なんかしてぇ

三角海域

なんかしてぇ

「なんかしてぇ」

 そんな風に、誰かが言った。

 オフィスには電話の音やそれに対応する声、タイピング音や咳払いといった音しかない。

 けれど、確かに、僕には聞こえた。

 なんかしてぇ。誰が言った? 伸びをしながら、あたりを見渡す。

 みんな自分の仕事に集中していて、そんなことを漏らすそぶりはない。

 幻聴?

 まあ、そうなんだろう。そのほうが矛盾がない。

 疲れてるんだろうか。

 仕事をして、休みも寝て過ごすだけ。なにか、趣味でも見つけた方がいいのかもしれない。

 なんだ。なんかしてぇのは僕自身じゃないか。

 心の声が漏れ出たんだろうか。もし気付かずにそれが口に出ていたのなら、だいぶ恥ずかしい。

 ちょうど昼休みになったこともあり、僕はその場から逃げ出すようにしてオフィスを出た。


 コンビニでおにぎりとお茶を買って、公園のベンチで食べた。

 ぼーっと食事をしながら、先ほどの「なんかしてぇ」について考える。

 大人になれば、できることが増えると思っていた。

 お金もある。

 時間もある。

 自由がある。

 確かに、それらのものはある。幸い僕はそれなりの会社に就職し、それなりの給料とそれなりの休みを与えられている。

 贅沢な悩みだとは思う。けれど、僕は社会人になってから、自分を自由だと思ったことはない。

 趣味がないだとか、友人が少ないだとか、そういうことを理由にされることもあるが、そういうのではなくて、なんだろう。

 なにもしてないな。

 と、思っている。

 やっぱり、あれは自分の心の声だったのか。

 ベンチに深く腰掛け直して、空を見上げる。

 思い出すのは、一人の少女のこと。

 学生時代、僕はその少女と一緒に、映画研究会に所属していた。

 名前は、黒澤志希(くろさわ しき)。偉大な監督と同じ苗字の彼女は、研究会に所属する誰よりも映画に詳しく、映画を愛していた。

 駄弁っているのがメインの研究会の中で、志希は積極的に自身で映画を製作していた。

 脚本を書き、撮影をし、必要とあれば出演もして、編集も行う。

 映画研究会の連中は、そんな志希のことを変わり者扱いしていた。

 映画は好きだが、別に自分で撮影しようなんてことを考える人間は誰一人としていなかった。

 そりゃそうだろう。自分で作るとなると、あれこれ面倒だし、大半の人間は理解している。自分には、才能がないのだということを。

 いつの事だろう。

 確か、志希がカメラを回しているときだった。

 僕は、彼女に訊いたのだ。

「そんなことして意味あんの?」

 と。

 志希は、カメラをのぞいたまま、こう言った。

「意味がある必要があるの?」

 と。


 僕は、志希の言葉の意味が理解できず、言い返すこともせずただ立ち尽くしていた。

 そんな僕を無視して、志希はカメラを脇にし、歩き出す。

 なぜだか僕は、そんな志希の後ろをついていった。

「なに?」

 志希が振り返り、僕に問う。不快感を隠そうともしない。

「いや、別に」

「じゃあついてこないで」

 冷たく言い放つと、志希はまた歩き出す。

 背中が少しずつ小さくなる。

 僕はその場に立ち尽くす。

 けれど、その時、なぜだか、僕は思っていた。

 彼女と一緒なら、何かができるんじゃないかって。

「あのさ!」

 僕は叫ぶ。志希は立ち止まり、振り返り、僕を見る。

「手伝ってもいい?」

 そう僕が言うと、志希はこちらに向かい歩いてきた。

 すぐ目の前に立ち、まっすぐに僕を見る。

「本気?」

「ああ」

「なんで?」

「なんか、なんかできるんじゃないかって思って」

「なんか?」

「そう君となら、なんかできそうな気がしたから」

「そう。勝手にすれば?」

 そう言い、歩き出した志希の背中を、僕は追いかけた。

 僕は、いつも志希の背中を追っていた。ずっと、ずっと。


 僕と志希は、二人でいろいろな映画を撮った。

 なれない演技もしたし、編集の仕方も知識ゼロの所からそれなりにこなせるようになった。

 志希は映画の話ばかりした。というか、映画の話しかしなかった。

 志希の影響で、僕も色々映画を観るようになった。面白い映画がこんなにたくさんあるんだと感動したことを今でも覚えている。

 映画の話をして、映画を撮って。そうして時間を積み重ねていく中で、僕は、志希に惹かれていった。

 きっと、彼女は映画を作り続ける。僕は、その隣で今のようにその手伝いをしたい。

 その思いはどんどん大きくなり、冬のある日、僕は志希に告白をした。

「なれた?」

 告白に対する志希の答えは、それだった。

「どういうこと?」

「特別になりたかったんでしょ?」

「どうだろう。けど、志希のおかげで、特別な日々になった気がする」

「そう。じゃあよかった。さようなら」

 志希はそう言って、僕を置いて歩き出す。

「え? ちょ、答えは?」

「興味ないから、そういうの。あなたもそうだと思ってた。その感情って、特別じゃないんじゃない? 同じだよ、他の人と。青春に酔ってるんだよ。すごく心地よくて、自分が万能に思えて。でも、いつか酔いは冷める。青春って、勘違いしてても許されるから。昔はよかったねって、こんなだったねって振り返るんだ。私は嫌だ。意味なんか知らない。私には映画しかないの。映画がすべてなの」

 振り返り、それだけ言うと、志希はもうこちらを見ることはなかった。

 それから、僕はもう志希と関わることをやめた。


 クラクションの音にはっとして、僕の意識は現在(いま)に引き戻される。

 忘れようとしていた思い出。苦い思い出。

 黒澤志希は、その後、自分の夢を叶え、映画監督になった。

 きっと、僕があれこれ行ったり来たりしている間に、志希はまっすぐ自分の道を歩き続けていたんだろう。

 振られた、ということも大きい。けれど、それと同じくらいに、僕は志希の生き方を羨んでいた。

 迷わずに生きていけるというのはすごいことだ。だって、僕はいまでも悩み続けて生きているから。

 僕は大きく息を吸い、ゆっくり吐き出す。

 自然と、言葉が漏れ出した。

「なんかしてぇ」

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