縊死悲願

吟野慶隆

縊死悲願

 リビングの天井は抜かれており、太い木の梁が剥き出しになっている。そこに、縄跳びロープの端が結びつけられていた。それは、重力に従って垂れ下がっており、先端には、頭を通せるくらいの大きさの輪が作られていた。

 糸野(いとの)益隆(ますたか)は、その円環を、平静な気持ちで眺めていた。

 当たり前のことに、驚愕はない。ロープの端に輪を作ったのは、彼だし、反対側の端を梁に結びつけたのも、彼だからだ。

 逆に、不思議なことだが、恐怖もない。今から首を吊ろうとしているにもかかわらず、だ。歯の治療を受ける前と同じくらいの緊張は感じているが、歯の治療を受けるのと同じで、取り止めよう、とまでは思わなかった。

 まあ、それも当然かもしれない。益隆は思わず、ふふ、と笑った。なにしろ、あんな「嫌なこと」があったのだ。今後の人生を悲観し、自殺することを決意しても、おかしくはない。

 益隆は普段、アパートで一人暮らしをしている。「嫌なこと」は、久し振りに実家に帰り、家族──父、母、兄、妹と雑談している時に、発生した。それが終わってからすぐさま、彼はアパートに戻ると、浴びるように酒を飲み、溶けるように酔っ払い、倒れるように眠った。

 目が覚めたのは、今から十数分前のことだ。帰宅してから、どれくらいの時間が経ったのかは、わからない。この家では常に、窓にカーテンを引き、照明を点けっ放しにしているためだ。

 益隆は、泥酔していたことが嘘だったかのような、すっきりした頭で、自殺を決意した。そして、首吊りの準備をした、というわけだ。

「さて、やるか……」

 益隆は、ぼそり、と呟いた。ロープの真下に、視線を移す。

 輪は、わりと高い位置にある。長さの関係で、これ以上に低くすることは叶わなかったのだ。

 その真下には、カラーボックスが置いてある。益隆が、ロープを梁に結びつける時、踏み台に使った物だ。三段式であり、扉は付いていない。中には、サッカーボールだの卓球ラケットだのといった、新品のスポーツ用具が収納されている。ボックスの横には椅子があり、そこから天板へと上がれるようになっていた。

 彼は、まるで日常生活の一部であるかのような足取りで、歩き出した。椅子に近づくと、座面の上に立ち、そこから、カラーボックスの天板へと移動する。輪の下半分を、両手で持った。

 次の瞬間、ばきばきっ、という音が聞こえた。同時に、がくっ、と体が下降し始めた。

 いったい何が起きたのやら、理解できない。どしっ、という音がして、下降はすぐに止まった。ばっ、と、顔を足下に向ける。

 カラーボックスが、壊れていた。

 全壊しているわけではない。縦に三つ並んでいる段のうち、最上段の側面を構成していた板、三枚が、すべて真っ二つに折れ、床に落ちてしまっている。見たところ、天板や、三段目と二段目の間にある板には、異状はなかった。

 最上段には、新品のサッカーボールを、包装から出した状態で収納していた。ちょうど、その上に天板が載っており、さらにその上に、益隆が立っている。さながら、大道芸のローラーボーラーのようだ。

 益隆は「うおお……!」と唸った。下半身が、ぐら、ぐらり、とふらつく。

 彼は必死に、落ちないよう、体のバランスを調整した。下半身が、ある方向に傾いたら、上半身を、反対方向に傾ける。それを、前後左右に繰り返した。

 しかし、そう長くは続かなかった。下半身が前傾したのに合わせて、上半身を後傾させようとしたが、間に合わない。

 ずる、と、天板がサッカーボールの上から滑り落ちた。一緒に、益隆も転落する。

 どしん、と、床に尻餅をついた。「いてて……」と言いながら、上半身を前に軽く倒して、右手で尻を摩る。彼の右斜め前あたりを、サッカーボールが、ころころ、と転がっていった。

 益隆は、後ろを振り向くと、カラーボックスを睨みつけた。しかし、よく考えてみれば、このような事故が起きても、なんら不思議ではない。設計者や開発者だって、まさか、天板の上に人が乗るだなんて、想定していなかっただろう。

