肩を叩き、声をかけた。

「おい、斎藤雅史少年だな?」

『……はい、そうですけど』

物腰柔らかそうな少年。他の3人もこちらを向いてはいるが、夢の中の存在だ。気に留める必要もない。とにかく早く起こさなければ。

「ここは夢の世界だ。早く起きねえと死んじまうぞ」

少しオーバーな表現ではあるが、最終的に起きなければ死ぬのは事実だし、これくらい言葉を強くしておいた方が主が夢に気づきやすいのは経験的に知ってた。

これで仕事は無事終わ————

『知ってます。ここが夢なのも、僕が死んでしまうのも』

…………は?

『僕は……帰りません……!!』

その瞬間少年は1人の少女の手を取りそのまま逃げ去った。

「くそっ……待て……!!」

追おうと駆けた瞬間、また踏み外しかけた。

少しでも用心しなければすぐに踏み外す不安定さ。踏み外さないにしてもヘタを打てばどこか知らぬ場所に飛ばされる可能性もある。


次第にその背は小さくなり、気がつけばもう見失っていた。

『大丈夫ですか、夢見先生』

いつもの口調で声をかけてくる稲村。

ただ今だけはタイミングも最高としか言いようがなかった。

「稲村……予定変更だ」

『何かあったんですか?』

「斎藤少年はただの昏睡じゃねえ。"病夢"だ」

『……分かりました。すぐに藪先生に連絡して斎藤少年宅に向かいます』

「ああ、俺もこっちの方で斎藤邸に向かってみる」


彼女の声が聞こえなくなった所で思わずぼやいた。

「……ったく、めんどくせえ案件だ」




病夢、それは現代医学では認められてない病の一つ。というよりはこの名前さえももはや仮の名前で、本当に病かどうかもわからないものだ。


人が、夢を夢と認識しながらも目覚める事を拒絶し、甘い夢に溺れ緩やかに死んでいく病。


夢は人の心の傷を癒す傷薬にも、深層心理の焦りを気付かせる気付け薬にもなり得る。

だがこれは人の心の傷につけ込み、静かに染み渡っていく甘い毒だ。


この病を治す術は一つ。


夢の宿主がその夢から抜け出したいと、現実に帰りたいと願うのみ、だ。


故に探さなければならない。

彼が何故この世界に残りたいか。

そして彼を現につなぎとめる、小さな碇を。


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斉藤邸 前


『……なるほどな、そりゃいきなり心拍数も上がるわけだ』

電話の向こうで藪先生が納得したような口調で答えた。

『今は安定してるが、どんどん衰弱して入ってるのが現状だ。正直どれくらいまで持つかは分からねえ』

「そうですか……」

『改めて親御さんには連絡したが……信じてもらえるかは裕ちゃん次第だ。頼んだぜ』

「ありがとうございます……」

電話を切る直前、向こうが途端に慌ただしくなった。恐らく事態は私たちが思ってる以上に深刻なのだろう。そして藪先生も、夢見先生も彼を救う為に全力を尽くしているのだ。


私が何もできなければ、なす術もなく少年は死んでしまう。


だから私も全力を尽くすしかない。

信頼してもらえるよう、一つでも多く手がかりを得られるように。

「えっと……貴方が……」

「はい、夢見探偵事務所の稲村と申します……」




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場所は斉藤邸。

夢の中で俺という人間は認識されないからこそ、ここでの調査は楽なものだ。

もっとも、主観の入り混じった記憶だからこそこちら側だけではどうしても情報は限られてしまうが。

『先生』

稲村の声。予定通りだ。

「聞こえている。俺も着いたが、そちらの首尾は?」

『一応事情を説明して聞いてはもらえましたが……』

「……ま、こんなの信じてもらえない方が普通だからな。調査にこぎつけただけ良くやったよ」

『ただ時間が……』

「わかってる。雅史少年の部屋を見ていくぞ」

『はい』


二階の彼の部屋。

本棚とベッドと机と、実に簡素な部屋だ。

部屋のなかは整理整頓され、彼の真面目さや几帳面さが窺える。無駄な物一もつとして放られず。机に向かってみれば、どこかの屋上から撮っただろう夕日の写真もはっきりと写っている。

