独白
水平線に沈む夕暮れ。飛ぶカモメの鳴く声。潮の香りを届ける海風。皮膚のべたつく感覚。開いた口内に吹き込む風に、塩味を感じた。
君と何度も一緒に見た、学校の屋上からの景色。
「何度見ても、きれいだよね」
君は笑顔で呟く。風にたなびく髪を抑えて、いつものように伏し目がちな笑顔
結局僕は、その笑顔を変えることが出来なかった。
何も出来ないままに、全部終わりを迎えてしまった。
「私、ここから見える景色、大好きなんだ」
――どうして?
「わからないの?……君と初めて出会った時の景色だからだよ」
ああ、そうか。ここは君と最初に出会った場所なのか。
だから、僕はここにいるのか。
「そうだよ。何度も一緒に見たじゃない。忘れたの?」
わすれるわけがないじゃないか。君と出会えたから、僕のすべてが変わったんだ。
――君と出会う前は、記憶に色がなかった。
どんなに鮮烈で色鮮やかなものを見ても、思い返すとモノクロにしかならない。
何色で描写されていたか全然思い出せなくて、思い出したいとも思わなくて。
それが普通だと思っていたし、みんなそうだと思っていた。
だから、君から「そんなのおかしいよ」って言われたときは心底びっくりした。そんな人がいるんだ、と衝撃を受けたけど、親や兄弟に確認したら、みんな僕とは違うと言うものだから、いっそ拍子抜けだった。
じゃあ、僕が今まで見てきたものは何だったのだろう。僕の視界は何色に染まっていたのだろう。
みんな違うとわかってしまうと急に色のない世界が悔しくなった。
「それなら、これからは覚えていけばいいよ。そしたらいつか、昔の色も思い出せるかも?」
君にそう言われたから、一日を色と一緒に思い出すようにしたんだ。最初はモノクロのままだったけど、次第に記憶に色が付き始めた。
うん、そうだった。
「――あはは、そんなこともあったね。君に色が戻ったって聞いて、私も嬉しかったのを思い出すよ」
快活に笑う君の笑顔にはどこか影があるように感じた。けれど、それはいつものこと。いちいち聞くようなものじゃない。
「君に貰ったのは、色だけじゃないよ。音もそうだった」
「うーん。私があげたってのは正しい表現じゃないけど、まぁいいか」
記憶を思い出すたびに、人の声だけが欠落していた。
虫のさざめきや、木々のざわめきは思い出せるのに、人々の発する音だけは聞こえない、記憶にない。
人の口は動いているのに、声は聞こえない。
これは色と違って、おかしいなと思っていたけど、気に留めるほどじゃなかった。
けれども、色が戻ってきたときに、もしかしたら声も思い出せるようになるんじゃないかと思った。
それからは、色と一緒に声も思い出すように努力した。
結局、聞こえるようになったのは、君の声だけだったけど。
「今もそうなの?今はもう全部聞こえるのかな?」
「ああ、うん。……全部……だよ」
「え?何?聞こえない!」
耳に手を当てて、声を荒げる君。無性に愛おしくなってその頭を乱雑に撫でる。
「む?はぐらかそうとしてるな?」
ムスッとしながらも、口角が上がっているのがまた可愛らしい。
きっと、僕にしか見せてくれない表情、だと思う。
「覚えてるかな?感じなかったのは色と声だけじゃなかった」
「ふふっ。覚えてるよ。『温度』でしょ?」
そう、熱い寒い。それが出てこなかった。夏の太陽、秋の月夜、冬の雪だるま、春の通学路。それが全部同じ寒さ。
それを思い出せるようになったのも、君がいたから。色や声を思い出してた時に、君の手の温かみを自然と思い出した。
それからは、あっという間に、君といる時間に温かさや冷たさが戻ってきた。
うん、そうだった。
「結局、私といるときしか、感じなかったんでしょ。なんだか勿体ないよね」
君はそう言うけれど、僕は君との時間が豊かになっていくだけで十分だった。君との思い出を思い返すだけで心が温かくなるだけで、それだけでよかったのに。
「そういえば、匂いはどうなった?思い出せるようになった?」
うん、思い出せるようになってたよ。海から来る風が運ぶ磯の香。君の髪から漂う香り。君が作ってきてくれたお弁当は、本当に美味しそうな匂いがした。
「……そっか、それならよかった。お弁当も美味しそうって言ってくれて嬉しい」
「うん、味も良かった」
「えへへ。それなら作った甲斐があったよ」
うん。君には言ってなかったけど、味覚も感じなかったんだ。食感は思い出せるのに、旨い、不味い、辛い、酸っぱい、なんてのは思い出せない。ただ一つ、君の作ってきてくれたお弁当を除いて。
甘すぎる卵焼きも、ちょっと固めの米も、冷凍食品のエビグラタンも、素材の味が生きたプチトマトも。全部思い出せた。
うん、そうだった。
「ねぇ、君はどうして……」
僕がそう問いかけようとすると、君は僕の口を塞いだ。
「それは、君に考えてほしいな」
「……何を聞こうとしたのか、分かるの?」
訝しんで聞いてみると、君は自慢げな顔をして、
「当り前じゃない。私を何だと思っているの?」
はは、そりゃそうだ。君は僕の……。
水平線に沈む夕暮れ。飛ぶカモメの鳴く声。潮の香りを届ける海風。皮膚のべたつく感覚。開いた口内に吹き込む風が与える塩味。
全部幻だったかのように、記憶から消えていく。
だんだんと、僕の脳裏から、味が失われてゆく。
思い出す君のちょっと暗い笑顔は、モノクロに変わる。
ほんとはさほど美味しい訳でもなかった弁当は無味無臭な異物に変換される。
辛い、苦しい、消えてしまいたい。一度得たものを失うのは、腹に刃物を突き立てられるような激痛。
色が、声が、温かさが、香りが、味が、流れる血液のように、肚からあふれ出す。
感覚を伴った現実だった君は、陳腐な作り物になっていく。
潮風が強く吹いた。足を滑らせそうになって、フェンスを掴む。
「なぁ、どうして君は消えていくんだ?」
「何言ってるの?もうわかっているでしょ。とっくに私はここにいないよ」
「嘘をつけ。目の前にいるじゃないか」
色を失う君を見る僕の目から、液体が滴る。
「いないよ。ほら、もう声も聞こ……」
君の耳に心地よく響く声が、風に変わる。
もう僕に声が届かないことに気づいた君は、いつものちょっと陰のある笑顔を浮かべる。
風にたなびく髪からはもう何の香りもしない。
――君は、透けて、消えて、僕は一人。
「ねぇ、君はどうしていなくなったんだい?」
辛うじて絞り出した問いは、夕焼けに溶ける。
返ってくるはずのない問いは、君からのもらい物を全部腐らせた僕に響く。
「君に直接会って聞くしかないよね」
水平線に消えた太陽。巣に帰ったカモメ。凪を迎えた海。乾いた肌。もう何もない無味の口内。
フェンスから手を放し、僕は――。
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