ある村にて

ある所に一年を通して霧の晴れない山があった。麓には小さな村があり、人々はその山から流れる小川の水を田圃に引いて米を作っていた。


村に長吉という年は十三頃の少年がいて、ボロボロの東屋に一人で暮らしていた。どこから来て住み着いたのか誰も知らないが、村の田圃は手伝うし、山で捕まえた動物は分けてくれるので、村人たちも長吉には服をやったり道具をやったりして、一緒に暮らしていた。

長吉は体は小さいのだが、すばしっこくて体力があった。普段は東屋で昼寝をしたり庭に伸び放題になっている草をぼーっと眺めていたりするのだが、思い立つと山に入り、二日三日、長い時は一週間でも目当ての獲物の取れるまで走り回り、必ず大きな獣を担いで降りてくるのだった。長吉が獲物を捕らえると山から大声で叫び声が聞こえる。それを合図に村の衆はぞろぞろと麓に集まる。そして長吉の獲物を切り分ける。今日の獲物は立派な猪である。どうやってこんな立派な猪を、こんな小さな子供が獲るのだろうと村人は考えるが、長吉に直接聞くことはしない。長吉は村人の視線も気にせず、頭と臀部、四つ脚を取り、後はみんな村のものにやってしまう。家に帰ると長吉は屋根に猪の頭を放り投げる。間も無くカラスやなんやらがやってきて頭を啄み始める。肉は皆食われ、頭は雨風に晒され、真っ白な骨になる。屋根には猪、狸、鳥などこれまで長吉が獲った動物たちの髑髏が夥しくあり、いくつかは庭に転がり落ちて虫の棲家となっている。


村人の中におトキという娘がいて年の頃は十五、母親と二人暮らしで、父が死んでからというもの朝から晩まで働いてなんとか日々を繋いでいた。しかしたった一人の母親も病いに倒れて数日前に死んだ。おトキは一人であった。

おトキの母親が死んだ次の日、村はおトキの面倒を誰が見るかという話で紛糾していた。このところ凶作が続き、どの家も自分達を養うので手一杯になっていた。もう少し実りのいい年であれば働き手としておトキを欲しがる家もあっただろうし、おトキがもう少し大人であれば嫁として貰いたい男もあっただろう。しかしおトキはまだこの村で嫁になるには早かった。村長の彦兵衛が苦い顔で言った。「トキよ、悪いが、ワシらも余裕のない生活じゃ。広い畑は手に余るじゃろうから、半分ワシが食いもんと交換しよう。それを当分のアテにして、このまま一人で暮らしてもらいたい。」

「わかりました」

そう言っておトキは一人家に帰った。一人で寝る夜は静かで、虫の声がいつもより近くに聞こえた。高い月から降る光が、山から降りてくる霧をキラキラと照らしている。芒が風に吹かれる。その優しげな音を聴きながら、おトキは静かに眠りについた。

長吉はいつもの東屋に居て、灯のない部屋の縁側に座って雲一つない空を眺めている。庭の少し先に流れる小川に、青鷺が一羽佇んで長吉を見ている。長吉はその視線に気づき視線を返す。一羽と一人はじっと互いを見つめている。小川の流れがそっと青鷺の脛を撫でている。


朝陽が山の裏から光を漏らし始める頃、おトキは布団から起き出して家の外に出た。朝露に濡れた草原に、山から降りてきた靄がかかっている。空気が凛として冷たい。おトキは戸の外に立って考える。村長に替えてもらう畑に芋が残っているからそれを採りに行こう、おっかぁの古道具なんかも何があるのかちゃんと見ておかなきゃ。

「おーい、トキよォ」

見ると長吉が道の向こうから声を上げている。おトキは手を振って笑う。

やがて家の前に着いた長吉におトキは声をかけた。

「長さんこんな早くにどうしたの」

「いや、お前の母さん死んぢまったって聞いてなぁ、昨日まで山に行っとったもんだからおれ知らなくてなぁ、昨日の夜のうちに来ようかとも思ったんだけどそれも悪いぢゃろうから今朝早く起きて来たんぢゃ」