やはり本人の部屋だけあってこの場所に不安定なものはとても少ない。


ただそれでも、いつもいる部屋であっても多少の揺らぎや歪みというものは存在する。

特に写真や本棚といったところにはどうしても消せないものとなるのだ。

具体的には写真なら背景や友人の顔。書籍ならロゴや出版社の欄。そういったところは大抵ぼやけ霞む物である。

裏を返せば、ハッキリと映るものはその人にとってそれだけ大切なものである証拠なのだ。


そしてやはりというべきか、手がかりはそこにあった。

「稲村、本棚の下から2段目。中学の卒業アルバムがあるな」

『えーっと……はい、見つけました』

「それの14ページ目の……集合写真、向かって右側のオレンジ色の髪飾りをつけた女子生徒がいるはずだ」

『はい、この子が……』

「多分、彼をこっち側に引き留めてる理由だろうな」

ああ、あの時彼が手を引いた少女だ。


ただそれでも夢であることを理解し、それでもこの世界に留まろうとするにはそれなりの理由があるはず。

「稲村、この少女について親御さんに聞いてみてくれ」

それと同時に目に留まった青い花弁の可愛らしい花。彼の部屋には少し似つかわしくないとも思えたが、ぼやけてすらいないから最近買ったもので、余程思い入れがあったのだろう。

「それと机の上にある花瓶の花についても少し気になった。確認しておいてくれ」

『花瓶、ですか?』

「ああ。花瓶だ」

『……そんなの、ありませんよ?』

どういう、事だ?

いや、確かに夢と現でそれなりに差異は現れるがこれは————

『花の特徴を教えてください先生。もしかしたら霧間さんなら何か分かるかもしれないです』

「あ、ああ。そうだな。それも併せて調査頼む」

『分かりました。また何か分かり次第声をかけますね』

「ああ、頼んだ」


部屋の中に一輪、確かにはっきりと映る青い花。

夢と現を分けたそれは綺麗で、そのはずなのに、得体の知れない恐怖と違和感に襲われていた。


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「この子は……竹谷紅葉ちゃんだ……。あそこのマンションに住んでてね、小さい頃から雅史と仲が良くて……今年から付き合ってるんだって言ってたよ……」

