第59話 渦道隠と秘密
夜の
人々が新年を祝う準備に明け暮れる日に、彼は私の部屋にやってきた。
靴を脱いで、
無精髭にロングコート。その有り様は同じアパートに住む別の人物を
薄いベージュのコートは彼のトレードマークだ。
そんな彼は私の部屋に入ってきてすぐに不機嫌そうに顔をしかめた。
血の匂いでもしたのかな?
そんなふうに思いながら、今年の住人たちが起こした事件をまとめた紙束をわたす。
それが管理人である私の仕事なのだから。
受け取って、彼は更に顔を
「おい、今年多いんじゃないか」
ぶっきらぼうな言い方。相変わらずなのだから、困った人だ。
渡した資料を目を皿のようにして読んで
「そんなことないでしょう」
じろりと睨まれるが、まあたいしたことはない。眼光はするどいけれど、この人は善人だ。一応。
「……まあいい。で? 住人たちはうまく手なずけられそうか?」
私はそれに苦笑を返して見せた。彼の眉がぐいっと上がる。不機嫌さを隠さないのは彼の悪いところであり、素直さの表れともいえる。そう思うあたり、私も彼に多少は情を感じているのだろう。
「手なずける。だなんて人聞きが悪い。少しだけ制限を設けているだけですよ」
「ふん。どうだか」
裏島さんが鼻をならす。私は変わらず苦笑で返すのみ。それがよほどど気に入らなかったらしい。彼は手に持った資料を床に叩きつけた。
「オトギリ荘……俺はこのシステムには正直反対だ」
ああ、そこにまた行きますか。
いつもいつもここの意義についての話題。いい加減諦めたらどうです?
ここ、オトギリ荘は一つのシステム。
ある種の実験場であり、彼らを管理するためのシステム。
彼ら──狂った者たちを。
「だいたいな、
それはそうだ。
と私は笑ってみせる。
そんなこと本気で可能だと思っているのは上層部のアホどもだけ。それに関しては、私も賛同するところではありますがね。
しかし実際のところ、そううまくいってないということもない。
私は落とされた資料を拾って
苦虫を何十匹と
「……別れた元旦那を殺害し、子供を
やはり実際は効果もあるようですね。実績があるということです。彼の気持ちはともかくとして。ふふ。まったく。
「そういうところは警察官らしいですね」
ギロリと睨まれる。ああ、怖い怖い。
「そういうお前は元警察関係者とは思えんな」
「関係者だなんて、ただの解剖医ですから」
私の過去を色々と知っている裏島さんのセリフに私は苦笑を返す。水が合わなかったんですよね。
もちろん。たのしかったですよ。あそこにいれば解剖いくらでもできますからねぇ。
私は小さく笑って資料を再び裏島さんに渡す。
「真山美穂さんは死をもって罪を
そう言えば、彼はチッと再び舌打ちをした。
「おっしゃるとおりバックがいたわけですからねぇ、で、その代議士のほうはどうでしたか?」
「そりゃ荒れたさ。個人的に気に入ってた女が
ああ、それはそれは。
「ここの存在がばれたら困りますね」
「ふん。そうなりゃここも取り壊しだ」
裏島さんはあざ笑うように部屋を見渡した。この部屋で普段何が行われているのか、彼は知っている。だからでしょう。ひどく顔を歪めている。
「ふふ、裏島さん本当にオトギリ荘がお嫌いなのですね」
「当然だ。誰が悲しくて犯罪者どもを見過ごしてやらなきゃいけない。しかもどいつもこいつも凶悪な連中だ」
「だから、ここで管理しているのですよ」
どの人物も管理が可能な人間たちだ。
そしておそらく裁判にしたとて、責任能力の有無という観点から罪を問うことはできない者が多い。
そのことは裏島さんも重々承知だろう。
「理解はしている。だが、鬼山真澄に関してはどう説明する? 奴は根っからのサイコキラーだ。ここに押し込めて確かに被害は減ったが……」
とらえれば、罪を償わせることができる。
死刑という形で。
そう思っているのでしょうね。でも、おそらくそれは無理だろう。なにせ、彼女はとある実業家の娘。金の力とは恐ろしいものですから。裏島さんはそれを知らないのでしたっけね。
「彼女にも、バックがいるのですよ。とはいえ、彼女は狩りを楽しんでいるのです。そしてここでならそう簡単には狩れません。当分は楽しんでくれるでしょう」
実際彼女はここで新しいターゲットを見つけたらしい。それを狩るのに今は意識がむかっている。放置しておいても問題はないと、私はおもいますがね。
ふと、裏島さんが上を見上げてため息をついた。
どうしたのです?
