第2話 僕と行き倒れの隣人-1




 猫が死んだ。


 飼っていたわけじゃない。

 家の裏によくいた野良猫で、ぶち柄で、生意気そうな顔の、痩せた猫だった。


 学校帰りに給食のパンを少しだけ持ってきて、そいつにあげてみたら、僕の手からパンを奪って食べ始めた。

 

 たしか、まだ僕が小学一年生くらいのとき。

 まだ僕が、給食を食べれていた頃のこと。


 その日僕は夏休みで、僕は猫にあげるものを持ってなかった。給食がなかったからだ。

 それで、ダメ元で母にねだったら、食パンをくれた。

 それを僕は喜んであげたんだ。


 猫は、たくさん吐いて、たくさん下して、痙攣して、動かなくなった。

 母が言った。



「人からもらったものなんて、食べたらだめなのよ」

 


 人からもらったものは、他人に食べさせてもいけないのだ。


 ああ、本当に、人からもらったものにろくなものはない。



◇◇◇


 

 だというのに。

 足元には、一人の男が地面にへばりついている。そしてどういうわけか、僕に食べ物をせがんでいた。

 弱々しい声で「飯ぃ……」と言いながら、僕の足にしがみついてくる。

 なぜよりにもよって僕の部屋の前に倒れているのだろう。

 僕には、皆目検討もつかない。


 とりあえず今日の晩御飯は何にしようかな。


 そう僕は現実逃避しながら、足元の行き倒れの男を、呆れ返った顔で見下ろしていた。





「うまいなぁ」


「そうですか」


 と僕はため息まじりにかえす。

 引っ越し早々でまだ片付いていない部屋に僕達はいた。


 六畳の和室を埋める畳は日に焼けて、台所と居間を分ける襖扉ふすまとびらには色あせた富士が描かれ、全体的に古い様相を見せている。

 しかし天吊りの真新しい照明だけは白い光を放っていた。部屋はそれのおかげで十分に明るい。


 安い宿を彷彿ほうふつとさせるこの部屋を僕はそれなりに気に入っていた。


 今はあちこちにダンボールが積まれたままで殺風景だけど、いずれは物を増やしていくつもりだ。


 それが楽しみではある。


 しかし今は異質なモノが。


 部屋の中央、前の部屋から持ってきた僕のちゃぶ台でカップ麺を食べている見知らぬ男。


 彼は僕が拾った行き倒れだ。


「うまいなぁ」


「そうですか」


 現在、その行き倒れと僕は、このやり取りを数回繰り返していた。



 今の状況になった経緯を思い出して、僕は本日何度めかのため息を漏らす。


 行き倒れを前に、僕は悩みに悩んで最終的には彼を部屋にあげ、備蓄していたカップ麺を提供した。

 スーパーの陳列棚に並んでいたときの姿を残した、まだ開封してないカップ麺。だからこそ罪悪感がなく渡せたわけだが、進んで人に食べ物をあげたいわけでもないので、気分がいいともいえない。


 もちろん。僕が嫌だからといって、相手もそうとは限らないのはわかっている。人にものを貰うのも、あげるのも、苦手なのは僕の問題だ。



 そんなに嫌ならなぜ部屋に上げたのか、という話になるけれど、そもそもはじめはこの行き倒れを突き放そうと思っていた。

 ところが気になって仕方ない。当然だろう? 足にすがりついてくるのだから。

 剝がしても剝がしても……。


 で、結局見捨てられなかったというわけだ。



「いやぁうまい。部屋に入れてくれて、飯までありがとよ」


 ラーメンすすりながら男が言う。


「いえ、お気になさらず」


 と僕は答える。


 僕ってお人好しだなぁ。


 だって、行き倒れるほどお腹が空いてるのだから、お粥のように消化のいいものを食べたほうがいいのだろう。なんてことまで、考えてあげるくらいなんだから。

 まあ、残念ながらそんな消化に良いものは買い溜めしてなかったからカップ麺になったわけだが。


 男は文句も言わずに食している。

 ちなみに、意外と礼儀正しく「いただきます」という言葉ももらった。


 礼儀正しいのは結構だが、だからと言って見ず知らずの人を家に入れたことを大正解だと喜べるほど僕の頭はお花畑ではない。


 むしろ言葉とは裏腹に絶賛後悔中。


 なぜなら、この男、一向に正体をあかしてくれない。



「ごちそうさま。助かった。ありがとさん」


「そうですか。よかったですね」


 カップ麺を飲むように食った見知らぬ男は、最後の汁を飲み干すと両手を合わせて深々とお辞儀をした。

 それに空返事をして、僕は質問を切り出す。

 これでようやく聞ける。


「で、あなたは誰ですか?」


 と。

 

 今更すぎる。

 

 いや、初めから気になっていたことだから何度か尋ね済だったりする。

 しかし何度聞いてもこの男はそれを答えない、というか、答える気がない、というか、お腹が空きすぎて答えられないというか。だったので今になってようやく聞けるわけだ。

 その彼の態度が、僕にはなにかを引き伸ばしにかかってるような、誤魔化そうとしているようなものに見えた。


 食べ物のことはいい。

 それよりもその態度のせいで、僕はこの人を全面的に胡散臭く思っていた。


 そんな胡散臭さをさらに助長しているのは、彼の外見だ。


 僕は改めて男の身なりに目を向ける。


 男は、いかにも怪しげな黒いコートを着ていて、髪も目も驚くほど真っ黒で、髭は無精な性格を表すかのようにまったく手入れされていない。

 髭さえなければ意外と若いのかもしれない。そんなふうに思う外見だった。

 体格やけに大柄。

 僕よりも15センチ以上背があるから、多分190cm近い。

 履いていた靴はくたびれた革靴で、それもサイズが大きかった。

 そして身につけたほぼすべてが、ほとんど浮浪者というほどのボロボロっぷり。


 ついジロジロ見てしまう。

 そんな尖った視線を受けとめて、男は薄い笑いを浮かべた。それも少しだけ気味が悪く感じられる。


 ほんと、よく部屋にいれたよ。

 と僕は自分のお人好しを恨むのだった。



 さて、誰?と尋ねてみたものの、おそらく隣人なのだろうなと、僕は予想を立ててはいる。

 というのも、【オトギリ荘】は三階建、各フロア3部屋ずつ。


 三階で行き倒れていたのだから、普通に考えれば303号室の人だろうという予想をするのが定石じょうせきというものだろう。反対隣の301号室には毒島さんという女性がすんでいるのだから。

 だからおそらくあっていると思うのだが、それでもこんなふうに尋ねるのは、要は確証がほしいからである。


 万が一浮浪者だったときのためだ。


 まあ、予想通りであるならば、大方鍵でもなくしたに違いない。

 そんな予想した内容と、似たような返事がくるかと信じて辛抱強く待っていると、たっぷりとためにためて口を開いた。


「……お前さんこそ、誰だ?」


 その男は変わらず薄ら笑いを浮かべて言った。

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