「それはそれは、どうもありがとうねぇ」

「どうするんぢゃぁこれから」

「畑の半分は村長さんが食べ物と替えてくれるって言うから、あとの半分はなんとか一人で畑を続けて、村の田んぼも手伝えばなんとかなる思っとるよ」

長吉はおトキの顔をじっ、と見つめて

「そうかぁ、」

と一言呟いた。少し目を落としてから顔を上げて、

「にしても早い朝やなぁ、なにするんや」と聞いた。

「芋がまだ残っとるんで堀りに行くんよ」

「ならおれも行こう、昨日の猪は大きくてなぁ、当分休んでてもええわと思っとったんぢゃ。手伝わせてくれィ」

「いいの?ありがとうなぁ」

「そこの鍬かりるぞ」

長吉は立てかけてあった鍬を手に取ってトコトコ畑の方へ歩き始めた。おトキは何か食べてから行きたかったが長吉が歩き始めてしまったのでしょうがなく、自分も鍬を取って籠を担いでついて行った。

「ねぇ、長さん」

「なんだィ」

「前から聞いてみたかったんだけどもさ、あんた一体どっから来たの」

「ンなもん、聞いてなんになる」

「なんになりもしないけどさ、気になるじゃないか」

「そういうもんかナァ」

「そういうもんさ、なぁ教えとくれよ、西から来たのかい?東から来たのかい?」

「西だ」

「西のどこだい」

「教えねぇ、今日はここまでだ」

「なんだい、もったいぶって」

「ハハハハハ、マァいいぢゃんか、オッ畑が見えたぞッ、もうすぐだ、走るぞッ」

「オイオイまっとくれよォ」

鍬を担いだ長吉が土埃を上げて駆けていく。後ろからトコトコおトキが追いかける。早く来いよォと長吉が声を上げる。腹ぺこの上に走らされておトキは力が出ない。それでもなんとか畑に着く。長さんを連れてきたのは間違いだなァと思いながらトキは長吉の顔を見る。走ってかいた汗が長吉の首元をじんわり濡らしている。長吉は懐から干し肉を出しておトキに差し出した。

「おれぁ畑やるときはこれ噛みながらやるんだ、そうすっと力出るんだ、トキも噛んでやったらいい」

そう言われて受け取った肉を口に入れた。かなり硬くて特に旨いものでもなかったが、確かに鍬を持つ手がいつもより力強くなった気がした。長吉は凄い速さで鍬を振るい、どんどんと芋を掘り起こして行った。互いに三切れほど噛み終わる間に芋を掘り終え、籠に入れた。二人して畑のそばの切り株に腰を下ろした。

「さっきの肉はナァ、猪の尻の肉だ」

「ヘェ」

「おれぁ山へ行くだろ、その時は脚の肉も持っていくんだ、尻の肉は力が出るが、脚の肉はヤツらの速さに負けないために噛むんだ」

「初めて聞いたなァそんな話」

「おれの村ぢゃ当たり前のことだったんぢゃけど、ここぢゃあ誰もやっとらんな、しかし教えっとみんな尻の肉くれ脚の肉くれって言いよるからな、黙っとるんぢゃ」

長吉は笑いながら、ナイショぢゃからな、と言ってトキの目を見た。おトキも長吉の目を見て、小さく二度頷いた。二人は静かに笑った。



おトキの父親は名を源佐といって、よく働く男だった。村衆の中でも一、二を争う大男で、一人で両手に鍬を持って一気に二本を振り下ろし、一度に二列の畝を耕した。根っからの喧嘩好きで、酒を飲んでは寄り合いで暴れるものだから村では源佐に酒を飲ませないという暗黙のルールができた。しかし一度村に降りてきた熊を棍棒で倒した時は村中がお祭り騒ぎになって、それ以降は少しなら酒を飲んでもいいことになった。その時に熊の爪に削られた肩の傷を、源佐は誇りに思っていた。

やがて源佐は嫁を貰った。おツネという三軒先の百姓の娘で、可愛げがあって気立てもよく、源佐はおツネにすぐに惚れた。おツネが来てからというもの源佐はそれまで以上によく働いた。暗い林だった藪を開墾して畑を増やした。源佐はなんでも一人でこなすことができたから、おツネが畑を手伝うと言ってもよせと言って受け付けなかった。それでもしつこくおツネが頼むので一度畑に連れて行ったら、おツネの働きっぷりに驚いた。勿論源佐のような力はない。けれどもおツネが畑にいる時の身のこなしは野ウサギのように軽やかで、鍬を振っても一向に疲れる気配を見せなかった。百姓としての天賦の才がおツネには備わっていた。畑はおツネの庭であった。

二人は毎日畑へ出て働いた。働くことは喜びであった。巡る季節の中で様々な種を撒き、世話をし、育て、そして食した。二人は幸せという言葉を知らなかったが、まさしくそれは幸せそのものであった。

