第15話 影との戦い

 夜半過ぎて、風が少し強くなってきた。

 窓を叩く風の音で、ロードは目を覚ました。いや、叩かれているのは窓ではなくドアのほうだ。ベッドから起き上がると、彼は、手探りで靴をひっかけてドアのほうへ向かった。 

 「誰だ?」

 「あたしよ」

フィオの声だ。鍵を外してドアを開けると、上着を羽織ったフィオが不安そうな顔で立っている。

 「外、なんか様子おかしいの。それで」

 「外?」

ロードは、窓のほうを振り返った。木戸を押し開くと、窓の向こうには街灯に照らされた人気のない路地だけがある。町は寝静まり、闇の中に重なり合う屋根だけが見える。

 「気のせいじゃないのか」

 「ううん、そんなことない。ほら!」

微かな光だ。視界の端、建物と建物の間のわずかな隙間を、光が下から上に向けて打ち上げられていく。正規の軍が緊急時に使う照明弾――城壁の外側だ。風に流されて消えてゆく寸前、その光が、空を舞う何かを映し出す。

 ぞくり、とする。彼は思わず窓枠に手をかけた。

 「…今、何か居た」

窓を押し開くと、外から荒っぽい風が吹き込んでくる。シャツの上から身体を刺すような冷たい北の風の中、身を乗り出したロードの耳に、かすかな爆音が響いて来る。誰かが外で戦っている。

 「<影憑き>が出たのかもしれない」

 「それってあの、ユルヴィって人も戦ってるってこと? 心配だよ」

 「任せておけば大丈夫だろう。あっちはプロだし、今までだって町を守ってきたんだろうから」

 「でも、…」

フィオは、不安げな顔をしている。口では言ってみたものの、ロードも気持ちは同じだ。これは本来なら、自分たちが関わるべきではない場かもしれない。だが、嫌な予感がする。

 「…仕方ない。様子見に行ってみるか。ただし、手出しはするなよ。素人が邪魔しちゃまずい」

 「分かってる!」

くるりと身を翻し、フィオは自分の部屋に描け戻っていく。ロードは小さく溜息をついて、枕元に置いてあった、ナイフ一式を収納したベルトを手に取った。エリート魔法使い集団だという<王室付き>、ノルデンの黒いローブの魔法使い。そう、彼らの力が噂通りなら、自分たちが出る幕はないはずだ。――そのはずだった。

 宿の中は、もう寝静まっている。裏口で待っていると、足音を忍ばせてフィオが降りてきた。

 「お待たせ! どっち?」

 「あっちらしい」

風が強い。髪がなぶられ、上着が飛ばされそうになる。爆発音は、さっきから断続的に続いている。城壁の上の様子は見えないが、一人の魔法使いがずっと魔法を撃ち続けているとは思えなかった。そんなことをすれば、とっくに精神疲労で倒れてしまっているはずだ。

 二人は、音を頼りに闇に包まれた路地を駆け抜け、町外れへと急いだ。爆発音が近づいて来る。頭上でギチギチと、聞きなれた<影憑き>の不愉快な声がする。空を待っているのは大きな蛇のような生き物だ。暗くてよく分からないが、翼が生えているようにも見える。

 「ええー、あのデッカいの何?! あれも<影憑き>? あんな生き物、こっちの国にはいるの?」

 「……。」

ロードは一歩ずつ後退りながら、頭上に眼を凝らした。

 影よりも濃く、闇が見える。

 それは、あの二人組、アガートとハルガートを見た時と同じ色だ。

 「あいつは…<影>そのものかもしれない。あの二人組と同じ」

 「え?! あれと同じのが増えたってこと?」

 「…考えたくないけどな」

そう遠くない場所から、再び照明弾が打ちあがった。頭上高く、光に照らされて、一瞬、異形の姿があらわになる。

 それは、ぞっとするような姿だった。

 全身を覆う闇色の鱗が光を反射する。城壁の上を走り回っているのは、兵士か魔法使いだろうか。何もしていないのは、射程距離の外だからだろう。空を舞う生き物は、地表に近づくことが出来ずに空を舞っている。