 彼は、顔を前に戻すと、立ち上がった。腰に両手を当て、「さて、どうするか……」と呟く。

 カラーボックスが壊れてしまった以上、別の物を踏み台にしなければならない。しかし、何を使えばいいのか。椅子に乗ったところで、首は輪に届かない。ダイニングテーブルは、実家に帰った日の前日、老朽化のせいで脚が折れ、立たなくなってしまった。その時は、明後日にでも新品を買いに行こう、と思っていたのだが。

「うーん……何かないかな……」益隆はリビングを、ぐるり、と見回した。

 四角い形をした居間の東にある壁には、たくさんのホールドが取り付けられており、それらの真下の床には、マットが敷いてあった。ボルダリングの練習をするための設備だ。

「そうだ!」益隆は、ぽん、と、右手の拳で左手の掌を軽く叩いた。「何も、踏み台がなくては縊死できない、ってわけじゃない……要は、首が輪に届きさえすればいいんだ。あれを登ろう」

 彼は、すたすた、と、東の壁に向かって歩いていった。到着すると、目の前に付いているホールドのうち一つを右手で掴んだ。

 すぐに左足を浮かして、別の一つに掛ける。ボルダリングを開始した。

 どんどん、壁を登っていく。十数秒後、右足を移動させている間に、ホールドを踏みつけている左足が、ずる、と滑った。

「ぬおっ!」

 滑った拍子に、両手も、握っていたホールドから離してしまった。慌てて、ぶんぶん、と振りまくる。

 しかし、空を切るばかりで、ホールドを再び掴むことはできなかった。体が、ずずー、と下降していく。

「く……!」

 益隆は、両手と同時に、両足も振るようにした。一秒後、がっ、という音がして、右足がホールドを踏みつけた。

 全身の下降が、瞬間的に止まった。彼はすかさず、右手を動かすと、視野に入ったホールドのうち、一番近くにある物を、がし、と掴んだ。

 とりあえず、体を停止させることができた。益隆は、ふうー、と安堵の息を吐いた。早まった心臓の鼓動が、ある程度穏やかになってから、ボルダリングを再開する。

 しばらくして、頭が、輪と同じ高さに到達した。さらに数十秒を経て、そこよりも数十センチ上の地点へと移動する。ここなら、後は、ロープさえ掴めれば、それを手繰り寄せることで、首を括れそうだ。

