第33話 選択

  


 血の絆から、アロイスの血への渇望と情欲が高まっているのを知って、濡れた髪をかき上げうなじを露わにする。


「アロイス、私の血を――」


「いや。ソフィは今、とても疲れているし、顔色も悪いから」


 アロイスは苦しそうに顔を歪めた。


 ――でも彼は……血を、補給をしなければならない。私以外の、誰かから。


 無意識に唇を噛みそうになって、堪えた。

 この後、戦地に赴く彼に、せめて負の感情を顔に出して見せるようなことはしたくなくて。


「これから作戦会議があるから先に行くけれど、ソフィはゆっくりして。アンヌを呼ぼう」


 お互いに離れがたく感じているのに、状況はそれを許してはくれない。

 寂しさを覚えながらも、我がままを言ってはいけないと思う。

 だって、非常時なのだから……。


 アロイスと入れ替わりに浴室に入って来たアンヌは、私の顔を見るなりハラハラと涙をこぼした。


「ソフィさま、心配しました。ご無事で本当に、よかっ――」


「アンヌ……もう大丈夫よ」


 私はアンヌの手を握り、宥めようとした。でもアンヌは芯の強い娘で、すぐに気持ちを立て直してくれた。

 棚から薔薇の石鹸を取ると、よく泡立てて私の髪を丁寧に洗い、すすいだ。


 浴室から出て着替える時に脱ぎ捨てられていたドレス見て、屈んでポケットの中に入れてあった銀の柳葉飛刀りょうようひとうを取り出した。


「片付けてなくて、すみません」


 アンヌが慌てて籠の中に衣類を集めて入れる。

 私は着替えたドレスのポケットの中に、そっと柳葉飛刀りょうようひとうを潜ませた。


 ――この銀の刃で、リゼットは滅びてしまった。


 銀の威力は凄まじいものだった。圧倒的な力と再生力を持つが、あんなにも脆く死んでしまうなんて。銀がによって厳しく管理され、人間が所持することは許されていないのも当然だ。

 アロイスの言う通り私に流れる妖精フェアリーの血がを惹きつけるのなら、自分の身を守るためにこれを持っていよう。

 それから、ローランを見つけてあの腕輪ブレスレッドを返してもらわないと。


「お食事を、ソフィさまのお部屋の方にご用意してあります」


「ありがとう。アロイスは、もう会議が始まっているのかしら」


 アロイスの寝室から、居間を横切り控えの間に出て、執務室の扉に向かう。


「お待ちください。そちらは、いけません!」


 アンヌの声が後ろから届く。

 

 私はその時、何かに駆られたように、確かめずにはいられなかった。

 執務室の前に控えていた居た従僕が制止するのを振り払って、バン!と大きく扉を開いた。


 そこで目にしたのは――ウォールナット材の美しい象嵌細工が施された執務机の椅子に座っているアロイスと、彼の膝の上のうら若い娘の姿。

 アロイスは、灰色がかった金髪アッシュ・ブロンドの娘の首筋に顔を埋め、血を飲んでいた。

 煌びやかなドレスを着た娘は、膝の上に横座りして両手をアロイスの肩に回して抱きついている。


 彼が顔を上げると、爛々と光るその紅い目と、私の目が合った。

 私はくるりと後ろを向き、その場から逃げ出した。


 すれ違う城の使用人から、ドレスを翻して飛ぶように走る私に驚きの声が上がる。


 風のように廊下を走り抜け、階段を駆け下り、そして中庭へ。

 私もそんな自分自身に、驚愕していた。

 まるでみたいに、身体が動いていたから。


 満月を明日に控え、煌々と輝く月が中空を過ぎている。

 私の足は無意識に 薬草園ハーブ・ガーデンへと向かった。

 いつも私の心を慰め、支えてくれる薬草園ハーブ・ガーデンの中央の樹のもとに。

 なんてことない普通の樹、でも故郷の村から苗を植樹した私たちにとっての大切な樹。

 これが伝説の世界樹だと言われても、まだピンと来ない。

 

 夜の薬草園ハーブ・ガーデンは、真昼の陽光に包まれた世界とはまるで雰囲気が違う。

 夜風に吹かれ、草木の香り、虫の鳴く音に耳を澄ませる。

 樹の幹にもたれ、気持ちを落ち着かせようと思った。


 私より若くて瑞々しい娘の肌に、牙の口づけをしていたアロイス。


 彼は不死者。生き長らえるため、力を得るために、人間から吸血しなければならない。

 アロイスがこれまでも、私以外の他の娘達から、血を吸っているのは知っている。

 それは仕方がないことだと、そう思ってきたはずなのに。

 知っている事と、実際この目で見てしまった事の違いに、打ちのめされていた。

 なぜ見なくてもいいものをわざわざこの目で確認して、自分を傷つけるような真似をしてしまったのか。

 

