第34話 運命の日へ
首筋を噛まれ、激痛が走る。ユー・シュエンは私に、快楽ではなく痛みだけを与えるつもりらしい。
涙が零れ、頬を伝って落ちて行く。
アロイスは、私と牙を埋めて血を貪るユー・シュエンを凝視していた。
燃え上がるように輝く紅い瞳。彼の顔に浮かぶのは、殺意と嫉妬、自責の念と血への渇望。
不意に、ユー・シュエンの思念が私の中に流れ込んできた。
――なんという美味だ。話には聞いていたが
この男は、確実に私たちを殺すつもりでいる。最初から、見逃すつもりなどない。私の血を吸い不死者にする提案も、アロイスをより苦しませるための芝居でしかなかったのだ。
不意に、ユー・シュエンの記憶の中にある、サシャ王の姿が脳裏に浮かぶ。
玉座に座った凛々しくも美貌の、不死者の王。
長い足は組まれているが、長身の男らしい体格だと分かる。真紅の豊かな巻き毛は、肩からこぼれ落ち腰まで渦を巻いて流れている。
秀でた額、真っすぐな鼻梁は優雅でありながら力強く、その形の良い唇は官能的だった。顎の線はしっかりとして男性的で、意志の強さを感じられた。そしてその瞳は髪と同じ真紅で、目が合えば心の奥底まですべて見通し屈服させる支配者のもの。
漆黒の天鵞絨の服には飾り宝石が縫い込まれて煌めき、上腕の膨らみのある袖と上着の部分に
私は怖ろしい不死者の王の姿に、戦慄する。
ユー・シュエンはこの美しく怖ろしい王に、狂おしいほど心酔している。
そして、サシャ王が自らアロイスを眷属に変え、伯爵の爵位とこのノワールの領地を与えたことに対し、燃えるような嫉妬心を抱いていた。
「ユー・シュエン卿。もう十分だ」
アロイスが制止しても、ユー・シュエンは吸血を止めようとしない。アロイスから、怒りと殺気がほとばしる。
私は気づかれぬようにスカートのポケットに手を入れ、銀の
握りしめた
ユー・シュエンは驚愕して、その顔には信じられないといった表情が浮かんだ。
「ばか、な……俺がこんな」
この男は完全に私を侮っていたから、吸血の最中の隙を突くことが出来た。
素早く身をひるがえし男から離れようとすると、私に向かって腕を突き出す。
刃物のような長い爪の凶器が、私に迫る。
――その時。
「ソフィ……!」
アロイスが私をかばって、ユー・シュエンと私の間に入る。
ユー・シュエンの手刀が、アロイスの胸を貫いた。
「かっ、……は!」
その時、同時にアロイスが手にしていた白木の杭も、ユー・シュエンの心臓を打ち抜いていた。
ユー・シュエンは仰向きにどう、と倒れた。
「ア、アロイスッ!」
そしてアロイスもまた、ガクッと膝をつき、血を吐きながら地に崩れ落ちた。
ぐらり、と眩暈がして私もその場に座り込んだ。
身体が冷えて、力が入らない。
血だまりの中に、二人の男が倒れている。
ユー・シュエンは、私が銀の刃で切り裂いた脇腹と、アロイスが胸に打ち込んだ白木の杭を中心に、崩壊が始まっていた。
アロイスは、まだ生きている。
苦しそうに喘ぎ、痙攣していた。
私は必死に這ってアロイスの側に行き、顔を近づけた。
「ああ、お願い。あなたまで、私を置いて逝かないで……!」
私たちは故郷の村で共に育ち、いつも一緒に居るのが当たり前だった。
故郷に不幸が訪れた時も、その後も。
孤児になった私の、たった一人の家族――夫。
彼は長い時をこれからも生き続け、ずっと私の側に居てくれると信じていた。
先に死ぬのは、私の方だと思っていたのに。
アロイスの口元に、震える手首を差し出すと、彼は弱々しく顔を背けた。
「どうして」
私の血を彼に与えようとして拒絶され、パニックを起こしかける。
――これ以上は……危険だ。ソフィは
血の絆を通して、アロイスの気持ちが伝わって来た。
激痛と渇きと、本能的な血への欲望に苦しみながらも、それ以上に私を案じる彼の愛情が。
アロイスもまた、吸血しているユー・シュエンの隙を狙っていたのだ。
最初から私を
私が、夜の住人に変えられるのは絶対に嫌だ、と知っているから。
血まみれの冷たいアロイスの身体を、かき抱く。
私の身体もさらに冷えて、まぶたがとても重く感じる。
ひどく、眠い。
夜風が吹き、世界樹の木の葉がさわさわと揺れる。
私はアロイスに寄り添い、眠りにつこうとしている。
そして、意識だけがアロイスの中へと落ちていく――。
◆◇
暗闇の中、ドクンドクンと力強い心臓の鼓動が鳴っている。
人々の声が聞こえる。
急に明るい所に出て、赤ん坊の泣き叫ぶ声がしている。
ぼんやりとした視界に大きな手が映り、抱き上げられる。
「長、元気な男の子ですよ!」
その場にいた人々から、喜びの声が上がる。
産湯に浸かり柔らかな布に包まれると、ベッドに寝ている女の人の傍らに寝かされた。
「この子の目は、
「
祝杯を挙げているのは、アロイスの父。ベッドに寝ているのは彼の母だ。
私の記憶より、ずっと若い。
早送りのように目まぐるしく時が過ぎて、アロイスはよちよちと歩き始める。
――これは、いったい……?
人はいまわの際にその人生を振り返るように、様々な情景を走馬灯のように見るという。
――じゃあ、これはアロイスが見ている記憶なの……! アロイスの命が終わろうとしているのに、私は何も出来ずにこうして見ているだけ――。
アロイスの小さな手が、母親のスカートを掴んだ。
「今夜は、赤ちゃんが生まれるお家にお手伝いに行くから、いい子にお留守番してね」
幼いアロイスが、母親と離れるのを嫌がって泣くと、アロイスの父親が息子を抱き上げた。
「赤ん坊が生まれたら、母さんと見に行くといい」
晴れた空の下、アロイスは母親と手をつないで道を歩いている。
二人が向かっていたのは、私の家だった。
懐かしさに、胸が締めつけられる。
庭に村の人たちが集まっている。
木のテーブルに料理を並べて飲み食いし、赤子の誕生を祝っていた。
アロイスたちは木造の家の中に入り、奥の部屋に行った。
そこには、私の両親が居た!
今は亡き両親の姿が、あまりにも鮮明で生き生きとしていることに恐れを抱く。
小さなアロイスが見上げる私の父は、背が高く巨人のよう。
そして、母が赤子を抱いていた。
アロイスが覗き込むと、赤ん坊はぱっちりと目を開きアロイスをじっと見つめた。
アロイスの母が、言い聞かせるように話しかけた。
「この子の名前は、ソフィよ。大きくなったら、あなたのお嫁さんになるの。大事になさい」
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