七月の短編   作・奴

 朝方の曇空が幕を開けるように晴れてしまうと、それと同時に春は霧散してただ夏だけが残った。夜の湿っぽい空気のなごりが風のなかに打ち寄せるとき、そのうちに青い草木の匂いと土の香りが立っているのを感じずにはいられなかった。シオカラトンボなどはもうそこらにいた。


 海とは何だったろうか?


 これが藤川の内側に現れた、ほとんど天啓じみた疑問だった。それがどこから来たのか、何を伝えうるか、藤川にはまったくわからなかった。それで彼女は実際に考えてみた、海とは何であったか。


 「海は海だよ」と独り言ちてみた。




   海:うみ。




 すくなくとも間違いではない。海は海である、というのは、トートロジーの成しうる隙のない真理だ。彼女は藤川葉子で、海が海であるのはそれと同じくらい自明な事柄である。藤川は海について別な事実を与えようとした。




   海:きわめて広大な水たまり。塩辛い。魚類などの水生生物がいる。




 しかし塩湖との区別はどうしよう? 藤川はベランダに出て、たばこに火をつけた。そうして喫った。香料がすくないから葉の青いにおいがわかる。煙が肺を冒していると藤川は思った。風のなかに生きるものの香りがある。それは同時にあらゆるものの熱源である。草の香、花の香、土の香、人の香、あるいはほかのさまざまなものの香が、藤川の体を昂らせる。彼女は凪いだ大洋を考えた。沖でときおり白波が立つばかりで、風もなく、船が蹴り波を残しながら過ぎていく。細かいうねりが粒のような光を撥ねて眼窩が痛む。それが海だ。




   海:凪の日は、沖でときおり白波が立つばかりで、風もなく、船が蹴り波を残しながら過ぎていく。細かいうねりが粒のような光を撥ねて眼窩が痛む。




 これはいかにも映像描写の書き起こしで、定義というよりはある場面を書き出しているに過ぎない。藤川はその一本を喫うあいだ何も考えなかった。ただ思い悩む顔を作って正面にある空き地を見た。新緑の茂りはじめた地面に何があるのか雀がつついていた。離れた木にもその群れが止まっているのが声でわかった。小鳥の拍動はヒトのそれよりもはるかに速いにもかかわらず、その(比較的な)短命によって、結局の総計はほとんど等しい。この簡単な思いもたばこの匂いや煙のあいだにかすれていた。藤川が今考えていたのは、そのに匂いである。はたして肺を病ませる煙をすすんで喫うのは、そこに避けがたき魅惑があるからにほかない。箱から次の一本を取るときに、藤川は箱を半分潰した。包装フィルムの滑らかな感触が今は不快だった。全身からヤニが臭い立っている気がした。手のひらにはとうに悪臭として染みつき二度と抜けきらないと思うと、掻きむしってでも拭い取りたかった。手にした二本目に火をつけたら、そこからまた青い匂いが昇る。そうすれば心惹かれながら、きっとみずからが汚穢に蝕まれる感触を食らう。海はもしかしたら、その穢れに対する禊かもしれなかった。




   海:我が身についた穢れを落とし清める場。




 しかし海はつねに茫漠で、それはある種の虚無性を帯びている。磯の香を生きているもの、死んでいるものの臭いの総体と思えば、いかにも無常の表れであり、空虚の念につながる。それゆえに海は虚であり、ただに禊や祓をするための場だけでない。海は広いあまりにほとんどすべてのものを受け入れてしまう。それがかえって虚無を生み、磯の香という強烈な証左をつねに残してある。




   海:つねに漠たる虚。




 空き地の雀がしきに高い声で鳴いていた。動物の鳴き声がわれわれには理解できないために、おおむね無意味に聞こえるだろうが、そこの雀らの鋭い声の交わし合いは、もっとはっきりした意味のある会話に聞こえた。危険信号か、強い威嚇かを表しているような激しい調子である。雲の少ないために自由な日射が、草のあいだの白っぽい土に跳ね返った。そのなかに雀は黒い点として絶えず動いている。海も似たように騒がしいかもしれないと藤川は思う。この雀の群れのごとくに、海の生物はわれわれの知りえない活潑な意思伝達をやり合っているだろう。海はきっとそういうものだ。