 ちょうど近くに、壁からL字に突き出している、フックのような形をしたホールドがあった。それを左手で、がし、と掴む。体を捩じると、ロープめがけて、右手を伸ばした。

 残り十センチ、五センチ、二センチ。

「あと……もう……ちょい……!」益隆は、ぐうう、と唸った。

 次の瞬間、ずる、と左手が滑った。ホールドを離れる。

「なっ──」

 どうしようもなかった。ぐんぐん、体が前傾していく。やがては、両足もホールドを離れ、全身が宙に浮いた。

 すべて、一秒にも満たない間の出来事だった。すぐに益隆は、どしっ、と、マットに、右半身をぶつけるようにして着地した。

「ぐあ……!」

 思わず、益隆は呻いた。右半身全体に、衝撃や痛みを食らったせいだけではない。右手に、マットにぶつかった時、ひときわ大きな鈍痛を感じたのだ。

「うう……」

 益隆は上半身を起こした。両手を後ろの床につき、背中を支える。右手を上げると、顔の前に持ってきて、状態を確認した。

 手首が、わずかに赤くなっており、少しばかり腫れていた。挫いてしまったに違いなかった。

「クソ……これじゃあ、もう、ボルダリングはできねえな……」

 益隆は、はああ、と、大きな溜め息を吐いた。他に、高い所に位置している輪に首を通す手段があるだろうか。ジャンプしても届かないし。

「そうだ! ジャンプすればいいんだ!」

 益隆は、そんな大声を上げた。ばっ、と立ち上がり、だだ、と押入れに駆け寄る。がらっ、と扉を開け、中を、がさごそ、と探った。

 目当ての物は、大して時間をかけずに見つかった。ぐい、と、フローリングへ引っ張り出す。

 それは、室内用トランポリンだった。直径約一メートルの円形をしている。

「よし、これで……」

 益隆は、トランポリンをロープの真下に設置した。さっそく、フレームを跨いで、ベッドの上に乗る。

 ぴょん、ぴょん、と、二、三回、軽く跳ねた。直後、両脚に渾身の力を込めて、ぴょおんっ、と、大きくジャンプした。

 頭が、輪と同じくらいの高さにまで上昇した。すかさず、それの下部を、両手で、がし、と掴む。ぐい、と手前に引いた。

 しかし、首を通すことはできなかった。頭の位置が高すぎたのだ。輪の上部が、べち、と顔に当たり、両目に命中した。

「ぬお……!」

 反射的に、目を閉じる。どんどん、頭が下降していくのを感じられた。

 次の瞬間、顎が、ぐい、と、上に引っ張られた。すぐに、輪の下部に引っ掛かった、とわかった。

「ぐ……?!」

 顎はすぐに、輪から外れた。しかし、引っ掛かった拍子に、姿勢が崩れてしまっていた。全身を後傾させた状態で、落下していく。

 やがて益隆は、どしん、と、トランポリンに尻餅をついた。同時に、肩の裏と脛の裏が、がんっ、があん、と、フレームにぶつかった。

 べきっ、べきん、という音がした。体が、さらに下降する。どすっ、と、床に臀部がぶつかった。

「いてて……何だよ……?」

 ぼやきながら、辺りを見回した。何が起きたのかは、すぐにわかった。トランポリンのフレームが、真っ二つに折れているのだ。

「クソ……安物だしな、仕方ないか……」

 しかし、こうなっては、もう、どうやって首を吊ればいいのやら──益隆は腕を組むと、うーむ、と唸った。

 ぴんぽーん、という音がした。ドアチャイムだ。

 無視しよう、と思った。しかし、それはさらに、ぴんぽーん、ぴんぽーん、と連続して鳴った。

 これ以上何度も音を出されたら、迷惑だ。首吊りの方法を考えようにも、うるさくて集中できない。誰で、何の用かは知らないが、さっさと追い返してしまったほうがよさそうだ。

 益隆は、「よっこらしょ」と言いながら立ち上がった。玄関へ行くと、かちゃり、と鍵を開け、ノブに手を掛ける。

 がちゃっ、と、扉が、彼が押すよりも前に、勝手に奥へと動いた。ドアの向こうにいる人物が、開錠されたことがわかるなり、引っ張ったのだ。

 ノブを握っているのは、黒いスーツを着た、強面の男だった。さらには、玄関の周辺に、同じような容姿の男が、たくさん立っていた。

「糸野益隆だな?」

 男たちのうちの一人が、そう言うと、ばっ、と、手に持った紙を縦に広げて見せてきた。そこには、「逮捕状」と書かれていた。

「殺人の容疑で、逮捕する!」

 益隆は、はあ、と溜め息を吐いた。ついに来てしまったか、と心の中で呟く。警察に捕まる前に、死のうと思ったのに。

 事の次第は、こうだ。以前、久し振りに実家に帰った時、家族との間に、諍いが発生した。最初は、ただの嫌味の応酬だったのが、いつの間にやら怒鳴り声に発展した。

 最終的に彼は、かっ、となって、たまたま近くにあった花瓶で、父を殴り殺してしまった。その後は、もう、自暴自棄になり、キッチンにあった包丁で、母や兄、妹も殺してやった。

 以上が、実家に帰った時に発生した「嫌なこと」の正体だ。それからアパートに戻り、酔ったり眠ったりした後に、冷静になった益隆は、今後の人生を悲観して、首を吊って死のう、と考えたというわけだ。

「両手を出せ」

 刑事が言った。彼がそのとおりにするとすぐさま、左右の手首に、手錠が、がちゃり、とかけられた。

 やれやれ、と益隆は心の中で呟いた。四人も殺したのだから、自分にはきっと、死刑判決が下るだろう。しかし、今から、拘置所に入り、実際に刑が執行されるまで、長い時間がかかるに違いない。縊死できるのは、まだまだ先のことになりそうだ。


   〈了〉

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