 「どうやら、戦いにはならなさそうだ」

ほっとして、ロードは呟いた。「お互い手を出せないんだ。このまま夜明けまで粘れば、人間のほうが勝ちになる。」

 やはり、出る幕はない。

 「帰ろう。彼らに任せておけばいい」

そう言って踵を返し、歩き始めたその時だった。


 突然、鐘が鳴り始めた。


 どこからだろう、それは一つではない。こんな夜中に時を告げる鐘が鳴るはずもない。

 カーン、カーン。カーン、カーン。

 早いテンポで打ち鳴らされるそのリズムは、急を告げる警告音のようだ。辺りを見回していたフィオが、小さく叫んだ。

 「ロード、あれ!」

指差した方向に、黒い群れが押し寄せるのが見えた。ゆっくりと歩むそれに連れて、街灯がはじけ飛ぶ。生き物…ではない。

 それは、輪郭のない闇が辺りを無造作に破壊しながら行進していく姿だった。動けない二人の目の前を通り過ぎて、踊るように遠ざかっていく。闇の過ぎた後には灯りのない世界が訪れる。

 振り返ると、通りはもう完全に闇に沈んでいた。街中なら当然あるはずの街灯の明かりや、家々から漏れ出る光が消えうせている。あちこちで、異変に気付いて飛び起きた人々の叫び声や、悲鳴が上がり始める。

 「ランプが急に割れて…」

 「ロウソクが倒れた! 母さん、灯打ち石は? 母さん!」

 「街灯が割れたのよ。風が強いせいかしら。でも…外が何かおかしいの」

だが誰も、家の外に出てこようとはしない。光ひとつない通りは、しん、と不気味に静まり返ったままだ。

 いつしか、頭上を舞っていた黒い影は消え失せていた。と同時に、城壁の上を走り回っていた魔法使いたちもいない。町の異変に気づいて移動したのか。ばたばたと走り回る音が近くで聞こえる。

 「待って下さい!」

小さな叫び声。ガチャガチャと金属音がするのは武装だろうか。視界の端に、黒いローブが通り過ぎるのが見えた。

 「うわああ!」

悲鳴が聞こえた。と同時に、ギチギチという声が路地の向こうから聞こえてくる。ロードより先に、フィオが駆け出した。

 「きゃあ、なにこれっ」

路地から飛び出したところで、ロードは急に足を止めたフィオにぶつかりそうになる。

 「フィオ、どうし…」

彼もまた、思わず息を呑んだ。闇の中に、無数の野犬が集まっている。吼えるでもなく、唸るでもなく、虚ろな目をして、ギチギチと耳障りな音を立てながら、二人組の黒いローブの魔法使いたちを取り囲んでいる。

 「そこの民間人、何をしている! 家から出るなという警告の鐘が聞こえなかったのか!」

前方から、落雷のような怒鳴り声が響いて来た。よく見ると、取り囲まれている一方は、昼間見たいかつい大男だ。その隣にいた小柄なほうが、フードを跳ね上げた。

 「きみたちは、さっきの…」

 「あ、ユルヴィ!」

 「のんきに手なんか振ってる場合じゃないぞ、これ」

ロードは腰のナイフにそろそろと手を伸ばした。野犬の群れは、路地の奥にもいる。新たな声が迫ってくるのを感じて、大男はチッと舌打ちした。

 「ユルヴィ、照明弾!」

 「は、はいっ」

ユルヴィは、ローブの下から取り出した短い筒のようなものを向けた。ドン、と鈍い音がして、光弾が打ち出される。さっき城壁のあたりで見たものと同じだ。ぱあっと一瞬、あたりが明るくなり、<影憑き>たちが蜘蛛の子を散らすように逃げ去って行く。だが、逃げただけで倒してはいない。狭い路地の入り組むこの町では、追い詰めるのは至難の業だ。

