第2話 女騎士リゼット



 アロイスに会いに行くときに行き違った少女たちが、まだ中庭の辺りに居ることをいぶかしく思いつつ、軽く会釈をしてその横を通り過ぎようとした時だった。


「ソフィさまっ!」


 ヨハンが悲鳴のような声を上げた。


 ドン! と身体に衝撃が伝わり、ふわりとした浮遊感、の後で――。


 バシャンッ! 派手な水しぶきを立てて、噴水の中に尻もちをついていた。

 

 突然、中庭の噴水に突き落とされた私は、呆然として少女たちを見上げた。

 そこにある彼女たちの悪意のある視線に気づき、たじろぐ。


「お怪我はありませんか?!」


 急いで水の中に入って、私を助け起こしたヨハンは今にも泣きそうな顔をしていた。

 まだ十代前半のヨハンは、こんな顔をするとなおさら幼く見えた。


「大丈夫よ」


 水の深さは足首ほどだったし、怪我もしていない。

 この青いドレスは台無しになってしまったけど。気に入っていたのに。


 それにしても、まさかこんな目立つ場所で……。

 彼女たちが、ここまで分かりやすい嫌がらせをするとは思わなかった。


「あら、足元に気をつけて下さいな。早く着替えないと、風邪を引きますわよ」


 私を突き飛ばしたルイーズは、確か裕福な商家の出だと聞いていた。この城に娘を寄越した商家は、商売をするうえでとの取引に有利になるとでも思ったのだろうか。

 後ろの取り巻きの少女たちは、事の成り行きを面白そうに見ている。


「そうね……」


 水を吸ってずっしりと重くなったドレスのスカートを手繰り寄せ、しぼりながら今夜何度目かのため息をついた。

 初夏とはいえ、濡れた身体に夜風は寒くぶるりと震えた。


 ヨハンが問いかけるような眼差しで私を見ている。


 故郷の村では、貧しくてもみんなで助け合って生きていた。村人同士、中には気に喰わない相手もいるけど、さしたる理由もなく集団で個人を攻撃するようなことはなかったと思う。


 でも、ここでは違うようだ。


「あなたたち、もう行った方がいいと思うわ」


 これ以上のいざこざは御免だった。


「ソフィ。あなたの指図は受けないわよ」


 ルイーズは吊り上がり気味の目を険しくして、私を睨んだ。

 彼女の視線は、私のうなじにうっすらと残る咬み痕に向けられている。


「だってわたくし、アロイスさまのお気に入りなんだから」


 アロイスのは、私だけではないのは分かっていた。

 分かっていても、実際に面と向かって言われると、胸がちくりと痛んだ。


 私もルイーズも他の少女たちも、血の『提供者』として、この城に集められている。

 として人間を支配する不死者アンデットの糧となるために。


 ルイーズの増長振りは、私の態度にも原因があったかもしれない。

 何を言われてもこれまで相手にしてなかったから、どんな風に扱ってもいいと思われた? 


 でも噴水の中に突き飛ばすなんて、これまでのただの当てこすりや嫌味とは違う。

 これ以上、エスカレートさせないためにも、しっかり釘を刺して置かなければ。


「ルイーズ。提供者私たちのいざこざは、固く禁じられているわ。過去にも、厳しく罰せられた前例があるの。気を付けて」


 下手に騒ぎを大きくしたくなくて、これまでも多少のことならと目を瞑って来た。


 不死者アンデットに支配されるこの世界では、人間は力を合わせ、お互いを思いやらなければならないと思っていたから。


 でも現実を見れば、力と権力を持ったにおもねり媚を売り、人間同士で醜く争うのが悲しかった。


「あら、アロイスさまに言いつけるおつもり? ご自分ので噴水に落ちたのに?」

「だってわたくしたち、みんな見てましたわ。ソフィがしまったのを」


「なっ、何を言って!」


 怒りに顔を真っ赤にしたヨハンが、少女たちに言い返そうとしたのを急いで止める。


「もう、行きましょう」

「でも――」


 少女たちはすっと前に立って道を塞いだ。私たちをこのまま行かせるつもりはないようだ。


「ねえ、あなたたち、お似合いのふたりじゃない? 田舎者同士で。その従僕、ソフィと同じ村の出身なんでしょ」

「そうだわ、ここでその使用人とキスしなさいよ。そうしたら、通してあげる」


 ヨハンの顔がさらに赤黒く染まった。


 下劣な言葉で、ヨハンまで傷つけようとするなんて。私はぎゅっと手を握りしめた。



「――お前達、何をしている?!」


 突然、少女と私たちの間に風が吹き付けたかと思うと、褐色の巻き毛の背の高い女騎士が現れた。漆黒に真紅のライン入りのパトリスと同じ騎士服を着ている。


 ルイーズと少女たちは、忽然と目の前に現れた男装の麗人に驚く。

 さらに女騎士に鋭い目つきで睨みつけられて凍り付いた。


「ここがどこか、分かっているのか。身の程をわきまえよ」


 ハスキーなアルトの声が鞭のようにぴしりと響いた。


 、だった。


 貴族の身体能力は、人間をはるかに超えている。時に、彼らが唐突に現れたり消えたりするように感じてしまうことがある。


 彼らは必要のないときには、わざわざその力を誇示することはないと言うけれど、隠すつもりもないらしい。


「見苦しいものを見せるな。……失せろ」


 少女たちは、口の中で小さくもごもごと呟き、あわてて立ち去って行く。

 

 アロイスの騎士団の女騎士リゼットは、数か月前この真紅の薔薇ブラッディ・ローズ城に赴任して来たばかりのはず。


 リゼットは去って行く少女たちから、視線を私に向けた。


「君はソフィだね? 確か、だ。いつも宴には出ていない」


 私は誰のものでもない、と言いたくなったのをぐっと堪え、頷いた。

 貴族特有の言い回しで、専属の血の提供者のことを指しているだけなのだから。


「ありがとうございました」


 お辞儀をして行こうとすると、リゼットがヨハンを見ているのに気が付いた。


 ヨハンは薄い色の髪が多い私の故郷では珍しく、焦げ茶色のくせっ毛だ。


「……私にも一線を超える前に、息子がいてね。別れた時、ちょうどその子くらいだった」


 人から不死者アンデットになったことを、リゼットは一線を超えると表現した。


 優しい眼差しでヨハンを見つめ、何かを思い出しているようだった。

 彼女は二十代後半の外見で、子供が居たとは思えないほど美しく引き締まったプロポーションをしている。


「その息子さんは、今は……」


になってからは、一度も会っていない。もう……百年くらい経ったかな」


「そう、ですか」


 リゼットの息子はとっくに亡くなっているのだろうけど……。

 不死者アンデットになっても、子を思う母親の気持ちは変わらないのだろうか。


「ふふ、同情しなくていい。ひ孫たちが生きている。彼らが困っている時には、手を貸してやりたいと思っている」

 

 リゼットは艶やかな褐色の巻き毛を揺らして、ヨハンから目を逸らした。


 になった後、ずっと自分の子孫を見守っている者もいたなんて。

 彼らは情はあっても自分の糧のために、人を利用しているのだとばかり思っていた私には驚きだった。


「さあ、ふたりとも、風邪を引かないうちにお帰り」

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