そう答えてくれた雅史くんのお母さんは、とても浮かない顔をしていた。

「紅葉さんに、何かあったんですか……?」

「……紅葉ちゃん、先月事故で亡くなったんだよ」

「そう……なんですか……」

何も言えなかった。

何故彼が眠りに落ちたのか、そして目覚めることを拒んだのか納得がいってしまった。だからこそ、それ以上の言葉を続けることはできなかった。

ただ感傷的になってる暇はない。

刻一刻を争う以上、新たな手がかりを見つけなければならないのだ。


「ご協力、ありがとうございました」

「あの、探偵さん」

帰り際に声をかけられた。

「雅史は……帰ってきますか……」

一瞬、言葉に詰まった。

絶対に帰ってくる、なんて言えない。でも帰ってこないなんて言いたくない。

だからせめて私が答えられる言葉で返すしかなかった。

「夢見先生も藪先生も、雅史くんを救おうと全力を尽くしてくれています……。その人たちを信じてください……」

頭を下げる。

私にはそれしか出来ないから。私では、彼を救うことは出来ないから。

「……すみません、ありがとうございます」

頭を下げるその人。

私も会釈し、見送られながらこの場所を離れる。


私には少しだけわからないことがあった。

何故、彼は死を選べるのだろうか。

大切な人を失って、その悲しみを知って、何故周りの人に同じ悲しみを振り撒くような選択をしてしまったのか。


『ごめんな、姉ちゃん』


どれだけ考えても、私には理解できなかった。



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ドアの前に立つ。表札には竹谷と書かれている。

外に見える夕日は町全体をオレンジ色に染め、水彩画のような景色だ。

『先生、紅葉さんの自宅の前に着きました』

「ここから先は俺にも入れない」

ノブに手をかけドアを開いてもそこから先には進めない。

きっと彼はここから先を見たことは無いのだろう。


ここまでの記憶は、確かすぎるほどに確かであったが。


「稲村、そこからはお前に託すことになりそうだ」

『……分かりました』

少し自信なさげに答える稲村。

「大丈夫だ。少なくともお前は俺よりそっちに向いてる」

『ありがとう……ございます』

俺の言葉など気休め程度にしかならないだろうが、それでも俺からすれば事実だ。


「俺はこのまま少年に接触する」

『彼の居場所、分かったんですか?』

「ああ、この場所に来て確信できた」

水彩画とも思えたこの景色は、彼の机の上の写真にあったようで、少しだけ違った。

ただ、だからこそ確信できた。

「じゃあ、頼んだぜ」

『はい……。あと霧間さんから花のこと聞いてきましたが————』


なるほど、やっぱりそういう事だったか。


「有益な情報収集、いつも助かる」

『せめてもの恩返しです』

「あれはあのヤブ医者が俺に仕事を頼んだからしただけだ」

『それでもですよ、先生』

「ったく、じゃあ勝手にしてくれ。俺は俺のやることをやってくるよ」

彼女にした事なんて、正直俺からすれば当たり前のことだ。


————むしろ俺からすれば、俺は恨まれても仕方ないというのに。


「さて、俺は行くとしますかね……」

俺は俺のなすべき事をするために、コンクリートの階段を徐に昇った。


—————————————————————


「帰ってください」

まあ、正直予想はついていた。

「私達はようやっと紅葉の死を乗り越えられたんです。そんな、それなのに意味の分からない事で引っ掻き回さないでください……!!」

娘を失った母からすればその通りだ。

こんな得体の知れない、夢病なんてものを説明されて納得出来るわけもない。


それでも、これ以上の犠牲を出すわけにはいかないのだ。

「信じてもらえないのは重々承知しております……。しかし、雅史くんを救うには……彼を現に戻すには紅葉さんとの繋がりが必要なんです……」

頭を下げる。それでどうにかならないのは分かってる。

大切な娘を失ったんだ。こんなので心を許してもらえるわけがない。


けどそれは彼も、そして"彼女"も同じだ。

「お願いします……これ以上誰かにとって、紅葉さんにとっての大切な人を死なせるわけにはいかないんです……!!決して紅葉さんの死を弄ぶような真似はしません……だから……!!」

