第36話 運命の日へ3

 


 その夜からアロイスは高熱を出し、数日間うなされ続けた。

 アロイスの母親の葬儀が終わり落ち着くまで、私の家に預けられることになった。


 彼は恐ろしい悪夢を見ていた。

 暗闇の中、荒涼とした大地を風のように彷徨う。

 夜の森や草原、廃墟の村をいくつもいくつも、通り過ぎていく。

 飢えと渇きに苛まれ、獲物を求めて。


 ――やっと見つけた。


 獲物を見つけた時の、歓喜。

 逃げ惑う獲物の荒い息とその鼓動、血管を流れる血の脈動する音に、狩りへの興奮と高揚が限界まで高まっていく。

 やがて、追跡を続ける獲物との距離が、狭まる。

 獲物がこちらを振り返ると、それは――人間だった。



 汗ばんだアロイスの額の上に、冷水で絞った布がそっと置かれた。

 苦しい息の中で薄目を開けると、アロイスの視界に小さな私とその母がベッドに脇に居るのがぼんやりと映った。


「もう少しちゃんと絞らないと。布から水がしたたっているわ」


 私の母がやり直そうとすると幼い少女は、「わたちが、やるの!」と布を掴んだ。


「しーっ。静かにね。アロイスを起こしちゃだめよ。母さんはお葬式に行ってくるから、お留守番をお願いね。直ぐに戻って来るから。何かあったら、村長の家に来なさい」


 母が居なくなり、私が布を絞り直してアロイスの額に置く。

 アロイスと目が合うと、私は大きな海緑色シー・グリーンの瞳を見開き、パチパチと瞬きをした。


「水を……」


 しわがれた声でアロイスが水を欲しがると、私はこっくりと頷いた。

 水差しからゴブレットに水を注ぎ、両手で慎重に運ぶ。


 アロイスは水を飲んで人心地がつくと、呟いた。


「お葬式って?」


 私はギクリ、としてから、持って来たお気に入りの犬のぬいぐるみをぎゅっと抱きしめた。

 それから決意に満ちた眼差しで、母のお手製のぬいぐるみをアロイスに差し出した。


「 わたちの犬の妖精クー・シーをあげるの」


 緑色の古びた布を使い、羊毛を詰めて作られたぬいぐるみは、ニ、三箇所継ぎあてがされている。

 他の人から見れば、見すぼらしいぬいぐるみ。

 でも幼い私にとっては、いつも一緒に居てくれる友達で一番の宝物だった。


犬の妖精クー・シーが居ないとソフィは夜、怖くて眠れなくなっちゃうだろ」


 アロイスがからかうように言って、私とぬいぐるみを交互に見る。


「いいの」


 私はアロイスの寝ている隣にぬいぐるみを置いた。

 そして、母にアロイスが目覚めたらあげるように言われていた果物を持って来て、皮を剥き始める。


「たべないとだめなの。『ぶとのみ』をたべると、びょうきがなおるの」


 お姉さんぶった様子で、瑞々しい果実をひと粒ずつ、アロイスに食べさせる。

 アロイスがブトの実を噛むと、甘酸っぱい果汁が口の中に広がった。


 彼は唐突に、私の母が言ってたお葬式が誰のものなのか、気づく。

 眼尻からつぅ、と涙が流れた。


「……いっちょに、ねてあげる。おはなちも、ちてあげる」


 小さな身体が、ごそごそとアロイスの寝ている布団に潜り込む。

 細い腕がアロイスを抱きしめ、顔を寄せると頬にキスをした。


「あろいすはとってもきれいだから、ようせいのおうじさまなの。

 犬の妖精クー・シーは、おうじさまをまもってくれるの。

 ……むかちむかち、ようせいのおかに、おうさまとおうさまのむすめたちが、すんでいまちた。

 ようせいのおかには、犬の妖精クー・シーがいて、おうさまたちをまもっていましゅ――」


 母から聞かされていた物語をアロイスに話しているうちに、私の方が先にすやすやと眠ってしまう。

 アロイスもまた、規則正しい寝息を立てている私を抱きしめながら、うとうとと眠りに落ちた。

 今度は、悪夢にうなされることはなかった。


 

 ――がやって来たという話は、あっという間に村中に広まってしまった。


 村の人々は誰かと顔を合わせる度に、不安そうにその話をするようになった。

 丘の上から降りて、自らの支配する町へ行く者たちも出始めた。

 