やがておトキが生まれた。生まれたての我が子を二人は畑へと連れて行き、裸のまま土の上へ寝かした。夏の太陽が照りつける中、赤ん坊のおトキは土だらけになりながら笑っていた。二人もつられて笑った。青鷺が翼を広げて三人の上を通り過ぎる。おトキがニコニコと笑う。二人もつられて笑う。


おトキが十三の頃、源佐が山で死んだ。狩りの途中でいなくなった仲間を探していたところに、大きな岩が落ちてきた。これには源佐もどうしようもなかった。おツネは泣いた。おトキも泣いたが、おツネほどではなかった。なんとか母を元気付けたいと思って一緒に畑に出たが、昼ごろまで鍬を使うとおツネがしきりに疲れた疲れたと言うようになった。今までおっかぁがこんな風に言うことなんかなかったのに、と思うとおトキは少し寂しくなった。少ししておツネは床に臥せるようになった。一日中寝ているばかりで体もどんどん痩せていく。源さん、源さん、と言って夢枕に涙を浮かべていることもあった。おトキは父も母も好きだった。それでも母が父の名を呼んでいる姿を見る時、母にはここにいる自分が見えていないような気がした。あたしだって泣きたい、そう思ってもおツネを責める気にはならなかった。おトキは朝早く家を出て日が暮れるまで働いた。おツネほどではなかったがおトキも畑に愛された女であった。どんな時も畑は拒むことなくおトキを迎えた。種を撒き、世話をして、育ててやれば、食物を与えてくれた。畑でなった物を食べている時、母の顔は心なしか安らいで見えた。その顔を見ると更におトキは踏ん張って働くのだった。

しかしそれも長く続かず、ついに母親も亡くなりおトキは家に一人となった。



長吉と二人で畑に鍬を振るっている間、おトキは久しぶりに爽やかな気持ちを感じた。父のことも母のことも、これからのことも忘れて一心になれた。おトキは畑が好きだ。畑があればこれからもなんとかやっていける、そう思った。



それからも事あるごとに長吉はおトキの家に来て畑を手伝った。肉を持って来ることもあったし、村人に貰った道具をおトキのために持って来ることもあった。

その日は朝に二人で畑をやって、一度帰った長吉が、暗くなった宵の口、月明かりの照らす畦道を、蛇の首を三つまとめて鷲掴みにして歩いてきた。蛇らは身体をうねらせて必死に抵抗している。その光景を見たおトキは、思わず一歩後ずさった。なんぢゃ、怖いか、と言われて、おトキは小さく頷いた。おトキは蛇が恐ろしかったのではない。長吉が恐ろしかったのである。

長吉は、コイツを食うと賢くなるんぢゃぁ、と言って蛇を持つ腕を持ち上げた。心の動揺を悟られないようにおトキは聞いた。

「どうしてコイツらを食うと賢くなるんだい?」

「ン、知らんのか。おれの村ぢゃあ蛇ってのは本当に賢いもんだとされてたわ、手も足も出んとはよく言うが、コイツらは手も足も捨てたんぢゃ、頭だけで地面を這っとる、それだけ頭がええっちゅうことぢゃ」

「そういうもんかなぁ」

「そうなんぢゃ。まぁええわ、食おう」

長吉は懐から小刀を取り出して、三つの頭にそれぞれ突き刺した。それから首を切って何やらぶつぶつ言ってから、おトキに椀を持って来るよう行った。おトキが持ってきた木製の小さな椀に蛇の頭を入れて、そこからは慣れた手つきで蛇の身体を細かく切っていった。

