カナリア・でぃすとぴあ

楠木黒猫きな粉

星に願いを込めるように

——カナリアがないていた。吹き付ける風が鬱陶しいのか目を伏せて首を振る。特徴的な黄色が振り乱される。そんな春風の隙間で金糸雀はないていた——


籠の鳥が鳴いていた。

タイルが敷き詰められたレンガが彩る街の中で、カーテンの開いた窓から鳴きかけていた。しかし僕は気にも留めない。そして目も合わせようとしない僕に鳥は首を傾げる。

まるで自分の美声が往来の人々を惹きつけて当然のようだ。たしかにカナリアという鳥を街中で見かけることはないだろう。物珍しさから見つめる事もあるのかもしれない。

だが僕にとってはそこまで珍しいものでもなかった。コイツは忘れているかも知れないが僕は一週間に一回はこの鳥を見に来ている。つまりこの鳥は忘れているのだ。僕の顔と形、はたまた存在自体。

悲しいことにこれは鳥に限らない。人だろうが動物だろうが機械だろうが無差別に忘れられる。

つい二日前には国の中から存在を消されていた。つまり現在進行形で不法入国扱いである。その扱いが忘れられていなければの話だが。

なぜ僕がこのような状況なのかを説明するならば一言で表せる。

『ある病』を発症しているからだ。

病名は『籠の鳥症候群』別名『欲の病』。なんとも痛々しいネーミングだ。しかし病名を教えてくれたアレは『選ばれし者に与えられるチケット』と言っていた。

症状も実に簡単なもので二つしかない。一つはデメリット、もう一つはメリットのようなもの。一つは全てからの忘却。二つ目は自らが選んだ唯一に忘れられない、そして唯一のために力を得る。というものらしい。らしいというのはこの情報が本当か確かではないからだ。

「しっかし唯一のねぇ…」

僕には覚えていてもらいたいと願う特定の誰かがいない。家族も二年前には死んでしまったし、友人と呼べる者もいない。ましてや恋人なんているはずもない。ほぼ詰みのような状況に盛大な溜息を吐く。

実質透明人間のような僕は働くことはおろか犯罪を犯す事もできない。生活資金はすでに尽きかけている。ちなみに口座は存在しないことになっていた。あの努力の紙切れは何処にいったのだろうか。気にはなるが確かめようもないことだが。

———

タイルをコツコツと踏む音が少し心地良い。

辺りを見渡せばあの街並みは無くなっていた。そのかわり視界を覆い潰したのは圧倒的な自然の色。道のある場所だけが整備され他は大自然そのものだ。こんな歪な形であろうとも大いなる自然は美しいと思える。

しかしそんな道にだって新旧は存在する。タイルの隙間から雑草が生えていた。景色だけを見て歩いていれば絶対に起こるはずのこと。すなわち迷子である。

いや、そんなはずはない。僕も一応はこの街で産まれて育っている。街外れにだって何度でも行った。けれどこんなところを僕は見たこともない。

後ろを振り返る。木々の隙間から少しだけ街が見える。新道との別れ道は発見できず、自分の不注意が原因だと知らしめられる。

崩れ落ちそうになる僕の頭にある事実が頭を掠めた。

「マズい、帰れねぇ!」

僕の住んでいる街は出る分には簡単だが入る分にはとても面倒になる。街の外観は古い時代のように思われている。しかし文明レベルは現行時代の最先端を走っている。だからこそ訪れる者には最大限の警戒として七段階の認証を求められる。その一つにIDの確認があるのだが僕にとっては持っていてもないようなものだった。僕が所持しているIDは発症当日に僕を忘れて文字の列に成り下がった。今所持している僕の名前をした誰かのIDもそろそろ忘れる頃だろう。