「金があるやつは、なんでももみ消す。嫌な世の中だ。だから、ここがあるってことか」
わかっているではないですか。
そのとおりですよ。私はうなずいてオトギリ荘の各部屋の鍵に視線を移す。
管理人というのはこのアパートの管理をするというだけでなく、鍵の、彼らの行動の管理人でもある。そしてここに住んでいることで、彼らは私の管理下に入り、その背後に誰がいるかなど関係なくなるのです。
「あっちの坊主も大丈夫なんだろうな。無差別殺人なんて放置できんぞ」
ああ、表屋さんですか。
私はニコリと笑ってみせる。案の定彼は舌打ちしたが、仕方ない。
あなたは正義の人だから、知らなくてもいいこともあるんですよ。
「これからは大丈夫ですよ」
「なぜそう言い切れる」
低い声で裏島さんが唸る。
「無差別と言っても対象はわかっているんですから、彼も自覚した以上そういうところには近寄らないでしょう。それに、彼の秘密を知っている人がいる。そのことが彼にとっては重要なのですよ。まあ、姿をくらませることもこれでなくなりましたし、いいではないですか」
「お前はどうせ解剖ができるからって喜んでるだけだろうが」
ああ、そんな言い方しないでくださいな。
確かにその通りですけどね。
薄く笑ってみせれば、彼は再び
「狂人め」
「何をいっているんです。ここのことを知りながら黙っているあなたも、しっかり狂人ですよ」
そう返せば、やはり彼は心外そうに私を睨む。
自覚がないだけタチがわるい。あなたもそうですよ、裏島さん。
「……人格が違うなら、そいつは別人格が狂っているだけってことか」
「どうでしょうね」
「あ?」
彼の言葉に私はおどけてみせる。
私は、今年の春に見た、とある光景が思い出した。
そこは路地裏だった。
ちょっとした解剖の帰り、たまたまよった裏のバー。
その入り口がある路地裏で私は見ていた。
一人の青年が、そっと女性と路地に入ってくるのを。
そしてその両手が女性の首に回る。
苦し気にもがく女性を壁に押し付けて、彼は笑う。
楽しげに。
愉快そうに。
笑う。
死体を前に、彼は笑う。
そしてふいに、憑き物が落ちたように、唐突にその笑いが収まって、彼は死体を見下ろした。
「大丈夫」
低いつぶやきが聞こえた。
「大丈夫だ、空。すべて俺がしたことだ。お前じゃないよ」
その声は切実で穏やかで悲痛だった。
それを見つめる私に彼は気づいたのでしょう。近づいてくる彼の必死の形相を見ながら私はね、悟ったんですよ。
ああ、なるほど。とね。
私は思わずほほ笑んでいた。
「で? どうなんだ? 一方はまともなのか?」
とても気になるのでしょうね。
食いつきそうな勢いで身を乗り出す裏島さんの視線を受けて、私はくすりと笑います。
「なんだ、急に」
「いえ、ねぇ、裏島さん知ってますか?」
「あ?」
「思い込みというものはね。誰かが指摘してあげないと気づかないものなのですよ」
「……そういうものだろう」
不思議そうに裏島さんは首を傾げる。
指摘されなければわからない。
それが、いないはずの人間をいると認識するほど強く思い込める人間ならば、尚更。
真実を知るものがいても、黙っていれば物事は永遠に知られないまま。
「ああ、優しいお兄さんですよねぇ」
「一体なんの話だ?」
「ふふ、秘密ですよ」
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