 「数は」

 「五十ほどはいました、ケネスさん。」

 「そうか、…多いな。急ぐぞ、ユルヴィ。それと、」

じろりとロードたちのほうを睨む。

 「他国人だろうと民間人は守れという命令だ。お前たちは即刻、宿に帰れ」

それだけ言い捨てると、ローブを翻してさきに駆け出す。こちらに向かって軽く頭を下げると、ユルヴィも、相方を追っていった。

 「鐘の音、て言ったね」

 「ああ。さっきのだろうな。そういう意味だったのか」

外出禁止を告げる鐘の音――それで通りは静かなままなのだ、とロードは思った。あの鐘の信号は、ここが要塞都市だった頃の名残か。

 町のどこか遠くで、再び信号段が上がった。<影憑き>の群れを一箇所に追い込もうとしているのだ。一糸乱れぬ動きだ。この短時間で、どうやって連絡をとりあったのか。

 「フィオ」

 「何?」

 「さっき…通り過ぎた奴…」

彼は目尻を押さえた。何か、ちりちりとした嫌な予感を感じる。こんな感覚は初めてだ。


 『どこまでなら壊しても大丈夫なのかなって。大きい動物のほうが分かりやすいでしょ?』


うふふふ、という笑い声が耳に蘇ってくる。


 『次も見逃してくれるとは限らないぞ。―――その覚悟はあるのか?』


レヴィの眼差し。自然と、足が動き出す。

 「ロード? どこ行くの」

 「…こっちだ」

 「ちょっ、待って! ロード!」

薄く広がる闇が視える。それは、城門のあたりで一つに固まろうとしている。




 城門前の広場では、黒ローブの魔法使いたちが円陣を組んで<影憑き>の群れを取り囲んでいた。逃げようとしてもスキはなく、強い光に照らされて、次々と力を失っていく。動かなくなった屍が、広場に積み上げられてゆく。

 「次!」

一定時間を置いて、列になった魔法使いたちが前後を入れ替えていく。まるで軍隊のようだ。特定の誰かを消耗させないためだろう。残りはあとわずかだ。何も問題はない、と思われた。町に侵入した影憑きは、ここで全て退治されているのだと。

 だがその時、突然、頭上にあの大きな蛇のような影が現れた。

 「上方に新手! …いえ、さっきの巨体です!」

 「何? 逃げたはずでは」

上を見上げる一瞬、反応が遅れた。大きく羽ばたいた蛇のような影は、頭上から一気に魔法使いたちの円陣の中に突っ込んでゆく。

 「うわっ」

 「ぎゃあ!」

尾で地面が削り取られ、数人が直撃を受けて吹き飛ばされる。

 ロードたちが駆けつけたのは、まさにその時だった。円陣から逃れた野犬が数頭、こちらに向かって駆けて来る。

 「逃がすかっ」

ロードは、<影>の急所めがけて立て続けに二本のナイフを放った。後ろではフィオが、手のひらに生み出した火球を構えている。

 「ロード、そっち行ったっ」

 「ああ!」

振り向き様、フィオの火球を避けた一頭にも命中させる。<影>が消え、屍が音も無くその場に崩れ落ちた。顔を上げると、魔法使いたちのほうも隊列を立て直しつつあった。頭上に向けて、光弾が打ち込まれ、影が高く舞い上がって離れてゆく。その中から一人、傷ついた仲間たちを離れたところまで運び出そうと懸命になっている小柄な魔法使いがいる。背中側に落ちたフードの下から、上気した、そばかすの残る顔が見えた。

 「ユルヴィ!」

ロードたちが駆け寄っていくと、彼は眼を大きく見開いて振り返った。

 「きみたち、どうしてここに…」

 「ごめん、やっぱり気になったんだ。手伝う。」

 「ああ、でも…」

言いかけたとき、背後で何かが爆発した。

 「きゃっ」

 「うわっ…」

暴風に吹き飛ばされ、ロードたちは一塊になって転がった。衝撃で、一瞬、気が遠くなりかける。

 意識が飛んでいたのは、せいぜい数秒の間だろう。我に返った時、視界は砂埃で真っ白になっていた。隣にユルヴィが倒れている。

 「大丈夫か。しっかりしろ」

 「っ…何が起きたの」

足元のほうで、フィオがふらふらと起き上がる。闇の中、どこかからうめき声が聞こえる。何が起きたのかはすぐには分からなかった。ただ、さっきまで魔法使いたちのいた辺りの地面が大きく窪んで、その周りに吹き飛ばされたらしい人の身体が転がっているのは分かる。

 ぞっとするような威力だが、おそらく魔法ではない。巨大な何かが体を叩き付けたかのような痕跡がある。まさに力づくの攻撃だ。

 「ざーんねーん。まだ生き残りがいるわよぉ、ハルガート」

ロードは思わず、体を硬直させた。この声。間違いない。

 振り返ると、こちらに向かって歩いて来ようとしている女が見えた。視線が合う。

 「あらあ? 何、あんたたち、確か前にも…」

前と会った時とは顔が違う。いや、姿などどうでもいいのだ。この二人に形は意味がない。さっき、町をさまよっていた形の無い闇。あれが本来の姿なのだとロードは思った。

 頭上から羽音が近づいて来る。

 蛇のような生き物は、地面に降り立つ瞬間にぐにゃりと歪んで、男の姿になった。

 「三人か。一撃で…」

 「待てよ。お前らには聞きたいことがあったんだ」

ロードは、立ち上がってフィオとユルヴィの前に立ちはだかった。男のほうの急所は分かっている。女のほうは――腰の辺りだ。狙いにくい場所。だが、賭けるならこれしかない。