   海:ヒトの知覚できない言語がある。




 海をさらに実体験的に考えなければならないはずだった。というのは藤川の思考が空想のうちを巡っているから。彼女がいまだに安楽椅子探偵じみているから。潮の香を感じないままに空理をこねていると、知らず識らず果てのない想像が先行した。現実の海が遠く退けられて、以上のような空想が結論に立った。本物の海を見なければ何もわかりえない。


 いざ物事に意味を与えようと動いても、そこには不十分な説明よりほかに施せない。これは一般論かもしれない。藤川は広岡に電話で話しながら思った。我々は結局、何に対してであれうまく言い表せない。それはおそらく人間の怠慢または言語の欠陥のせいである。


 「でもすくなくとも海が何かなんて言えなくても困らない」藤川は言ってみた。


 「それはそうだ」と広岡は言った。「でもそうしたら話が途切れるだろ、聞きたいことはそのことだったんじゃないの」


 「たしかにそうだけど、でもさ、景、こういう話を大真面目に語りだすと面倒かも」


 「葉子がいいなら僕はいいよ」


 「気にはなってる」と藤川は言った。


 「ならそれこそ、見に行けばいいんじゃないの、海を」


 「一緒に行こう」藤川はこだわりなく時計を見た。正午だった。


 「僕はかまわない」


 「夕方に行こう、借りた映画が今日までだから、それを見てから」


 「『ブルー・モーメント』」と広岡が言い当てた。


 顔の周りにたばこの臭いがある気が藤川にした。




 海というのは藤川の家からも、あるいは広岡の家からも車でしばらくかかった。映画のディスクを片手に持ちながら、彼女は地図を読んだ。見晴らしのいいところを選ぶなら、片道で一時間半は必要だ。到着して何をどれだけするかなど予見もできないけれど、夕方に出るというのは悪くないかもしれない。ブルー・モーメントと藤川は声にした。夏の盛りなら、ちょうど海に着いたころは、力ある音すら聞こえそうな夕明かりの輝く橙色が喪われて、ふいに厚く静かな群青色に変わる。そのときこそが、ブルー・モーメントだった。


 藤川の借りた映画は、そういう激しい情動と少しの動きもないどこか冷めた空気が一体にしみ込んでいるようだった。内側でのべつ燃えている感情の上を質感のある冷気が吹き続けていた。人はそのせめぎ合いのそばで嘘みたいに冷静な目をしている。物語はある日の明朝に始まって、数日後の暮れに終わった。二、三人が現れて暮れの粗い闇の中に半分だけ混ざり合った。冷気に水の匂いがある。藤川は思った。


 肌の表面に拭えないほど細かい汗の粒が噴き出ていた。全身が妙に粘る感触の不快感が離れなかった。それも腰を落ち着けて映画を見るうちは何ともなかったはずが、終幕を迎えた後の、夕に入るころにまさしく輝いている日の光線が部屋の奥深くまで照らすなかでは、いかにも蟻走感的に体にあった。藤川はにじむような暑さを払いたくてシャワーを浴びた。また潮風に当たって肌や髪がベタベタするかもしれない、と藤川はその後で丁寧に拭いた腕をさすりながら考えた。


 広岡からすぐに電話が来た。


「何してる?」


「今はね」と藤川は言った。「ニュース見てる」


「どんなニュース?」


「んん……北部の豪雨の話とか」


「こっちは雨降らないよね?」


「まあね」と藤川は言った。


「もう迎えに行ける。いつ出よう?」


「来ていいよ」


「すぐ行く」


 広岡は本当にすぐに来た。


 今から海へ行けばちょうどまぶしいほどの輝きが失せるころだった。それは海自体がその一切を呑み込んでしまうようでもあったし、あるいは太陽が海の冷たさによってまったく蒸発してしまうようでもあった。太陽は結局、と藤川は思った、どこへ行くのだろう? どこへも行かないというのは少し誤謬があるかもしれない。けれど太陽はその真ん中にたたずんだままでいるはずなのだ。回っているのは我々の地球であり、火星であり、水星であり、云々。広岡は運転をしながら何か口ずさんでいた。それはヒッツの一曲で、しかし広岡がまじめな顔をしてそんな流行歌の鼻歌などするとは思わなかった。藤川はどこに根拠があるかもわからない期待が裏切られてなぜだか不服だった。