「ばか、よね……」


 アロイスと私は、一緒に育った。私たちは幼いころから沢山の時間を共に過ごし、愛情を育んできた。

 彼が昔から私にしてくれた数々のことを、思い出そうとしてあの暗黒の日の鮮烈な記憶にすべて塗り潰されてしまう。


 ――アロイスは私を愛している。私もアロイスを愛している、愛している……。


 呪文のように唱える。愛している、と。

 だから、彼が前線に行く前に話し合って、なんのわだかまりもなく、笑顔で送り出さなきゃ。さもないと……。


「ずっと後悔することになってしまう」


「――奇遇だな、俺もだ」


 ふいに耳元で男の声がして、私は飛びあがるほど驚き、小さく悲鳴を上げた。


「最初にお前の血を吸った時に、何故気づけなかったのかと後悔していた」


 今、一番二人きりになりたくない男、ユー・シュエンが目の前にいる。


「うそ、信じられない。どうして、ここに」


「そんなに驚かなくても、いいじゃないか」


 思えばユー・シュエンが現れる時は、いつも気配を感じられず、こちらを不意打ちにする。

 彼は私を見降ろし、切れ長の目を眇めると、口の端を上げてニヤリと笑う。

 そして、ドンと両手を私を挟さむように木の幹について、逃げられないようにされてしまった。


「さっきは同族の返り血の匂いに紛れていたが、お前からすごく良い香りがしている」


「触ら、ないで……っ」


 ユー・シュエンの手が私の顎にかかり、親指がくちびるに触れる。

 その指が、上唇とした唇の間を割って入ろうとした。

 ガリッと噛みついてやると、口の中にユー・シュエンの血の味が広がった。

 急いで唾ごと吐き出すと、ユー・シュエンは喉を逸らせて笑った。


「俺の血を口にしたのか。俺は、伯爵よりもずっと長く生きている。一滴でも口にすれば――」


 固い木の幹に身体を押し付けられる。ユー・シュエンの口から覗く牙が長く伸びる。

 明らかに彼は、私の恐怖心を煽り、楽しんでいる。


「ああ、そうだ。いいことを思いついた。お前の血をすべて飲み尽くし、俺の眷属にしてやろう。俺のものになったお前を見る、伯爵の顔はさぞかし――」


「悪ふざけは、そこまでだ。ユー・シュエン卿」


 煌々とした月を背景にして、空からアロイスが漆黒のマントを蝙蝠の翼のように広げ降り立った。

 ユー・シュエンは、小さく舌打ちをして振り返った。


「我が妻は教会で正式に冥界の女神ヘルの御名によって、僕と結ばれた。妻に手を出せば、卿が巡察官であろうとただでは済まない。

 ――ソフィ、こちらへ」


 アロイスが私に手を差し伸べた。彼の元へ行こうとするのを、ユー・シュエンが阻んだ。


「伯爵、これは妖精フェアリーだ。知っていて隠していたな? 忌々しい『光の民』の連中が崇める邪教の救世主、奇跡を起こす聖女。この女が人間どもに担ぎ上げられたら、面倒なことになると分かっているだろう?」


「……。彼女を、どうするつもりだ」


「この場で殺してもいいが、それでは伯爵がお気の毒だ。俺がに変えてやろう。愛し合う二人が共に長い時を過ごせる。素晴しい結末だろう?」


「いやぁっ! には、なりたくない!」


 夜の住人、人間の生血をすする不死者アンデットに変わったおぞましい自分を想像して、首を大きく左右に振った。

 しかもユー・シュエンの眷属にされたら、私はこの男に未来永劫支配され、何一つ逆らえなくなってしまうのだ。


「そこで最愛の妻が、同族になるのを見ているがいい」


 アロイスの顔がゆがみ、歯を食いしばっている。

 ユー・シュエンの指の爪が長く鋭利に伸びて、私の首に当てられる。

 私を人質にされ、アロイスはその場から動けない。


「待て。卿が妻を眷属にするくらいなら、自分でやる。その方が外聞もいいだろう?」


「なら、俺がこの女の血をすべて吸い取った後で、伯爵に任せてやる」


 睨み合う、二人の男。

 私がになるのは嫌だ、と言っているのに。

 アロイスはユー・シュエンに私の血を吸わせることについて妥協してしまうつもりなのかと、信じられない思いで一杯になる。


「ソフィ。ユー・シュエン卿が君の血を吸った後で、僕の血を与える。それが最善だ。耐えてくれ」


 私は目を瞠り、小さく首を振った。


「僕は、君を支配したりはしない。信じて」


 首筋にユー・シュエンの牙があたり、深く突き刺さった。

 

 

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