 それとなく片手を腰にやりながら、彼は、精一杯余裕を装っていた。

 「お前たちは何者だ。どこから来た」

 「何者、ですって?」

女は、面白そうに赤い唇をゆがめる。

 「お前たちは<影>だろ。<影>がどこから来るのかって聞いてるんだ」

 「へえー、人間って何でも知りたがる生き物だっていう話は本当なのね。自分の状況、分かってるの?」

女の片手が歪んだかと思うと、するりと闇が腕に絡み付いてくる。身体が重い。動けない。ぞっとするような冷たさに、脳までしびれるようだ。

 ロードは、歯を食いしばりながら、相手をじっと見据えていた。

 「答えろよ。お前たちは何をする気なんだ」

 「何って…この世界を壊して作り直すのよ。だって、不平等じゃないの。なんでわたしたち影人だけが閉じ込められていなくちゃいけないの? もともと世界はすべて、わたしたちのものだったのに」

 「影…人…?」

 「そうよ、世界の始まりからいる、この世界のほんとうの主はわたしたち。お前たち後から作られた。分かった? だから、あんたたちはみんな死んで頂戴」

影が締め付けてくる。息が詰まる。

 「…ぐっ」

 「ふふ。いい声」

 「ロード! …あっ」

男のほうが、フィオとユルヴィを、それぞれ片手で掴みあげている。ロードは、急速に遠のいていく意識の中で、必死で身体の力をかき集めた。そして、目の前の女の腰の辺りに赤く滲むように見えている場所めがけてナイフを放った。

 「ギッ」

女が呻き、体をのけぞらせた。まとわりついていた影の腕がするりと解け、ロードは地面に投げ出される。止まっていた呼吸が戻ってくると同時に、彼は、全力で呼吸して肺に空気を取り込んだ。――まだだ。女は体を痙攣させているだけで、まだ死んでいない。血のように赤い眼が、こちらを睨んでいる。

 もう一撃。それに、まだ男のほうもいる。

 二本目に手をかけようとした時、彼は、横合いから飛んできた何かに弾き飛ばされた。視界が、一瞬真っ暗になる。

 気がついたとき、彼は城壁の上に吊り下げられていた。フィオとユルヴィは、眼下に倒れたままだ。

 「アガート、大丈夫か」

男が、女に近づいて様子を伺っている。至近距離からの一撃だったためか、女はまだ巧く動けないでいる。身体の一部が輪郭を失い、無様に地面の上をのた打ち回っている。

 「…ころして、あいつを! 早くッ」

 「ああ。だが、偶然とは思えん。あの人間はもう二度も、我々の心臓の位置を正確に狙ってきた。あり得ないことだ」

 「だから、…何?」

 「持ち帰って、"魔女"に見せたほうが良くないか」

 「必要ないわ! 殺せば一緒でしょ」

ロードは、自分を壁に押し付けているハルガートの身体の一部を見下ろした。腕も足も、どんなに力を込めてもびくともしない。ハルガートが、仕方ないという顔でこちらを見上げる。

 「わかった。始末だな」

これで終わる。相手がほんの少し力を込めれば、自分はぺしゃんこになってしまう。

 ロードは死を覚悟しながらも、動かないフィオたちを見ていた。せめて、二人だけでも今の隙に逃げてくれと思いながら。


 「はあ…」


そんな彼の悲壮な思いを打ち砕くかのように、気の抜けた溜息が聞こえたのはその時だった。

 ふいに、重力が消えた。四肢を拘束していた重圧も消え、ロードは、城壁の前の空間にふわりと投げ出されていた。

 「な、…」

落ちる、と思った瞬間、上着の襟首が何かに掴まれていた。振り返った彼は、何度も瞬きして確かめた。

 「…レヴィ?」

 「よー久し振り。なんでお前は、いつもどっかから落ちかけてるんだ?」

城壁の壁に垂直に張り付いている少年は、壁を蹴ると、ロードを掴んだまま地面に跳んだ。重力を無視して、まるで羽毛のように城壁の上に着地する。

 「どうやって、ここに――」

 「来るぞ」

その言葉通り、城壁の下から闇の腕が伸びてくる。彼は、素早く地面を蹴って更に塀の上へ駆けた。ロードはわけもわからず、襟首を掴まれたまま宙を舞っている。

 レヴィが足を止めたのは、城壁の端、広場からも街並みからも離れた場所だった。傍らには鐘つき塔が隣接するように聳え立っている。さっき警告の鐘が打ち鳴らされていたのは、この場所だろうか。

