第28話 冬の森

 翌日、訪れた海の上の村は、以前とは全く違う風景になっていた。

 穏やかだった海は嘘のように荒れ狂い、強い波が押し寄せて、真っ白な飛沫が砕け散る。引いてはまた直ぐに襲い掛かる高い波は、まるで小山のようだ。”海の賢者”の力なのか、それでも島の周りだけは波が押さえられてはいるものの、上がってきた潮位はどうにもならない。シンの家も、それ以外の家々も、ほとんど床すれすれまで海に浸かっている。子供たちはこんな状況も楽しんで大声で笑いながら走り回っているが、大人たちは必死だ。

 「ほら、荷物は全部、かごに入れて梁に吊るすの」

シンの奥さんも、赤子を抱いたまま大わらわだ。

 「すまんロード。こっちは手が離せそうになくて――。おさは島だ、お前たちを待っている」

 「ありがとう、自分たちで行ってきます」

島のヤシが風にあおられて揺れている。空一面に敷き詰められた雲は、流れもせず、灰色の天井のようになっていた。ロードたちは、風に吹き飛ばされまいと服の裾を押さえながらマルセリョートの入り江を見下ろす崖の上に登った。波打ち際の砂浜は、打ち寄せる波の下に沈んでしまっていたからだ。

 島の一番高いところに立って海を見渡していたハルは、ロードたちがやってきたのを見て振り返ると、柔らかく微笑んだ。

 「やあ。おはよう」

前回よりは、ずいぶん元気そうに見えた。真っ白だった顔色は少しは人間らしくなっているし、シンのお陰だろうか、ばらばらだった長い髪は肩の辺りで切りそろえられ、一つにまとめられている。自分と同じ色の眸に見つめられて、ロードは反射的に視線を逸らした。

 「で? テセラと呪文は見つかったのか」

レヴィが問う。

 「うん。場所は西の森、シルヴェスタの奥――青白い石がたくさん並んでいる地面の裂け目だ。」

 「"水晶の谷"?」

フィオが声を上げる。

 「そこ、昔、あたしも一度だけ行ったことがある。呪文、そこにあるの?」

 「僕のぶんとあわせて二つね。それと、…」ハルは、きつく目を閉じて額に指を当てた。「大きな裂け目が生まれている。闇の世界と繋がる深い回廊だ。おそらく今、そこは<影>たちのうごめく世界になっていると思う」

 「あのハルガートの仲間が、うようよ呼び出されるってわけか、上等じゃないか」

 「一人でも厄介なのに…」

 「おいおい、今回は違うぞ。何しろ、こっちには”海の賢者”がいるんだから。」

おどけた調子で言いながら、ハルのほうを向く。声とは裏腹に、表情は真剣そのものだ。

 「呪文本体が奪われても、呪文との接続は切れてないよな?」

 「うん。呪文の欠片はここにある。ただ、昨日から妙に胸騒ぎがするんだ。」

 「そっちもか。…何か異変が起きてるのは間違い無さそうだな。それに、この空だ」

 「……。」

ハルは眸を空に向け、難しい顔になる。「見えないんだ、空が。雲の向こうには何もない…こんなことは初めてだ…」

 「急ごう」

言いながら、レヴィはもう、崖を降り始めている。「西の森なら、一度行ってる。<扉>で繋げるはずだ」

 ロードは、隣でフィオの表情が強張るのに気づいた。一年近く留守にした故郷へ戻れる時が、ようやく来たのだ。だが今は、彼女にとってそれは、嬉しい瞬間ではなかった。

 覚悟を決めたような表情で、少女は扉を潜る。退けない理由があるのだ。たとえその先にあるものが、大切な人との敵対だったとしても。




 降り立ったのは、どこか森のはずれにある小さな村だった。振り返ると納屋の扉があり、間延びしたような牛の声が聞こえてくる。

 「ここ知ってる」すぐさまフィオが言う。「森に一番近い村だ。ほら、あそこ」

指差した先に、鬱蒼とした緑の森が見えている。ここでも空は一面の厚い雲に覆われているが、風は吹いていない。ただし、異常な寒さだ。一歩踏み出すと、足の下で霜柱が割れる音がした。よく見れば、村の家々の軒先にもつららが下がり、そのせいか、村はしんと静まり返ったままだ。ロードはあわてて上着のボタンを留めながら、困惑した表情で辺りを見回す。