僕の忘却には周期が存在する。記憶されて三日後には必ず忘れられている。

どうしたものかと頭を捻る。しかしもう時間はない。また裏技的にIDを取得しようとしても金はない。足りたとしても生活費は無くなるだろう。

溜息を溢す。

「野宿かぁ」

野宿。つまりサバイバルである。

貨物トラックでもあれば忍び込んで別の街に入り込める。祈るように辺りを見渡す。

すると視界の隙間にボヤけた薄黄色が映る。

「毛玉か、ってそんなわけねぇだろうてな」

とりあえず近づいてみる。ガサリと足音に驚くように草むらが揺れる。毛玉の先端も揺れていた。

静まり返る僕と草むら。近寄って良いものかと思ってしまうが近寄らなければ分からないこともある。

極力ゆっくりと毛玉が見える方に近寄って行く。しかし近寄ってみて分かったのはこの毛玉もどきは小さな人間だ。とりあえず両手を上げておいた。敵意なんてものはさらさらないからだ。

葉の塊の後ろにそれはいた。薄い黄色の毛玉が金色の髪をした少女に変わる。それも格好から見て良家の子供だ。少女は両手で口を塞ぎ目を閉じて震えていた。

「大丈夫ですか」

優しい声音を意識して声を出した。笑顔も付け加えておいた。両手を後ろに組んで少女に目線を合わせる。十歳くらいの少女。顔は少しだけ土で汚れており、膝も少しだけ擦りむいていた。

「君、名前は」

警察に何度聞かれたか分からない言葉を少女に投げかける。少女は閉じた目を開けて僕の顔をじっくりと見る。少女は俗に言う美少女だ。整っていて幼い顔と優しい雰囲気が庇護欲を掻き立てた。

とりあえず街までは連れて行こう。そこからは警察のお仕事だ。

「私は、私」

少女の返答は哲学だった。奇妙な答えに少しだけ困惑する。しかし少女はそれが正答だと疑わない。自分のことを証明するのが自分だと信じている。僕はゆっくりと言葉の意味を染み込ませながら問う。

「名前を聞きたいんだけど」

「私は私。それだけしかない、わからない」

同じ返答に付け加えられたわからないという少女の真実。つまりこの子は名無しである。名無しということは生体認証にも登録されていない可能性もある。

僕の頭に天秤が現れた。一つは少女を近くの村に入り込ませ孤児として処理してもらうこと。もう一つはここで奇跡を信じてもらうこと。

一択問題だった。僕は少女を立ち上がらせると自分の財布の中身を確認する。二十万といったところ。何とか一人分足りるだろう。振り返り少女に確認する。

「歩ける?」

少女は首を縦に振る。膝の怪我も随分と前に負ったモノなのか既に固まってきていた。僕が歩き出すと少女はゆっくりとついてくる。

彼女はこれから別人の名を背負って生きることになる。僕と違って彼女はここから始まるのだ。忘れられることのない大事な人と出会い人生を繋いでいく。これが有意義な僕の人生の終わらせ方だと思っている。

トコトコと小動物のような少女はきっと僕とは違うのだ。きっと生まれから。だからこそ不幸から離れていって欲しかった。名前もなくさっき出会った少女のために願う。幸せであれと。

