タムの結婚(15)──さらされた真相

 ライス・フルークとはじめて出会ったのは魚人ぎょじん地区だった。その時代、五街ごがい(五丁目)に新設された屋内市場が話題となっていたが、同じ通り沿いの区民の憩いの場である緑地にも、時流に乗れなかった露天商人が品物を広げる風景があった。とある映画祭に出席した帰り道、普段はこういった場所で買い物などしないルカラシーだったが、執事のザッカリー・ガタムの誕生日も近かったため、「プレゼントに良さげな観葉植物でも探してみるか」と、付き添いの者と一緒にふらふらと立ち寄った。しかし人ごみに気圧けおされ、足は緑地の方へ。

 そこで絵と手製のアクセサリーを売っていたのがライスだった。彼の描く水彩画はほかとはっきり違っていた。現実の風景のようなのに見る間に幻影が花開き、意識がそこへ飛ぶのを引き止められない、そういう絵だった。

「自然の風景にしろなににしろ、絵に描くときには人間の心が抜き取ったものに変換されているはずです」と後に彼は語ってくれたことがあった。「自分がもし家を建てるならこう、庭を造るならこうしたい……現実にはもしかしたら再現できない情緒的な細かな部分も、絵であれば再現できる。そういう気持ちで、遠慮や疑いは一切持たずに、野や街を再構築していく。それが私のやり方です」

 ルカラシーは当時、二十三歳。ドルゴンズ庭園の大庭主に就いたばかりで、子どものころからすでに与えられていた楽園に自分のエッセンスを盛り込みたい、と考えていた。思い出の西エリアは格好の場所で、人工洞窟一帯を管理する者がほしいと探していたところでもあったので、彼を庭園隠者にどうか、というアイディアはすぐに脳裏を突いてきた。実際は洞窟に棲むのではなく、近くに小屋を建て、そこで好きな絵を描きながら見物客の相手と植物の世話をしてもらう──。身なりやこわ遣いは侘しいのに、そよ風や清流と並べ称せられそうなやわらかな雰囲気を持ったライスは、すでに園内を歩いていてもおかしくない人物と思えた。妻子もまともに養えないという懐具合であったライス側にとっても、そのスカウトは願ってもない話だったのだ。

 ドルゴンズ庭園の西エリアで寝起きする生活をはじめたライス。それから二年後の初秋のことだった。


「ある夜、ライスさんは自分を呼ぶ声がしたというので、一人小屋を抜けだし〈ボークヴァの塔〉へ向かった。呼んだのは、そこに棲む幽霊のラウラです。私が幼少のころから親しく交流していた女性です。彼女も彼の絵の才能を感じ取っていました。オーラというんでしょうか……肉体が纏っている光に特徴があって、それを見るとわかるのだそうです。それで、塔の上からの景色をライスさんに見せたかったのだと。夜景がこの上なく美しかったそうで、ライスさんも感動してくれたそうなのですが、塔からおりるときに──当時は外灯もほとんどなかったので──足を踏み外してしまい、ライスさんは腰を強く打ってしまった」

 ルカラシーが言葉を切り眼差しを浮かすと、レイサは写真立ての中の父親を見つめたまま、身じろぎせずその話を浴びているようだった。

 ルカラシーは続けた。「すぐに医者を呼び、幸い骨には異常がないことがわかりました。回復するまで仕事は休んだ方がいい、小屋では不自由だろうから、屋敷の中で静養するようにと私は言いつけました。するとしばらくして、使用人たちの間で妙な噂が流れはじめたのです。ジュンヤ・タリルという年中口さがないタイプの若い従業員がいたのですが、彼が『ラウラがフルークさんを突き落としたに違いない』と言ったのです。私の耳にもすぐに入り、ベッドで寝たきりのライスさん以外、皆その噂に心を乱されるようになりました。私が知るラウラは孤独な少女のイメージで、小心で純真な人です。人に対しても想いの深いところがあった。しかし連中にとっては得体の知れない悪霊と同じだったのでしょう。私と幼なじみのカーシー以外、誰もラウラと口を聞いたことがなかったのですからね。庭園内で、ラウラの姿が視えた、ラウラと言葉を交わした──という者は一人もいなかった。私の姉が連れてきたイギリス人ヒーラーが一度、ラウラと接触したようでしたが」

