第55話 鬼山真澄
彼女は子供のころから他とは違った。
どこに行っても、誰に会っても、彼女は特殊な人間だった。
いい意味でも、悪い意味でも。
彼女は天才で、彼女は悪魔だった。
彼女は生まれたその時から、人を正しく生物としか見ていなかった。
彼女は正しく弱肉強食に生きていた。
だから、彼女が人を食べるのは、彼女にとっておかしいことでは決してなかった。
「だから私は別におかしなことをしてるつもりはないの。ただ、生き物としての欲望に従っているだけ」
あなたもそう思うでしょう?
と彼女は言った。
廊下の中央に立ちふさがる彼女を前に、僕は身動きが取れずにいた。
彼女の言葉は、話は、僕には到底理解できなくて、僕はどうにかのろのろと首を左右に振った。
生き物としての欲望? それに従うことが人を殺して食べる事? 理解できない。
嫌な汗が流れて、後ずさりたくなる気持ちを抑えて、僕は彼女の視線を受け止めた。
動けない。というのが正しいのかもしれない。僕はさっきからずっと、首を振る以外はつばを飲み込むことしかできないでる。指先一つ動かせない。
彼女はなおも言い募る。
「ほら、魚とか捕まえるの楽しいでしょう?
彼女、鬼山さんは自らの長い黒髪を指先でいじりながら、僕に同意を求めた。
心の底から楽しそうに語るその姿は、人間を刃物をもって追い回して殺し、そして食べる人には到底見えない。まるで本当に釣りの趣味があるだけのようにすら思える。でも、そうではない。
楽しい? それと同じ? 人間を食べるために狩りをすることが?
僕は再度首を振って声を絞り出す。
「僕には理解できない」
したくもない。
彼女は意外そうに首をかしげる。
年齢は僕より上だろう。そしてきれいな女性だ。首を
そう思うたびに、彼女は”あの人”に似てると感じて仕方ない。
目の前の女性の
「
彼女は断言する。
「だって、食べるまでの過程が楽しいでしょ。あなただって目的は違うけれど、楽しんでいるじゃない?」
僕は目を見張る。
「何を……」
「だって、あなた、笑っていたじゃない」
ひくっと顔がひきつる。
あの夜のことだ。嫌なところを突かれた。そんな感じだ。
どくどくと心臓がうるさい。
「あなたも本当は楽しいのよ。ちがう?」
僕は大きく首を振った。否定しなくてはいけないとわかっていた。ここで否定しなくては恐ろしいことになると、そんな気がした。
「そんなことないっ」
叫ぶように僕が反論すると、彼女はまたもや意外そうに目を見開いて、それからつまらなそうな顔をした。事実つまらなかったのだろう。ため息交じりに僕を見る。
「自覚がない
殺戮? そんなことしない。僕にはそんな思いあるはずない。
──そう言い切れない。
言い切るためには、確証が得られていないんだ。虚にまだ会えていない。真実を進士くんに調べてもらってもいない。
僕は首を何度も振った。
すべての思考を散らすように、何度も。それでも僕の思考はずっと真実を追い求めて止まらない。
そんな僕を見ていた鬼山さんが、ふいに面白いことを考え付いた。というような子供のような顔をして、一歩踏み出した。
押し出されるように僕は一歩退く。
「そういえば、きいたわよ。あなた二重人格なんでしょう? 虚っていうのでしょう? その子がたくさん殺したのでしょう?」
「なんで知って……」
「あなたが出てきたその部屋の子から聞いたのよ。情報料高かったわ」
と言われて、僕は歯噛みする。
ああ、進士くんがあんな風におとなしく僕に情報をくれるといったのは、これに対する引け目があったからだったのか……。
いや、申し訳ないなんて
どうしてそんなことを教えてしまうんだ。プライベートだ。ふざけるな。
怒りとも焦りともつかぬ何かが僕の体を襲ってくる。
「そんな怖い顔しないでちょうだい」
と彼女は枯れているようなのに、なぜかよく響く声で僕にたしなめるように言う。
「思ったんだけどね、あなたのお母さんを殺したのも、その人格のせい。みんなその人格のせい。そうしてしまえばいいのよ」
「そんなことできない!」
僕は反射的に叫んだ。それからはっとする。
彼女がにんまりと笑っていた。
「じゃあ、誰が殺したのかしら。……ああ、もしかして、全部あなた?」
「……ちがう」
「あなたが殺して、それを虚というお兄さんのせいにしているのね」
「ちがう!」
「本当に?」
ニンマリとわらって彼女はさらに近づいてくる。僕は
彼女の真っ黒な真珠のような瞳が僕を射抜く。美しく歪んだ唇が僕を追い詰めていく。
僕、僕は……。
「ちがう……でも、母さんを殺したのは……僕、かもしれない」
なんでこんなことを彼女に告白しているのだろう。そんなことを言っても、彼女は助けてはくれないというのに。そんなことを言っても真実はわからないというのに。
僕は何度も首を振る。
唐突に彼女が「ねえ」と声をかけてきた。
恐る恐ると顔をあげると、思ったより近くに彼女の顔があって慌ててのけぞる。
後頭部をしたたかに壁にぶつけたが、それどころではない。
彼女は僕の態度を気にした様子もなく、さらに僕にぐっと顔を近づけて。
「試してみる?」
といった。
今、なんて……?
呆ける僕の手を彼女がとる。
びくりと手が震えてどうしようもない。
怖い。
指が震える。
僕の手はゆっくりと誘導されて、そして彼女の細い首に指先が触れた。
鬼山さんが笑う。
「ねぇ、私の首を絞めてみる?」
ひんやりとした皮膚の温度を感じる。
薄い皮膚の下に血が流れている。筋肉が彼女の呼吸に合わせて動き、心音に合わせて脈を打つ。
「あたたかい手ね」
彼女は目を細めて笑った。僕は。その首に指を回して、手のひらと指先に力を込めて、そしてゆっくりゆっくりとしめて……。
危険だ。
危険な女だ。
排除しないと。
そんな思いが僕をがんじがらめにしていく。 僕は、彼女の首を本気でへし折ろうとした。
──その時。
『だめだ!』
反射的に僕は彼女の首から手を離した。
そのまま数歩後ずさる。
手を抑えて、荒い息を押し殺して、僕はじりじりと彼女から遠ざかった。
「どうしたの?」
『どうしたの? 空?』
ずっと昔に聞いた母さんの声と重なる。
唇が震えて、僕は思わず悲鳴を上げそうになった。
恐慌に
走って、走って、走り続けて3階の自室に
バン! と音をさせて扉をしめ、ズルズルと扉を背にしゃがみこむ。
下から彼女の笑い声が聞こえた。
まるで魔女のような、低くて、でも女性の、頭に響く不快な笑い声。
耳をふさぐ。唇を噛みしめる。鼻の頭が熱くなって、涙が溢れそうになった。
うずくまったまま、僕は顔を伏せた。
彼女の笑い声が頭から離れない……。
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