「あの、」

夜が始まろうとしている暗闇の中で少女が問いかけてくる。いつのまにか隣を歩いていた。

「あなたの、なまえは」

そういえば自分の名前を教えていなかった。教えたところで三日後には片隅にも残らないと無意識的に思っていたのだろう。いつか会った時に傷つきたくないと思うから。

科学の明かりが近づいてくる。別れの時が近づく。

「リオ・レーテ」

「りお…りお!おぼえた」

きっと忘れていく名前。この子が命の恩人と思っていようと忘れていく。悲しい事だとは思う。仕方のない事だと諦めてもいる。

唯一に覚えてもらいたい病。全てを捨てて一を絶対視する。籠の鳥とはよく言ったものだ。僕が鳥の側だとは思わなかったけれど。

「りお、は、これからどこにいくの」

どこに行くのか。そんなものは分からない。それでも一つの辿り着く場所は分かっているつもりだ。

「どっか遠くにいくよ。僕はどこにもいないからね」

「とおく?」

少女は疑問を吐く。街に一緒に向かっているのに街に行かないという自分は謎そのものだろう。

「そう、ここよりずっと遠くにある場所に行くんだよ」

諦めから出た答え。唯一なんて選べなかった僕の望まれない答えだった。この答えを選んだ僕を神は赦さないだろうか。それとも神も僕を忘れているのだろうか。

「りお、は私をおぼえててくれる?」

頷く。彼女が忘れて欲しくないと思うなら僕は忘れない。

少女は少しだけ微笑んで金色を揺らした。

——

ある機械の前に立つ。街道を少し離れた場所にあるログハウスにそれはある。

この国においてIDというものはとても重要であり、街から街へ行くだけでもそれを提示しなければならない。だがある理由からIDを奪われる人間も多くいる。

そんな人々の助けになっているのがこのID製作機である。違法でもバレる事はない。とてつもなく精巧に偽物のIDを作ることができる。

「これなに」

「街に入るためのチケット」

財布から二十万を取り出して機械の中に入れる。そして中から八万が出てくる。値上げされていた。

「ここ立って」

少女は不思議そうにこっちに来て機械の前に立つ。フラッシュが焚かれ画面が切り替わる。

「名前、か。どんなのがいい」

とりあえず希望を聞いておく。

少し悩むような仕草をして閃いたような表情をする。

「りおと、おなじの」

随分と好かれたらしい。別に悪い気はしないのだが心配にはなる。しかし姓名は僕のを使えばいいが名前まで一緒なのは考えものだ。

閃いたのは押し付けがましい名前。願いに溢れた名前だった。

「エティス・レーテ」

そう打ち込まれた機械はIDカードを制作する。少女の顔写真と推定される年齢。そして彼女の願いと僕の押し付けの混じった名前があった。カードと財布を少女に渡す。

「エティス・レーテ、それが君のこれからの名前だ」

「え、ていす?」

「そう、エティス」

エティスという名を得た少女は胸に宝物を抱いたように目を閉じる。その表情はとても穏やかで優しい。

朝日のような笑顔で夜空の下を歩く。親のような気持ちとはこういうものなのだろうか。優しく暖かく心地の良い、二度と感じる事はないと思っていた。

街の門は見えている。別れの時間が始まろうとしていた。

門の前に立つ。エティスの背中を押して前に進むように言いつけた。これで僕とあの子との関係は明後日には消え去っていく。この傷つけられる感覚にももう慣れている。魂にヒビが入っていくような痛みが絶えず奔っている。

エティスが何度も振り返りこちらを見つめる。その度に立ち去ろうとした足が動くことをやめていた。

縋りたい。あの無垢な太陽に縋り付きたいと願い始める。けれどそれは彼女の好意への裏切りだ。ただの独占欲だ。

俯いた視界に暗闇を裂く金色が踊った。間違えようのない今日知ったばかりの金色だ。

それは手を差し伸べた。

——なかないで

呼吸が遅くなる。今にもその手をとってしまいたい。繋ぎ止めてしまいたい。それを僕が赦さない。矛盾した頭が音を立てて崩れそうになる。

——いっしょにいこ

差し出された手に手を伸ばそうとする。瞬間に一つの答えが流れ着いた。彼女ならゆるしてくれる。だって彼女は優しいから。甘えたっていいんじゃないのか。違う違う違う違う違う!彼女は自由であるべきなんだ。幸福を選び取れるはずなんだ。じゃあ彼女の選んだ幸福が【僕】だったなら。そうだったなら僕は…どうすればいいんだ。分からない。答えを求めた目は彼女を見る。僕を忘れていく彼女を見つめる。

——いっしょがいい。りおといっしょがいい。

陽光に照らされて僕は手を伸ばした。冷たい夜風が暖かい春風のように感じられた。

神が僕を覚えているのならきっと僕は赦さないだろう。僕も僕を赦さない。

だからこそ僕はこの暖かさに甘えたのだ。罰してくれることを願いながらそうならない事を知っている。

瞬く星に感謝しよう。忘れていく世界に願いを込めよう。そして幸福彼女に希望を語ろう。

手を伸ばす。唯一の理由に毒を吐く。

だから僕は————








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