 先祖伝来の土地を離れるのは、並大抵のことではない。

 年寄りや病人、幼子を抱えた家は特に。

 ここから一番近い村でも徒歩で半月近くかかってしまう。

 しかも道中は危険で、魔物や魔獣に襲われたり盗賊に遭うこともある。


 だから、村を出て行ったのは若者が中心だった。

 もともと閉鎖的な村の暮らしに、不満があったのかも知れない。


 丁度その頃、クレモン城下町では疫病が猛威を振るい、数多の人々が命を落としていた。

 陸の孤島とも言われるヴィーザル村に行商がやって来て、その話が伝わる頃にはすでに疫病は沈静化していたのだけれど。

 出て行った村人たちからの便りはなく、その話を聞いた後ではもう町に行くと言い出す者は居なかった。


 村は働き盛りの若者が減り、農作業や家畜の世話をするための人手不足は深刻になる。

 もともと裕福とはいえず、食べて行くのに精いっぱいのヴィーザルの民。

 そのしわ寄せは、子供たちにもやって来る。

 少し大きな子供たちは、肌で危機を感じ取っていた。

 冬を越すためには、自分たちも精一杯働かなければならないと理解していた。



 アロイスは年長のパトリスを始め年上の少年たちと、森の中に来ていた。

 この森は、私たちの先祖が魔獣の嫌う樹を少しずつ植樹してできたと言い伝えられている。

 今では色んな種類の広葉樹の森になっているけれど、魔獣は棲んで居ない。


 少年たちは、仕掛けた罠に獲物が掛かって居るかどうかを調べたり、薪を拾って集めたり。

 森で薪を拾い集めるのは、子供の仕事だ。

 それに森に行けば、木の実や果実、きのこなどの食べ物も手に入る。

 