私にはこう言うことしかできない。

それでも、失う恐怖は知っているから————


「……分かりました」

「……!!ありがとうございます……!!」

深く、深くもう一度頭を下げる。

「ただ、私たちも遺品の中に残ってたもので渡すべきものは全部渡してしまったから……」

「例えばこう、手紙や日記とか……」

「そんなものあれば私達も……」


その時、その人は何かに気づく。

「そういえば、一つだけ……」

「何かだけ教えてください……!!内容とかはいいんで……」

「えっと、今お持ちしますね」

奥の方へと入っていく。


藁にもすがる思いでその人を待つ。


その藁が、彼をつなぎ止める一本の紐となる事を願って。




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マンションの屋上。


あの机の上に置いてあった写真通りの、いやそれよりも美しい景色が目の前に広がる。


そして柵の側に立つ、雅史少年と少女。

「ようやっと見つけたぜ、雅史少年」

「っ……!!」

少年はこちらを見るや少女を庇うように立ちはだかる。

「僕は夢から出ていくつもりはない……紅葉はここなら……!!」

「……だから、ニゲラの花なんだな」

俺の答えに少年は驚く。


ニゲラ、和名をクロタネソウ。花弁は青く、雪の結晶のように広がっている。

そしてその花言葉は『夢の中で逢いましょう』。

すなわち、彼がこの夢にかけた願いそのものだ。


「どうして、そこまで……」

「ニゲラの花を買う奴は珍しいって、知り合いの花屋が言ってたんでな。お前さんのことを覚えてたよ」

彼があの花を買ったのは霧間が店主を務める、Asterだった。だからこそこの夢の世界でもあの店の看板はハッキリと映っていたのだ。


「お前さんがこの夢から離れないっていう理由も分かった」

「だったら……!!」

「うん、別に俺もお前さんを無理に連れて帰りはしないよ」

「……え?」

驚く少年。

いや、それも無理もないだろう。先ほどまで連れて帰ると言ってた人間が、やっぱりやめたなんていえば、そりゃ拍子抜けするものだ。


「別に駆け引きもそういうこともするつもりもねえよ」

置いていかれる人間の辛さも、そしてその人に会いたいと願う気持ちも痛いほどにわかるから。

だから無理に連れて帰るなんて、俺にはできない。


それでも伝えなければならないこともあった。

「まあただ、お前さんはまだ運が良い方だよ」

「どういう……」

「紅葉さんからお前さんに向けての手紙があったんだ」

硬直。驚きから言葉を発することもできず、余りのことに口を開いて止まってしまった。

「嘘だ……遺品にはそんな……!!」

「まあ見落としてても仕方ねえだろうなぁ。封筒には宛名のない手紙だったんだからな」


宛名は無かった。確かに無かったが、それが彼に宛てられたものは確認できた。


きっと直接手渡そうとしていたのだろう。

口で言うには恥ずかしいけど、彼女がちゃんと伝えたかったから。

「それで……中にはなんて……」

「知らねえよ。宛名を確認するためにうちの助手が透かしはしたが、俺たちにも人様の手紙を読む趣味はねえからな」

「じゃあ……」

「ああ、そういう事だよ。お前がそれを読みたきゃ向こうに帰るしかないって事だ」


少年は言葉を続けようとする。

でも喉に何かがつっかえた様にうまく言葉は発せず。

気がつけば彼の目元には涙が浮かんでいた。

「あまり時間はねえぞ。起きるなら起きろ、死ぬなら死ぬんだな」

「でも……向こうに帰ったって……紅葉はいないんですよね……!?」

「ああ、居ねえよ。死んだ奴は帰って来ねえし、何も言っちゃくれねえ」

「だったら……!!」


「けどな———、」

彼の言葉を、遮った。

「死者の最後の便りを読めるお前は、まだ運がいいんだよ」

ほんの少しだけ、彼を羨んでしまったからだろうか。今の自分がどんな顔をしてるかだけは、想像したくも無かった。


「じゃあ僕はどうすれば良いんですか……その便りを読んだ後は紅葉のいない世界で……一人で生きて行けっていうんですか……!!」

叫び。

それはあまりにも悲痛で、全力で、怒りと悲しみと苦しみに満ちていた。