 「…今、夏だよな?」

 「そうよ、そのはず。こんな寒いはずないのに」

フィオも、白い息を吐きながら辺りを見回す。「…っていうか、レヴィたちはどうして寒くないのよ」

 「いや、僕は寒いよ?」

と、南国衣装で上半身は裸のハルが困ったように笑う。

 「見てるとこっちが寒くなってくるから、何か着てくれよ…。」

 「ぼくは、周りの空間の空気循環を止めて、寒さを軽減してる」

とレヴィ。

 「そういうの出来るんなら早く言えよ。」

 「出来るっていうか、今やってみたら出来たんだけど…まあいっか。」

何か呟いて、レヴィが周囲を囲む仕草をした。何も変わった感じはしないが、確かに、寒さが少しマシになったような気がする。

 「見えない壁で温室を作ってるようなもんだ。ぼくを中心に範囲指定だから、あんまり離れると効果がなくなるぞ。」

 「途中で、防寒着を手に入れたほうがいいわね」

言いながら、フィオが森へと続く小道を歩き出す。

 「うちに寄るわ。どうせ、目的地はその先だから。」

村を離れてしばらくすると、森はあっという間に密林へと変わった。溺れそうになるほど濃い緑、森の匂いが四方から押し寄せてくる。こんなに寒くなければ、そして暗くなければ、どんなに美しい森だっただろう。生き物の気配はなく、獣道の脇に咲いた花々は、寒さのせいか萎れている。両手で抱えきれないほどの大木が天を突くようにそびえるシルヴェスタの森は、風の塔を取り囲む青い森とは違った意味で、人を寄せ付けない秘境なのだった。




 道はすぐに消えてしまったが、フィオの足取りに迷いはない。苔に覆われた太い根を乗り越え、岩の間を流れる小川を飛び越え、歩いていくと、やがて行く手に、木々が切り払われた広場のような場所が見えてきた。畑があり、丸木で作った小屋が建っている。

 「あれよ!」

フィオが駆け出す。てっきり青い森の時のように数日歩かされるのだと思っていたロードは、拍子抜けした。

 「ここなのか? 意外と村から近いな」

 「うん、でも村の人は誰も入ってこないのよ。魔女の森、って言ってね。さ、入って入って」

締め切られていた小屋の中は、少し湿っぽい感じがしたが、埃も溜まっていない。見下ろすと、靴の下には手の込んだ編み模様の入った足ふきマットが敷かれていた。壁にかかる手製のタペストリ、レースのテーブルクロス。束ねられたハーブが、天井から吊り下げられている。

 ここがフィオの、”森の賢者”テセラと共に暮らしていた家なのか。

 「冬には森にもたまに雪が降るから、防寒着はあるのよ。ちょっとだけ待っててくれる?」

 「あー、ぼくも手伝う」

レヴィがフィオを追って奥の部屋へ消えていく。奥の廊下の両脇が寝室、廊下の一番突き当たりには、裏口らしいもう一つの扉があるのようだ。見上げれば、高い天井の上のほうには物置があり、はしごが掛かっている。

 一通り辺りを見回していたロードは、視線に気づいてはっとした。ハルが近くに残っていることを忘れていたのだ。

 「えーと、…何?」

 「ううん。それ使ってくれてるんだなぁと思って」

そう言って、ハルはロードが腰のベルトに提げている投げナイフを指差して、にっこり笑った。

 「それ、昔、僕がマーシアに作ってあげたんだ。僕の特性は、物質変化だから」

 「そう…なんだ」

目を逸らしながら、彼は、ややぶっきらぼうに聞く。

 「そういやさ、あんた、何でおれの名前知ってたんだよ。島を出たあと、母さんとは会ってなかったんだよな?」

 「うん。島を出るときも、彼女は子供を授かってるなんて一言も言わなかった。でも、僕があげた貝殻は窓に飾ってくれたから、すぐに見つけられたよ。それからは、ずっと見てた。はいはいを始めた時とか――はじめて歯が生えたときとか――、そうだ、書き方の練習をしてるとき、名前の綴りをよく間違えて…」

