第32話 302号室の対話




 おかあさん。


 おかあさん……。

 

 はやく、かえってきて。


 暗がりに少女はいた。

 静かで、暗くて、寒くて、なにもない。

 ふと、誰かが少女を呼んだ。

 少女は、ただそこから抜け出すために、一心に手を伸ばした。

 それから、ずっと、ずっと、どこにも行けないでいる。





∴∴∴∴∴∴∴∴


 

「どうしたんだ」


 低い、男の人の声がした。

 顔を上げると、いつもわたしを見ているお兄さんが、はじめてわたしに話しかけていた。


「わたしにいってるの?」


 聞こえないのわかってる。それでも話しかけてしまうの。そうするとあちこち物が動いて、怖がらせてしまうみたい。

 でも、今日のその人は怖がったりしないの。それでね。

 わたしの声が聞こえるみたいだった。


「どうして、こんなとこにいるんだ」


 もう一度声をかけられた。

 やっぱり、この人はわたしに話しかけてくれているんだ。そう思ったら、とってもうれしくて、わたし、今笑ってるよ。おかあさん。 

 あのね。


「わからないの。気づいたら、ここにいたの。ずっと待ってるの」


「誰を?」


 だれ? だれって、もちろんそれはね。


 「おかあさんがね、かえってこないの」


 いつも、まっているのに、帰ってこない。

 今日も、きのうも、おとといも、そのまえからずーっと。


「おかあさん、しらない?」


 そう聞いたら、なにも答えてくれなかったけど、少しだけ首をふった、気がした。


「そっか、しらないんだ」


 そうだよね。おかあさん、いつかえってくるのかな……。

 わたしがうつむいていると、お兄さんが小さな声で言った。


「お母さんは、ここには帰ってこない」


「そんなことないもん。帰ってくるもん」


 どうしてそんなこと言うの?  どうして優しくしてくれないの?


「でも、もうすぐ会えると思う」


「ほんとう?」


 お兄さんがうなづいた。

 そっか。会えるんだ。それなら、いいや。

 はやくおかあさんに会いたいな……。




∴∴∴∴∴∴∴∴





 不意に目が覚めた。

 いつの間にか布団で眠ってしまっていたらしい。

 あたりが暗くなっていることに気づいて、慌てて電気の紐を引くが、つかない。

 またか。

 と僕は息を詰める。

 暗がりに少女が居た。

 じっとこちらを見ている少女。こちらを睨みつけているとは違うのだが、その視線はまとわりつくような、ねっとりとしているような気がした。

 正直言えば、その存在にも視線にも、もう慣れてしまった、と言っていいだろう。

 電気がつかないと困るなあ。そんな感じ。その程度。そのくらい気にならなくはなっている。

 それでもいない方がそりゃいいわけで。


「どうしてこんなことになったんだろう」


 僕の問いに答える声はない。

 どうして沈黙をし続けるのか ……。

 僕は隣にいるはずの兄を睨んだ。なんとか言えよ、うつろ


「……」


 僕はため息を吐き出す。昨日からこれだ。虚はだんまりを決め込んで、僕の問いに答えようとしない。まったく勝手なやつ。

 僕は両足を抱えてうずくまる。そうして壁に背を預けて、少女からそっと目を逸らした。

 ガタガタと家具が動くが、それもいつものこと。顔を背けるのも今では何てことはない。

 膝に顔を埋めてしまえば、視界は真っ暗で何も見えなくなってしまう。こうすればさらに何も感じない。

 

「虚、最近いつもどこに行ってるんだよ。いないこと、多いよね」

 

 そうたずねると、わずかな沈黙の後に。


「いるよ。ずっと……」


 と答えがあった。

 僕は顔を上げて隣を睨む。僕とよく似た顔の虚が、少女を見つめながら、隣で僕と同じように膝を抱えていた。


「なんだそれ。うそばっかり。いつもいなくなるじゃないか急に」


「いなくなっちゃいない。いつもいる」


 虚の言い分に、すこしだけイラつく。だって、いつもいないはずなのに、いる。いる。と連発されれば、ムカつくに決まって。

 だから、いないだろ。嘘つくなよって思ってしまうのも仕方ないと思うわけだよ。

 昔から、そうなんだよな。

 虚は気づいたらそばにいて、気づいたらいなくなっていて、でもやっはり一番辛い時にはそばにいてくれた。

 母さんが僕になにもくれなかった時も、虚がどこからか食べ物を持ってきてくれた。虚からもらったものだけは食べられた。

 母さんが、僕を置いていなくなってしまった時も、虚がそばにいて、慰めてくれた。

 僕の一番大切な、唯一の家族。

 でも、すぐいなくなるのは困ったやつだよ、本当にさ。


「話した」


 唐突に虚がそんなことを言った。

 僕は首をかしげる。

 虚の視線は相変わらず少女に向けられている。話したって、もしかして。


「誰と?」


「あの子と」


 なんとなく答えがわかっていて尋ねてみると、すぐに予想通りの答えが返ってきた。

 そうか、僕が眠っている間に話してたのか。

 なんとなく気に入らないけれど、まあきっとあの子も虚になら話せることがあったのかもしれないな。

 前に少女に感じた既視感。あの子を見ているとなんとなく思い出すこの奇妙な感覚。あれはたぶん虚のことだ。何が似ているかと聞かれるとわからないのだけど、あの子を見ていると虚を。虚を見ているとあの子を思い出すような気がする。

 それが、「前に少女と会った気がする」という感覚の答えなのだと思う。

 ただ、それが全てという気もしない。

 他にも誰かに似ている気がするんだ。

 気配とか雰囲気とかじゃなくて。顔が。

 覚えがないと言ったけど、会ったことがあるかもしれない。でも誰だったか思い出せない。

 それが思い出せたら、呪われている理由もわかるのではないだろうか。


「どうしたら、いいのかな」


 そんな僕の弱々しい問を、虚は黙殺ずる。さして返事の代わりに。


「あの子はもう、帰りたがってる」


 そんなことを言った。


 ──どこに?

 僕の問いには、やはり虚は答えてはくれない。

 僕は再び膝に顔を埋めた。どうしたらいいのかわからない。どうしたらいいのだろう。八重子ちゃんにもう一度会いに行って、それで、呪うのをやめてと言えば、それで済む話なのだろうか。

 鬱々とした気分でうずくまっていると、ふと、声が聞こえた気がして顔を上げる。


「?」


 遠くの方で、会話が聞こえてくる。女の人が数人話している?

 

「今、何か聞こえなかった?」


 思わず隣にいる虚に声をかけるけれど。そこにはもう、虚はいなかった。

 神出鬼没どころの話ではない。

 ほんとにもう。

 そう思いながら、僕はそっと玄関に向かった。会話は外から聞こえてくる。

 僕は玄関の扉を開けた。



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