第48話 女の影
部屋を見渡して、それから僕は潔子さんをまずフローリングの床に寝かせた。
床以外に寝かせられるところがない。なんといってもあちこちガラス瓶だらけで、ベッドの上は何かの液体で変色している。
とてもじゃないが、そんなところには寝かせられないだろう。
そうして背中の潔子さんを下ろしてから、今度は白塗沢さんを僕はかかえ起こしにむかう。
と言ってもすてに壁に寄りかかっている状態だ。僕はその崩れたような体制を整えてあげることしかできない。
ずり下がるような格好の彼をしっかり座らせようと脇に手を添えて、そうしてはっと息を呑んだ。
全身に切り傷があるのは潔子さんと同じだが、その腕の出血が異常だ。思わず顔をしかめるほどの傷。
ざっくり言えば、右の二の腕が何かに抉り取られたようになっている。
まるで、まるで動物に食べられたみたいな……。
「ボクはおいしくないそうですよ」
僕の思考を裏付けるようにそう言ったのは、気絶していたかと思われた白塗沢さんだった。
うめき声をあげる、目は眠りにつきそうな様子だけれど、なんとか意識はあるらしい。
起き上がろうとする彼を僕は制止する。ただ、壁によりかかる体制が辛くないようにと、ベッドから枕を持ってきて枕カバーをはずしてから背に入れた。
ふぅ。と一息ついた白塗沢さんにむかって、毒島さんが尋ねる。
「おいしくないってなに?」
僕も何かしら声をかけようとして、結局当たり障りのない言葉が口からするりと出てきた。
「いや、それより大丈夫ですか?」
と。
僕の言葉に白塗沢さんはなんとか頷きを返してくれた。
よかった……。
いや、でも、とにかく止血だ。
「かじられたのぉ?」
相変わらずのんきな口調で毒島さんが問う。しかしその横顔は真剣だ。
そう、それだ、おいしくない。とはどういう意味か。たしかに、かじられたというのは正しいのだろう。そんな傷だ。
じろじろみるのも
白塗沢さんが痛みに呻く。
「すいません」
僕は顔を歪めた。
それにしてとひどい怪我だ。
一体なんの動物にやられたというんだろう?
こんな住宅街で?
いや、しかし体中の切り傷はまさしく刃物によるものだ。なら……人間?
「潔子は大丈夫だったみたいだけど」
近くで眠っている潔子さんを、毒島さんが観察する。
僕は潔子さんの白い二の腕を持ち上げるが、切り傷はあるものの、白塗沢さんのような食いちぎられたような跡はない。
「そこにいるのは……魅内さん……ですか?」
荒い息遣いで、ぎりぎりなんとかという様子の白塗沢さんが言う。彼の位置からは僕が邪魔で潔子さんを見ることはできない。
なにより、
僕たちがそろってうなづくと、彼はやけに困った様子で、笑った。
「今は、ボクの治療のほうが先です……」
それは、まあ、そうだろう。いますぐちゃんとした治療をしなければならないのは、傷の酷さからみても白塗沢さんだ。
かじられた——食べられた二の腕の出血がひどい。血がとまらない。
僕は改めて周囲を見渡した。どこかに救急箱とかあるかもしれない……。そんな考えであちこちに視線を巡らせる。
「……それより」
キョロキョロと見渡す僕を呼び止めるように、白塗沢さんの声が続く。
「なぁに?」
いやな予感がした。
毒島さんが続きを促す。
立ち上がりかけていた僕は、彼の小さな声を聞き取るために、再びしゃがみこんだ。
ぜーぜーという息遣いの合間に、白塗沢さんがささやく。
「会い、ませんでしたか?」
「……誰に?」
問うてみたところで、何を言ってるんだ僕は、とそう思った。
誰ってそれは、こんなことをした人に決まっている。その人は刃物を持っていて、潔子さんを、白塗沢さんを傷つけて、それから――
それから?どこに行った?
「すれ違いませんでしたか? あの人、3階に行くと」
いや、すれ違っていない。となると。
潔子さんの部屋にいたときに、その何者かは3階に行ったのだろう。
3階に?
僕と毒島さんは互いに顔を見合わせた。毒島さんがひどく強張った表情をしている。僕もきっとそうだろう。
「八重子ちゃんと進士くんが危ないんじゃ?」
僕は思わずつぶやいた。今、3階には、二人しかいない。
一番若年の二人しか。
「お二人が、3階に?」
「そぉなの。とらんぷしてて」
「それはあぶない……あの二人、おいしそう、ですからね……」
「
白塗沢さんの言葉に間髪入れずに怒鳴り返した僕は冷静じゃない。
すぐに救急箱を探すのをあきらめて、とりあえず、白塗沢さんの他の深い傷の治療を行うために潔子さんのときと同じように衣服を裂いて傷口を圧迫する。
こんなときバカ力が出るものだ。衣服を破けるなんて思ったこともなかったよ。
「いやぁ、空くん。多分今の冗談じゃないとおもうけどぉ……」
「冗談じゃないなら、なお悪いよ!」
僕の表情はよほどアホ面なのだろうか。毒島さんがけらけらと笑った。
いま、本当にそれどころじゃないんじゃ……。
なんとか塗沢さんの傷の治療──といってもやはり素人の応急処置だが──をして、僕は立ち上がる。
毒島さんも続いて立ち上がった。
そんな僕らに、白塗沢さんが声を振り絞る。
「暗丘さんは?」
と。
間が悪い。それになんて運が悪いんだ。
今彼は買い出しに行っているんだ。
進士くんの言葉通りなら、彼がいればなんとかなるかもしれないが……今、いてほしい今いない。
「とりま、上いこっか」
毒島さんがまるで「コンビニいこっか」というような口調でいう。
それに白塗沢さんが微笑んでみせる。僕も苦笑いを浮かべるが、しかしなんでこんなのんきに話しているのだろうか……。
僕は二人の気持ちがよくわからない。
とにかく、三階に行かないと。行って何ができるということでもないけど……でも放置はできないじゃないか。
そう思う僕だけど、気持ちは重い。二人のテンションはそんな僕が馬鹿みたいに思えてくるほど、のんきで、尚更気分が重い。
そんな現状にいらだつ僕に、白塗沢さんが何事かをささやく。
「え?」
よく聞こえなくて、聞き返す。今何て?
白塗沢さんは微妙な表情を向けるてきた。何かを言うか言うまいかを悩むような表情だ。
そうして迷った様子の彼は一度目をそらし、しかしすぐにこちらに視線を向けた。
「女でした」
白塗沢さんが言う。
目を見張ったのは、僕。
え?
白塗沢さんが声を張る。となりで毒島さんが息を飲む。
「女でしたよ…………黒い髪の」
僕もまた、ごくりと唾を飲み込んだ。
なぜだろうか。僕の胸の内で何かがざわめいた気がした。
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