 息を深く肺へ送ると、ルカラシーは再び話を継いだ。「ラウラの良くない噂──タリルの愚かな作り話は波紋を呼び、とうとう西エリアの責任者が『塔を立入禁止してはどうか』と言いだした。『幽霊が見物客にも危害を加えたらいけないから』と。私の母もラウラをいぶかっていたので、私に『あの幽霊のひどい噂を早く収めなさい』と言ってきた。そこで……。そこで私は執事に命令し、ライスさんの小屋から筆洗ひっせんバケツを取ってこさせました。それに雨水を入れ、廊下のアルコーブに飾ってあった母のドレスにかけました」

「なんですって?」レイサの体が電流を浴びたように打ち震えた。

「ドレスに泥をかけたのは私です」とルカラシーは静かに告げた。

「なんのためによ!」

 ルカラシーの表情が大きく揺蕩たゆたった。「その少し前くらいからライスさんは起きあがれるようになっていたので、私が屋敷内でも絵を描いて気を紛らわせてはどうかと勧めたのです。道具はすべて執事に運ばせました。バケツだけ、彼の手には渡さず、泥をかけた後タリルに発見させるために、使用人部屋付近の消防設備の奥に隠しました。タリルは思惑どおりに動き、今度は、『ライスさんがケガの復讐のために奥様のドレスを汚した』と言ってきた。その噂にライスさんはかなり動揺していましたが、誰も信じていなかったと思います。タリルの悪口あっこうには皆辟易へきえきしていましたから。タリルはそれならそれで、『自分を陥れようと誰かが画策している』と言うまでになった。私はタリルにクビを言い渡しました。そしてライスさんにも、幽霊とドレスのことであなたが疑われている、と告げました。ライスさんは『自分はやっていない』と切に訴えましたが、私は黙殺しました。ライスさんは、ラウラと会話したということ自体、作り話だと受け取られている、と思ったようです。真夜中に勝手な行動をし、ケガをして騒がせたことを責められている、と感じたのかもしれません。今この状態で、まだここで働き続けたいですか? と私はライスさんに問いました。それがなにを意味しているか、ライスさんには伝わったようで──」

「なぜそんなことが必要だったのかって訊いてるの!」レイサは拳をテーブルに打ちつけた。

 ルカラシーは自由が利かない体を折り曲げ、苦しげに吐きだした。「ドレスのおかげで、ラウラの噂は収まったんです。彼女のことを悪霊みたいに言うなんて、許せなかった。しかし本当の理由としては、私はおそらく、ライスさんに嫉妬していた。私はラウラとの交流を独占している気分でいた。目に視えない存在に、深く慰められていたのです。なぜラウラはライスさんに話しかけたのか、塔に誘いだしたのか、考えるとうまく眠れなくなった。そしてラウラも、自分が呼びだしたせいでライスさんが大ケガを負ってしまったと、今もときどき口にして、悔やんでいます……」

「もう、いいわ」レイサの手が額からおりて、口元に届くと嗚咽おえつしそうになり、必死で堪えて言った。「あなたはそんなふうにねじ曲がらなくても、すべて手に入れられる人間じゃない。なんで! 幽霊などのために……。私、私たちが──」

「?」

「私たちがタム・ゼブラスソーンを生みだしたのよ」

 その言葉に、ルカラシーの顔容も見る間に目を当てられないものになっていった。「そのとおりだ。ほかの大庭主のことも……キッパータックさんも、福田江さんも、私が傷つけたようなものだ。それは私がしでかしたことであって、あなたに罪はない。あなたがそんなふうに思うことはないんだ」

「もう、遅いのよ……」

 ルカラシーは半身をやっと起こした。「本当に申し訳なかった。うちの庭園にあるライスさんの絵はすべてお返しします。それから──」

「もういいわ。これ以上、誰の弱さも見たくないし、誰の謝罪もほしくないの。帰って」


 タムが入ってきた。ルカラシーの襟元を掴んで強引に立たせる。

「おまえからは腑抜けた内容しか出てこないことは最初からわかってたさ」

「タム・ゼブラスソーンにも謝罪しなければと思っていた」とルカラシーは虚脱して、呟いた。「フルークさんのおっしゃるとおり、私のせいで彼は──」

「タムなんてやつは、もうこの世にいねえよ」タムはそれだけ言うと、再びルカラシーに目隠しを施した。

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