 「――うふふふっ」

背後から笑い声が響いて来る。レヴィはロードから手を離して、下がっていろ、というように、ちょいちょいと手を振った。

 「"魔女"の言うのは本当だったわ。あんまりにもちょこまかして捕まらないって言ったら、人間の町を襲えばいいんだって。そうすれば、おまえは絶対助けに出てくるからーってね。」

 「へえ、あいつの入れ知恵かよ。どおりで面倒なことしてると思った。」

心底嫌そうな顔で、ちらりとロードのほうを見る。

 「どうしてくれるんだよ。あいつらの狙い通り出てきちまったせいで、人間思いの良い奴認定されちまったじゃないか。ぼくとしては、お前らがドジ踏まなきゃ静観するつもりだったのに」

 「それ、…おれたちを責めてるつもりなのか?」

 「ああそうさ。ドジでマヌケなお前らに文句言ってるんだ。覚悟しろってあれほど言ったのに」

ぶつぶつ言いながら、ポケットに手を突っ込んでちらりとアガートのほうほ見やる。

 「んでも。あいつここには来てないんだろ? まさかお前らだけでやる気かよ」

 「あら、いけない?」

 「いけなくはないけ…」

足元から伸びてきた影を素早く避ける。

 「どっ、と。」

振り向き様、片方の手でロードの腕を掴んだ。「ちょっと付き合ってもらうぞ」

 「は? 何を…うわっ」

目の前に、女が迫ってくる。思わず避けようとしたが、レヴィに掴まれていて動けない。そして影は、目の前でぴたりと止まった。

 レヴィが何かしているのだ、とロードは思った。女は物凄い形相で、何かわめき立てながら見えない壁を殴っているが、その声は全く聞こえない。ちらりと見ると、頭上にはさっきの翼の生えた蛇のような生き物が舞っている。ハルガートの変身した姿だ。

 「あいつらの急所は視えてるな?」

後ろから、レヴィが囁く。

 「ああ、…けど、どういうわけか、あいつらには致命傷にはならないんだ」

 「そりゃ、あいつらを守ってる"暈"が邪魔なせいだな」

 「暈?」

 「今から、そいつをひっぺがす。一瞬だ。いいな? しっかり狙えよ」

そう言ってロードから手を離すなり、レヴィは小さく何かを呟いた。その途端、辺りを真っ白な輝きが包み込んだ。

 「うわっ」

反射的に目をつぶろうとして、――ロードは、それがただの光ではないことに気がついた。焼け付くような暑さも、目を開けていられないような眩しさもない。不思議と暖かく、それでいて明るいとだけ感じられる白い世界。

 目の前で、アガートが硬直している。そして、その体を覆っていた、薄い膜のような影が消えてゆくのが見えた。


 そういうことか。


 ロードは、ナイフをまさぐった。さっき弾き飛ばされたときに、二本目を落としてきてしまった。それでも、まだ残りは二本ある。十分だ。

 「くっ、…この」

我に返った女が動き出そうとする。その瞬間、ロードの放ったナイフが真っ直ぐに、女の脇腹を貫く。

 「…!」

声も無く、女がその場にへたへたと崩れ落ちていく。体を形作っていた輪郭が弾けとんだ。

 頭上で咆哮が上がった。見上げると、こちらに向かって突っ込んでくる蛇の姿がある。

 「うわっ」

弾き飛ばされて、ロードは宙に舞った。だが、ここで逃がすわけには行かない。残りは一本。落下しながらも、彼は懸命にナイフを放った。狙うべき急所は、頭の後ろ。腕輪に渾身の力を込めて刃を加速させる。――

 けれど、狙いは僅かに逸れていた。女の消えたあたりを漂っている影の中で頭を振りながら、ハルガートはこちらを睨みつけている。もう一度だ。…

 投げたナイフを腕輪の力で引き戻そうとしたとき、身体が空中で止まった。側で羽音が聞こえる。

 鴉とロードは、衝撃もなく、同時に地面に降り立った。頭上で、光が消えてゆこうとしている。地面に降りた瞬間、鴉は再び人間の姿に戻っていた。

 「ごめん、もう少しだったのに」

 「ん? ま、仕方ないさ。片方は仕留めたしな」

残念がるそぶりも見せず、レヴィは空を見上げている。生き残ったハルガートはどこかへ消えてしまった。そして、東の空はうっすらと白み始めている。




 <影憑き>に翻弄された長い夜が開ける。

 町に侵入され、怪我人、死者多数。

 たとえ敵の片方を仕留められたにしても、――これは果たして、勝利の夜明けと呼べるのだろうか。

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