 車は藤川の家のそばの道を駅まで行くと、国道に入って下道を商業街へ向かった。そこに近づくほど、騒がしさや街灯とヘッド・ライトの光は増した。まだ涼しさすらある夏を帯びた大気のなかに鳥の群れが飛んで消えた。そこは町明かりも日光もない中空だった。鳥の声は窓を閉め切っていてもよく聞こえるうえ、開けると言うまでもなく喧しいさえずりが二人を揺さぶった。日は燃え尽きる寸前のもっとも強い光を撒いていた。それらがガラス張りのビルや車のミラーに反射してどこを向いてもまぶしかった。


「松ヶ浜」と広岡が言った。


「すぐそこでしょ?」


「三十分はかかるかな」


「道が混んでるから、まだかかるかもしれない」と広岡は苦笑した。


 ブルー・モーメントは今少しだけ先だった。まだ日光はその鮮烈な光を残していた。ラジオ番組を流すと、広岡の鼻歌にあったヒッツの途中が聞こえてきた。




 海辺に近づく路上には車が絶えてなかった。日の光が粉のようにまぶされた車内に熱が入った。海辺の道につながる道を走っているときからすでにきらめく海面が見えていた。それは藤川の見た『ブルー・モーメント』に出てきた海の風景と似ていたかもしれない。間に合ったことに二人はしばらく安堵した。


 駐車場から浜まで向かっていまだ力を残している日が海面に浮かんでいるのを彼らはじれったく感じた。そのうちもう一度車を出して近くの店でアイス・クリームを買い、車内で完全な日没を待った。しかしもうじき日は入るはずだった。


「海とは何か」広岡が口を開いた。「だったよね、昼話してたこと」


「だいたいあってる」


「海は」と広岡は哲学者がある種の命題を話すときのように言った。「我々の推りえない自然物だ」


「うん」


「すくなくとも海の正体を、というよりは定義を簡単に語ることは僕らにはできない」


「うん」


「そこにはスチヒーヤが明瞭に内蔵されている」


「うん」


「あるいはそれ自体がスチヒーヤだ」


「うん」と藤川は言った。「つまり?」


「つまり?」


「スチヒーヤが何かは知らないけど、とにかく何かしら力のあるものなんでしょ?」


「うん」


 しかし何かが足りないと藤川は思った。自分のスニーカーの太いラインを目で撫でた。


「たとえばさ」と藤川はアイス・クリームの包装を片結びにしてグローヴ・ボックスに入れた。「海は単純に大きな水たまりとも言えるじゃん」


「うん」


「それじゃだめなの?」


「辞書的な意味で考えたいの?」


「そう」


「そうか」広岡は車を駐車場から出してまた海辺に向かった。そのなかで彼は知っている海の名前を挙げた。


 日はとうに沈んでいた。雲間に橙色の光が淡い輝きを残しているばかりで、それもしだいに弱まった。そのときが来ようとしていた。ブルー・モーメントと藤川は口にした。失われた日の燃えるような色合いが跡形もなく消え去ると、海辺はまったく静かな青色へと変わった。恐ろしく濃い青色だった。離れた灯台の光がときどき二人に届くだけだった。浜の真ん中に座った二人の周囲に張り詰めた青が黙然と広がって、体を透くような気さえした。昼の熱のこもった空気に比べると今は明らかに冷たかった。そのなかに夏はもう来ていると知らせるような象徴的な潮の匂いと松林のなびく音と虫の声があった。


 そして眼前にある、空よりも深い青の凪いだ闇が、海だった。


 ブルー・モーメントと海はたった今、彼らの目の前にまさに現れた。



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