「ああそうさ。死んじまった奴の分だけちゃんと生きて、あの世で会ったときに胸張って楽しかったと言えるように生きるしかねえんだよ」

だから俺はきちんと答えなければならなかった。


彼がどれだけ彼女を愛していたか、全ては分からずとも俺も知っていたから。

彼女もきっと同じだけ、彼を愛していたのだろうから。


少女が彼の肩を優しく叩く。

「紅葉……?」

『—————』

口を開くが言葉は聞こえない。

それでも優しく、満面の笑みで彼に何かを伝える。

「なぁ……ちゃんと聞かせてくれよ紅葉……なぁ……!!」

彼が懇願しても彼女が言葉を発する事はない。

夢の中の少女は、あくまでも記憶の残滓でしかないのだから……


「どうする、ここに残るなら俺はもう居なくなるが……」

「一つだけ、教えてもらえませんか……?」

少年の問い。俺は小さく頷く。

「貴方も、そうなんですか……?」

「……俺はお前さんとは違うよ。お前さんはまだ、彼女の幸せな姿を思い出せているんだから」

少年は俺の言葉を聞き、ほんの少し俯いた。

そして涙を拭い、

「お願いです、僕を夢の外に出してください……!!」

「……ああ、分かった」

彼はその選択を口にした。



瞬間、大きく揺れた。

「な、なんですか……!?」

「ちっくしょう……時間かけすぎたか……!!」

揺れたのは地面だけにあらず。この世界そのものが大きく揺れ、建物は崩れ、空が剥がれ落ち始めている。

そう、夢の世界そのものが崩れ始めているのだ。

「畜生あのヤブ医者……医者ならもっと時間稼げなかったのかよ!!」

「ど、どうすれば良いんですか!?」

「走れ!!俺についてこい!!」

少年の手を取り一気に駆ける。

「紅葉……!!」

少年につられ一度振り返る。


一瞬で、それが確かだったかは分からないが、俺から見ても彼女の顔はとても嬉しそうで、彼の選択を喜んでいるように見えた……



—————————————————————



看護師たちが慌ただしく走り、空気が張り詰める。

「心拍数が落ち始めてる……早く持ってきてくれ!!クソ……早く起こしてこいよ夢見……!!」

藪先生も誰もが全力で少年を生かし続けようとしていた。


その時だ。

『聞こえるか稲村!!』

先生の声だ。

「夢見先生!!そっちはどうなんですか!?」

『今から雅史少年を連れてそっちに戻るからよ。5分だ、5分保たせろとあのヤブ医者に伝えろ!!』

「分りました……!!」

電話の先からの声は途切れる。

息が上がっていたからきっと、最悪のケースに見舞われているのだ。

「藪先生、5分保たせろと……!!」

「人使いの荒い奴だ……だが分かった!!アイツを信じて待つぞ……!!」


もはやここからは祈ることしか出来ない。


どうか、二人を————


—————————————————————


崩れ落ちていく地面に空。

一歩踏み外せば奈落の底に落ちていく。

「こっちの道はダメか……!!」

「どこに向かってるんですか……!?」

「高校の校門にこの夢の出口がある……そこから出るんだ……!!」


普通、夢から目覚めたいと思えばその夢は終わる。

そうすれば基本的に俺も追い出され全てが終わるのだが……今回は数少ない例外であり、病夢に罹った者ゆえの現象だ。


心は生きたいと願っても、肉体は死へと緩やかに進んでいくのが病夢。そして今彼の肉体は限界を迎え、夢の世界からその意識を引き摺り出すだけの力を残していないのだ。

故に俺たちがこの場所から出る方法は俺の入ってきたあの場所から出るしかないのだ。


そしてこの状況で奈落に落ちれば、俺たちは二度と目覚めないだろう。


「クソ……来た道じゃ帰れねえのかよ……!!」

花屋Asterの前、空間の繋がりの歪んでいたその道はすでに崩れ落ち、視界の遥か先まで奈落が広がる。

「Aルートは早い段階で奈落に繋がってたしどこで合流するかわかんねえ……クソ……そうなると……!!」

「あ、あの……!!」

少年が声を上げた。

「記憶が確かな道なら、繋がってる可能性が高いんですか……!?」

「ああ、そうだよ……でもお前さんの通学路は……!!」

「それならこっちです……!!」

少年は来た道を戻りながら走る。

「おい、そっちは……!!」

学校から遠ざかる。

自棄になったか……?

