第56話 居場所
「空くん! リンゴ食べる?」
「いりません。相変わらずだね
早朝。部屋をノックされて開けてみれば、隣の女子高生がリンゴを手に目の前に立っていた。
正直、気持ちは
だけど、虚がいなくなったときもそうだったけど、本当に僕はそういう異常事態に動じないというか、それで生活が変化しないというか。不思議なことにそれにはあまりダメージをうけないらしい。
はじめは鬼山さんの声が頭に響いていたけれど、それもすぐになくなった。
気持は落ち込んでいても、変わらぬ日々をすごす。
それも僕が狂っていることの証拠なのか、よくわからない。
そんな僕に久々に訪問者があった。それが彼女だ。
「もうっ、
と彼女は
そうだっけ。
「お部屋、片付いた?」
と毒島さん。改め、一笑が言った。
僕は適当に
ところが毒島さんからみると荒れて見えるのか、僕の部屋をのぞいた彼女は「うそじゃん」と軽く言う。
僕の部屋が特別汚れているわけではない。
そういえば……。
「毒島さん……一笑は大丈夫だったの?」
ぎろりとにらまれて、慌てて言い直す。
鬼山さんが起こした事件の以降会っていなかったから、すこし気になっていたんだ。
そう思って尋ねるとケロッとした顔で彼女は僕を見返してきた。
「ん? アタシ? 大丈夫よ。別に怪我とかしてないし。
不満げな彼女だが、僕は胸をなでおろした。
そっか。よかった、
彼女はあのとき
それに僕を心配してくれていたから、彼女に怪我があったらどうしようって気になっていたんだ。
僕自身、彼女のことを一度はかばおうとしたわけだし。怪我がないか気になるのは当然だった。だからよかった。と僕は少しだけ安心した。
「空くんがかばってくれたからかなぁ」
とまさに僕が考えていたことを察したかのように一笑が言う。なんだか
そういえば。と一笑が話題を変える。
「あの人、人をたべちゃうんだって、聞いた?」
「人を?……ああ、白塗沢さんをかじったって。そういえばそうだったね」
ひんやりとした首元を思い出してゾワゾワとする。今は彼女のことをことを思い出したくはない。
それに気づかず、一笑は無邪気に、世間話のように
「それだけじゃなくて、本当に食べちゃうんだって、おいしいのかな。人って」
おいしい……。改めて想像して、うげっと僕は顔をゆがめた。
筋ばっかりで絶対おいしくない。
「あはは。アタシもおんなじ顔しちゃった。ちなみにアタシは鶏肉がすき」
「僕も鶏肉派かな……じゃなくて」
なに肉の話をしているんだろう。
「今日はどうしたの?」
それが聞きたかった。最近の彼女は、なんだかんだ言って用事があるときしか来ない気がする。何かしら言いたいことがあったんじゃないか。と僕は思っていた。
尋ねてみると、彼女は「そうだった」と思い出した様子で右こぶしを左手のひらにたたきつける。
なんとも古典的な表現だけど、わかりやすいほど。そういえば。だ。
「あのね、あの女の人、おにやまさんって言うんだって」
「……
「そうなの? どっちでもいいんだけどね。あの人203号室の住人らしいの」
「ああ、暗丘さんから聞いたよ」
「でね、あの人そのままあの部屋に住むらしいよ」
僕は目を
え。本当に? あれだけのことしておいて?
驚いた。本当に。まさかそのまま住むことになるなんて。そのへん決めたのって管理人さんだよね。すごい決断するなぁ。
なんだか一度管理人さんに会いたくなってきた。
「それいいの?」
「いいんじゃない? よくあるよ」
よくあるのか。
「人を食べるなんて普通じゃない人だけと……」
「普通の人なんて、オトギリ荘にはいないよ。アタシも。君も。みーんな」
打てば響くという調子で返されたその言葉に僕は顔をゆがめた。そうだ。確かに今ならそれが事実だとわかる。みんなも、僕も狂っていた。
力なく笑うと、彼女は眉をひそめた。
「なんか、やせた? てゆうかやつれた? 大丈夫?」
「え」
そうだろうか。
僕としては普通に生活していたつもりなのに。そう思ってなんとなく手を見れば、その手はぶるぶると震えていた。
僕の中で誰かがずっと僕を呼びかける。
僕はあの時、彼女を殺そうとした。
やっぱり僕は——。
「深く考えるから疲れちゃうんだよっ。テキトーでいいの、テキトーで」
一笑が僕の肩をたたいて朗らかに笑う。こういう態度をされると本当に拍子抜けしてしまう。顔を上げて僕は苦笑する。
「虚の存在を君はしってたんだよね」
「なんとなくね」
扉に寄り掛かって、一笑が言う。
その表情はいつもよりすこしだけ神妙で、僕につられているのかもしれなかった。
「君は考えるなって言うけど、やっぱり、考えてしまうよ。もしかしたら、虚じゃなくて、僕も……」
僕も平気で人を殺せる人かもしれない。
いや。間違いなくそうだ。あの瞬間鬼山さんを本気で殺そうとした僕が確かに存在するんだ。
ただ、その言葉は出てこなかった。
沈黙する僕に、一笑は首をかしげる。
「空くんがおかしいのも知ってるよ?」
「え?」
「だって、普通だったら、アタシとこうやっておしゃべりしないよ。普通だったら、このオトギリ荘にいないよ」
「それは、虚の存在があったから……」
僕が言い募ると、不思議そうな顔をされる。
「虚くんと空くんは別人じゃん。それぞれおかしいんだよ。何言ってんの?」
僕はなんだか不思議な気分になった。
同じ人物だと知って衝撃を受けていたのに。言われてみれば人格が全く違う僕たちは、まるで別人だ。
体が一つなだけで。
そして、このオトギリ荘に居続けようと決めたのは、僕だ。この奇妙なアパートに僕はある意味ふさわしいのかもしれない。
「僕も……ここにいていいのかな……」
変なことを聞いている気がした。
「いいんじゃない?」
そっけない答えが返ってくる。
「僕が人殺しでも?」
僕がもし、母さんを殺していたのだとしても?
もし僕が、人を殺すことに喜びを見出すような人間で、それを虚がとめてきてくれたのだとしても?
そんな思いで尋ねると、
「何言ってんの?」
再び心底不思議そうに彼女は首を傾げた。
「ここにいるひと、みーんな、人殺しじゃん」
まぶしいほど朝日を浴びて、彼女は笑った。
僕はそれを不思議と不気味だとは思わなかった。ただ。そうだね。と思っただけだった。
僕たちはきっと、狂っている。
沈黙して、僕は考える。思考はまとまらないけど、一つだけわかったことがある。僕が狂っているならばなおさら、僕はこのアパートにしか居場所がないんだという事だ。
彼女と別れたあと、僕は覚悟をきめて進士くんの部屋に向かった。
早朝だとか知ったことか。
知りたいんだ。
だから行こう。
真実を確認するために。
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