ロードは、思わず顔が赤くなるのを感じた。

 「そんな昔のこと忘れろよ! ていうか、あんたそれ、…千里眼の使い方間違えてるだろ! レヴィに知られたら仕事しろって怒られるぞ絶対」

ハルは、少しだけ悲しそうな顔をした、

 「そうだね。僕は"賢者"失格だ。でも嬉しかったんだ。側にいられなくても、一緒に暮らしてるような気がして、…初めて、自分にこの力があって良かったと思った。――それに、"賢者"になって長生きしなければ、マーシアにも君にも会えなかったんだ。そう思ったら、生きててよかったなぁって思えて」

 「……。」

その表情はあまりにも純粋すぎて、ロードには何も言い返せなかった。レヴィの言った「あいつにとっては不可欠なものだった」という言葉の意味を、分かりたくもないのに分かってしまうのが辛かった。

 「ねえロード?」

 「…何だよ」

 「頭撫でてみていい? 見てるだけだったから、一度触ってみたかったんだ」

 「うわ、ちょ」

ハルが手を伸ばしかけるのに気づいて、ロードは咄嗟に部屋の隅まで逃げた。

 「おれ、もう十九だぞ?! 人前でそういうのはちょっと!」

 「そう…か?」

 「ちょっとー何騒いでんの。また喧嘩?」

フィオとレヴィが、両手一杯に服を抱えて戻ってきた。

 「喧嘩とかじゃないよ。」

むすっとした顔で、ロードは二人が机の上に積み上げた衣類の中から手袋とマフラーを取り上げる。

 「ハルさん、背、そんなないよね? 女物だけど、これでいけるかなあ」

 「へぇ、陸だとこんな服を着るんだね。変わった手触りだな…これは何で出来てるの」

 「……。」

表情をごまかすように、彼はマフラーを二重に巻いて顔の半分を隠した。それに、家の中にいても息が白くなるほどの寒さだ。

 「さて、準備が出来たところで改めて。ハル、ここから"水晶の谷"までの間に、妨害は?」

 「<影憑き>が何匹かいるが、大した問題じゃないね。気になるのは、谷の入り口にいる<影>の群れだ。レヴィ、君の得意な魔法は空間制御だよね?」

 「ああ。」

レヴィは肩をすくめ、両手を掲げる「攻撃系の魔法は、今のところ一切使えない」

 「なるほど。じゃあ、フィオと一緒にサポートに回ってくれ。<影>は僕ら二人で倒すよ」

どきっとして、ロードは顔を上げた。避けきれない、薄青の視線が彼を捉える。

 「急所を狙えるのは、僕らだけだろ?」

 「…分かったよ」

レヴィはにやにやしている。

 「足ひっぱんなよ、ロード。」

 「あと喧嘩もしないでね」

 「だから喧嘩なんて…」

 「行こうか。」

慣れないマフラーの端をたなびかせながら、ハルが歩き出す。促されて、ロードは渋々その後ろに従った。すぐ後ろから、レヴィの声がする。

 「ちゃんと見てろよ、ロード」

 「…何をだよ」

言い返したとき、ハルが突然、歩きながら頭上に向かって指を振った。あまりに何気な仕草だったので、何が起きたのかはしばらく分からなかった。

 数秒後、張り出した枝の上から何かが転がり落ちてくる。大きな鳥の躯だ。見ている前で、それはかさかに干からびて、間もなく骨だけになってしまう。

 ぽかんとしているロードとフィオを見て、レヴィは楽しそうに笑っている。

 「な?」

 「すごい…」

ロードのほうは、声も出ない。

 「死角がないんだ。範囲絞って探知するのに、<真実の眸>から逃られる奴なんていない。おまけに物質変化の魔法でそのへんのものを武器に使えるから弾切れもしない。戦うだけなら、ぼくなんかより、よっぽど強いぜ。」

 「…でも」

いや、だからこそ、なのか。


 "僕は…彼女を守れなかった"


そう言って小さくなって泣いていた男が、目の前の背中に重なる。どれだけの力を持っていても、本当に守りたかったものだけは守れなかったのだ。

 そう気づいた時、無敵に見える背中は、どこか寂しそうに見えた。

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