 小さな私は歩幅が狭く、みんなから遅れがちになる。

 アロイスが仕方なく手を繋いだ。

 彼はダメだと言ったのに、私が少年たちの後について森に来てしまったことに困惑し、苛立ちを感じていた。


「やった! 罠に 一角兎ホーン・ラビットが掛かっているぞ」


 前を歩いていた少年たちから、歓声が上がる。

 アロイスが私の手を離し、少年たちの方へ駆けだした。


「あろいす、まって」


 私も危なっかしい足取りで、アロイスたちの後を追う。

 少年が罠から獲物を外そうとした時、ぐったりと力なく横たわっていた一角兎は、突然パッと起き上がった。


「ばか、早く捕まえろ!」


 少年たちからすり抜けた一角兎は、私の方に向かって走って来る。 

 大人だったらそれほど脅威のない獣でも、子供にとっては違う。

 子供のアロイスの目から見たその獣は、とても大きく凶暴に見えた。 


 アロイスの心は、恐怖で一杯だった。

 それでも、私の前に立つと一角兎を睨みつける。


 一角兎が飛びあがって、アロイスに体当たりを仕掛ける。

 その衝撃でアロイスは転倒し、一角兎の角が前に突き出した腕を掠めた。

 血飛沫が舞い、血が一滴、私の頬にかかった。

 一角兎は、そのまま木立の中に逃げ去ってしまった。


「アロイスさま!」


 パトリスが慌ててアロイスの元にかけ駆けつけ、腕の傷を確かめる。

 携帯していた布で止血のために縛る間、隣で私がわんわん泣いている。

 アロイスが怪我をしていない方の手で、私の頭を撫でてなだめた。


「……大丈夫だから」


 ズキズキと傷口が痛んでいるのに、アロイスは幼い私を守り切ったと誇らしい気持ちになっている。

 一方、パトリスはカンカンに怒っていた。


「ソフィが、わがままを言ってついて来るからだ。アロイスさまの怪我を見たら、村長がなんとおっしゃるか」


 パトリスはアロイスの家に代々仕えている家系で、今はアロイスの守役をしていた。


「私が付いていながらなぜと、村長をがっかりさせてしまう」


「パトリスのせいじゃない。父さんには黙っていればいい」


「そんな訳には……」


 縛った布から血が滲んでいる。村に戻って傷の手当をしなければならないし、そうなれば大人たちにばれてしまう。


「おばばさまの所に行く」


 子供たちにお婆さまと呼ばれて慕われているのは、村の広場の前にある祠の敷地に住んでいる年老いた聖女のこと。

 敷地には薬草ハーブがびっしりと植えられていて、蜂箱も置かれている。

 小さな子供たちが訊ねて行くと、様々なお手伝いをする代わりに、前日神々にお供えして固くなったパンを、薄く切って蜂蜜を塗ったものを食べさせてくれたりするのだ。


 パトリスと少年たちは森に残って薪の採集を続けることになり、アロイスと私は村に戻ってこっそり聖女に手当てをしてもらうことにした。

 パトリスは怪我をしたアロイスについて行きたがったけど、人数が少ない方が目立たないとアロイスが主張した。

 それに、アロイスが抜けた分、少年たちは余計に薪を集めて運ばなければならなかった。


 アロイスと私は村に戻ると、隠れるように祠の裏庭から中に入る。

 小さな私の目線と同じ位の高さに生い茂るモカル草の中の小道の先に、聖女の住んでいる小屋が建っていた。


「お婆さま」


 戸を開けて呼べば、中から甘い蜂蜜の香りがする。

 返事を待たずにいい香りのする台所へ行くと、かまどの前にエプロンをした聖女が立っていた。

 聖女は枯れ木のように細く、顔には皺が寄っている。

 それでも背筋をしゃんと伸ばしたさまは、どこか威厳があった。


「おや、アロイス。ソフィも一緒かい? ちょうど今、蜜蝋を作っていたんだよ。

 一昨日、採取して蜂蜜を絞ったから、その搾りかすの巣で蜜蝋を作ってしまおうと思ってね。

 そのまま放っておくと、巣虫が蜜蝋を食べてしまうし、巣に残っていた幼虫などが腐って悪臭がついてしまうんだ」


 ぐらぐらとお湯が煮えている大きな鍋に、聖女は蜂の巣をすべて放り込む。

 それからようやく振り返って、ふたりを見た。


「あれまあ。怪我をしたのかい? こっちに来てお座り。傷を見てやろう」


 聖女は丸椅子にアロイスを座らせると、上衣を脱がせ、傷口を水で洗い、薬を塗った。


「ちみる? いたい?」


 アロイスに抱きついて、手当てする様子を覗き込む私。


「邪魔すんじゃないよ」


 聖女はしっしっ、と手を払い諫めながら手早く包帯を巻いた。


「傷は大したことない。清潔にして、朝夕この薬を塗りな。水浴びはニ、三日控えて。傷が治るまで濡らさないように」


「ありがとう、お婆さま。あのう、このことは内緒にしてもらえると、嬉しいんだけど」


 くるの実の殻に入った軟膏を受け取ると、アロイスはおずおずと聖女を見上げた。


「村長に叱られたくないんだね? 仕方ない、黙っててあげるよ。これは貸しにして置くよ」


 大鍋の中で、溶けた蜜蝋が上に浮いてくる。

 ゴミを網で取り除いて、冷まして固まったら出来上がり。 

 蜜蝋を冷ましている間に、聖女は蜂蜜を塗った固いパンの切れ端を、私たちに食べさせてくれた。

 蜂蜜はモカル草の開花時期だったので、爽やかな林檎のような花の香りがした。


「みちゅろうで、なにをちゅくるの?」


 口の周りと指をべたべたにしながら、私が質問する。好奇心に目を輝かせて。


「主に軟膏だね。アロイスの傷薬にも使っているし。あかぎれに良く効くハンドクリームも作るよ」


 一塊の蜜蝋を包丁で小分けにして切りながら聖女は、アロイスに細々とした家の用事を言いつけた。

 井戸から水を汲んだり、薪を運んだり、洗濯物を取り込んだり。

 私はアロイスの周りをウロチョロするだけで、邪魔にしかなっていなかったけど、小さな私は一生懸命お手伝いをしているつもりだった。


「ソフィは、アロイスが本当に好きなんだね」


「うん。だから、あろいすがびょうきになったとき、にがいおくしゅり、わたちがいつもかわりにのんであげるの」


 聖女はひどく顔をしかめると「病人を治す薬は、ソフィが代わりに飲んではいけない」と言い聞かせた。


 そのうち疲れた私は、階段に座ったまま眠ってしまった。

 アロイスは、寝ている私をおんぶした。


「お婆さま、今日はありがとうございました。また来ます」

 

「……アロイス。を使うんじゃないよ。そんなものは、川にでも捨ててしまいな」


 聖女の言うが、アロイスのズボンのポケットにあるサシャ王から貰った黒玉のことを指しているのは明白だった。

 水緑アクアグリーンの瞳は、老いても曇ることなく、アロイスを見つめた。


 アロイスは黙って頭を下げ、聖女の家を後にした。


 

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