いや違う、彼は必死に生きる為に走っている。


そして先程までいたマンションの前を通り抜けた瞬間、全てに合点がいった。

「成る程……そういうことかよ……!!」


少年は、ただ走る。


いつの日か、彼女と歩いたその道を。


手を繋ぎ、幸福を、その人の暖かさを感じながら歩いたその道を。


彼女の残した最後の言葉を聞く為に。


そして彼自身がまた、明日へと歩き出していく為に。


少年は無心に、ただ駆け抜けた————



—————————————————————



5分が経った。


未だ二人が目を覚ます様子はなく。

息が詰まり、時計の針の音がハッキリと聞こえていた。


————少年に繋がれていた機器の音が変わった。


「呼吸をし始めた……息を吹き返したぞ……!!」

一瞬だけ緩んだ空気。すぐさまそれは再び緊張に包まれたがもう先程までの重い空気ではない。

ここからはもう、彼が起きるのを待つだけとなったのだ。

「先生、先生!!雅史くん帰ってきましたよ……!!」

彼の手に触れ、声をかける。

反応が無くとも、きっと彼は————


「うるせえ……な……こちとら全速力で走ったから疲れてるんだよ……」

「先生!!」

「こっちも起きたか……」

安堵の様子を見せた藪先生。


夢見先生も顔に貼り付けられたガムテープを外し、とても不機嫌そうに起き上がった。

「お疲れさん、夢見」

「ああ、めちゃくちゃ疲れたよ。最後の最後に走らされたしよ」

「でも、二人とも無事でよかったです」

「まあ、それでもあいつが大変なのはこれからだけどな……」

彼は少年の方に視線をやる。

まだ目覚めぬが、目覚めた現には彼の愛した人はいないのだ。

それは想像に難くない程の苦痛だろう。


「よし、帰るぞ稲村」

「え、雅史君が目を覚ますまで待たなくて良いんですか!?」

そそくさと帰り支度を始める彼。

「俺たちがいたところで邪魔になるだ」

もはやなんの感慨もなく、テキパキと荷物を纏め始める。

「それにな————」

その中で彼は一言、優しく付け加えた。

「あいつはもう、大丈夫だよ」

力強く、信頼に満ちた言葉。

私は先生と彼が何を話したのかは知らない。

けどきっと、彼がまた前に進む事を選んだのを先生は見届けたのだろう。


先生は眠る彼の肩に一度手を当て、小さく何かを呟き、そのまま病室を後にした。


私たちができるのはここまで。

ここから先は全て彼次第、と言ったところになるのだろう。


ただ窓から差し込む夕日は、彼の選択を励ますかのように、優しく、彼の体を照らしていた……




—————————————————————



日は沈み、時計の針はとっくのとうに12時を回っていた。

「それでは、お疲れ様でした」

「おう、お疲れ」

稲村が事務所を出て行き、一人になる。

置き時計の針の音さえも耳障りに思えるほど、静かになった。


ソファに横たわり、目を閉じる。


うつらうつらと意識は薄れ、夢の中へと落ちていく。



段々と広がる闇。目の前には確かな足場などなく、ただただ闇が広がっていた。



そして遠く離れたその場所に立っているのは懐かしき面影。

俺を男手一人で育ててくれた、父。

手を伸ばすが届かない。声をかけても振り向かない。


それもそのはず。親父は幼かった頃の俺に向けて何かを話しているのだから。


ただ、俺は覚えていない。

この夢を見ても、彼が何を言っているのかは聞こえない。


そして彼が話し終えたその数秒後。

「クソっ……また……!!」

誰かに彼は突き落とされた。


奈落の底へと落ちていく彼。

どれだけ手を伸ばしても届かない。

犯人の顔を見ようにもその輪郭はぼやけ、もはや人なのかさえも分からない。


一歩前へと足を踏み出し、犯人に近づこうとした。



瞬間、明転。


場所は事務所のソファー。

気がつけば日は昇り、改めてあれが夢だと思い知らされる。


夢の中でさえも自分は父を救えない。

父の最後の言葉さえも聞くことができない。


父が死んだあの日から眠りにつく度に必ずこの夢を見るが、いつだってその結果が変わることはなく、何一つ手がかりを得ることはできない。


「なあ親父……」

ただ己の無力さと、絶望に打ちひしがれながら、問いかけた。

「誰がアンタを、殺したんだよ……」



悪夢はまだ、終わらない。



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カンタレラの夢 芋メガネ @imo_megane

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