「長さん、さっきはなんて言ってたんだい」

「何がァ?」

「ほら、頭を切る時になんか言ってたろ」

「あれかァ、あらぁお唱えしたんぢゃ」

「『お唱え』?」

「そうぢゃ。蛇でもなんでも、命貰う時にゃぁ必ずやるんぢゃ」

そういうもんなんぢゃ、と長吉は、おトキが発するであろう「なんで」を制するように付け加えた。

おトキは納得のいっていない顔で長吉の手捌きを見ている。しかしそのうち堪えきれなくなって、

「なんで唱えるんだい?」

と聞いた。

その途端すっ、と長吉の手が止まって、ばらばらになった蛇に目を向けたまま、

「聞くか?」

と聞いた。

おトキは何か冷たい風が首筋を通ったような感じがした。少しの沈黙のあと、

「聞くよ」

と言った。

長吉は手に持っていた小刀を置いて、おトキの方を振り返って言った。

「よし、ぢゃあ話そう。ぢゃが、こりゃ誰にでも話すっちゅうもんぢゃない。本当は誰にも話しちゃいかんもんぢゃ。ぢゃが、トキならいいぢゃろう。」

おトキは何も言わず、長吉ののっぺりとした頬の辺りを見ていた。明かりのために灯した蝋燭の火がぼやぁっと長吉とおトキを照らしている。

「おれの村は西にあるっちゅうたが、ありゃ嘘ぢゃ。おれは村なんぞいた事はない。おれは山から生まれて山で育ったんぢゃ」

「山から生まれたってどういうことさ」

「どういうこともこういうこともない、そういうことぢゃ、山がかあちゃんで、山がとうちゃんなんぢゃ」

おトキはさっぱりわからなかったが、とりあえず聞くことにした。

「おれぁ気づいた時から山におった。食うものには困らんかった。ぢゃが、ある時殺した鼠がおれにこう言ったんぢゃ。『お前、山の子ぢゃろう、おれを食うのはええ、おれは捕まったからな、だが、頭だけは食わんでくれ、頭はどこかは高いところに投げてくれ、そうすればおれは仲間に会えるんぢゃ、頼んだぞ』。それからおれぁ必ず頭は上に投げて、お唱えをするようになった。コイツらが仲間に会えるように、っちゅうことでな」

おトキは呆然とその話を聞いていた。そしてふと我に帰って、

「長さん、あんた鼠やらなんやらと話せるんか」

と聞いた。

「いやァ、話せたのはその一回きりぢゃ。それもおれからはなんにも言わねぇで、向こうが勝手に喋って死におったからな、聞こえたっちゅう方がいいぢゃろうな」

おトキはそんなことがあるだろうかと考えて、しかし長さんならあるのかもしれないと思った。なんとなく、そう信じたい気がした。

「それじゃあ、あの蛇の頭も投げるんやね」

と言うと、そうぢゃ、と長吉が嬉しそうに答えた。

「長さん、なんか嬉しそうだねぇ」

「そうかィ?」

そう言いながら、長吉はまた小刀を手に取って蛇を切り始めた。慣れた手つきで、さっきより少し軽やかに切っていく。

「なんで言いたくなかったんだい」

と聞かれて、少し間があってから、長吉は答えた。

「そりゃぁこんな話、誰も信ぢちゃくれんぢゃろう」

おトキは長吉の方を見た。いつも一人で大きな獲物を担いでくる長吉。誰に頼まれるでもなく朝早くトキの畑へ来て鍬を振るう長吉。いつもは頼れる一人前の男のように見える長吉が、この時は自分より年下の、知り合いも家族もいない村で暮らす、一人ぼっちの小さな子供に見えた。

それから二人は蛇の頭を入れた椀を持って外に出た。長吉が二つ、おトキが一つ頭を握って、おトキの家の屋根に投げた。おトキの家は茅葺きだったから、二つはうまく引っ掛かったが一つはそのまま転がり落ちた。家の中では蝋燭が影を作っている。屋根の上には真白の月が高く登って、村全体を照らしている。おトキが言う。

「長さん」

「なんだィ」

「その鼠は、高いところに投げてくれって言ったんだよねぇ?」

「そうぢゃ」

「それなら、あの月まで投げてやれたら一番いいねぇ」

長吉はおトキの顔を見た。おトキは見惚れるように月に顔を向けている。白く照らされたその顔は、長吉がこれまで見た何ものよりも美しかった。長吉は月の方に顔を向けて、

「そうぢゃなぁ、それがええぢゃろなぁ」

と言った。

「あたし、投げてみよう」

と言って落ちている蛇の頭を拾って、月をじっと見て、思いっきり投げた。頭は月に向かって放物線を描き、ぽとりと小川のほとりに落ちた。おトキと長吉が目で追った先、蛇の頭が落ちた小川の真ん中に、一羽の青鷺がいた。頭と青鷺の間には数歩の距離。

青鷺は一歩、一歩と蛇の頭に近づいて、それを嘴の先に咥えた。青鷺は大きな翼を広げると、わさっ、わさっ、と空気を掴んで舞い上がった。青鷺は優雅に風に乗りながら、月光に向かって飛び去っていく。嘴に挟まれた蛇の頭、肉を守るための鱗が月の光を白く反射している。二人は立ち尽くして、ただただ青鷺の行方を見ている。



月は二人の手の届かないところに静かに浮かび、たった一人、青鷺が来るのを待っている。

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月は淋しいだろうか 洞田太郎 @tomomasa77

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