タムの結婚(2)──泣くのは彼らだけでいい

 ドルゴンズ庭園では、ゲストハウスの二階にあるテラス席に、東味亜ひがしみあ中央警察の警部補・ジン礼南レイナが座していた。テーブルに置かれたカップの中身は、縁にフォームドミルクの跡だけを残してほとんどなくなりかけていて、この後の時間をつき合ってくれる相手を探して、彼女は手すり越しの庭園を改めて一望してみた。

 ゲストハウスはドルゴンズ家から招かれた特別客以外は立入禁止の場所なのだが、そんな境界など存在しないように、一般見物客たちの生き生きとした息吹が届く。園内バスがゆっくりと専用道路を辿っていく様子が見える。そのバスから吐きだされた人々が、道路に沿って数十メートルにわたり展開する壁画の前を左右に流れていくのをしばらくの間観察する。心和む風景だった。もうここへは幾度も訪れているのだけれども、「訪れている理由」については忘れ、平板な時間というものがあるならそこに横たわりいつまでも浸っていたかった。井が安堵とも憂いともつかない息を送りだしたとき、屋内からハンサムな大庭主だいていしゅがやってきた。

 ルカラシー・ドルゴンズを今度は眺める。ダークブルーの生地に光る水滴のようなドットが斜めに流れるシャツ、ライトブルーのコーデュロイパンツという出で立ちで、カジュアルな雰囲気ながら髪はきれいにオールバックにまとめられ、表情にも堅さがあった。

「お待たせしました」と彼は、会釈してから向かいに着いた。

 井は再び庭園へと瞳を流す。「ここにいると、自分が警察官であることが信じられないような気持ちになるのですよ。しがらみとか、時間さえも溶けてなくなっていくような。……おいしいコーヒーとお菓子をありがとうございました」

「おかわりを持ってこさせましょう。次はレモン入りのダッチコーヒーなどいかがですか?」ルカラシーは軽く手を挙げて、室内にいる使用人に合図を送る。

「大庭研究ツアーのときにお目にかかった、あの不思議なハーブティーでも構いませんけど」井はニッと微笑む。

「お疲れになられているということですか?」ルカラシーも微笑みを返す。

「悪党をのさばらせたまま──型無しの東味亜警察ですからね」

 二人はレモンコーヒーが運ばれてきてから、本来の話題に移った。

 ルカラシーが訊いた。「ここ数日、西エリアの崖を念入りにお調べになっているようですが、まさか、あそこがタムの侵入経路だとお考えで?」

「まだはっきりとは申しあげられませんが」と井。「捜査も少しは進展しているのだと、お伝えしておきます」

 ルカラシーは喜びとは反対の気持ちを表した。「タムの手下たちは穹沙きゅうさ市にある空中庭園からパラシュートで飛び降りるくらいの芸は身につけているらしいですが、あそこを簡単にのぼり降りできるとなると、もう忍者と呼ぶしかありませんね」

「あなたにお訊きしたいことがあります」

 瞬間強張ったルカラシーを、井はカップに視線を向けていて見ていなかった。

「動画サイト〈デゲッフ3〉に、この庭園の、空から降ってくる不思議な砂の紹介動画がありますわよね? あなたはその中で、〈自由自在に形を変える不思議な洞窟〉について語っておられました。その洞窟の話をくわしくお伺いできないかと──」

「西エリアの草原より北側は、」ルカラシーは目を伏せたまま話しだした。「以前はガモニーさんという資産家の所有地でした。それをうちが買い取りまして……私が子どものころの話です。その後、有名な冒険家ナナムド・サインさんの本に『見るたびに形が変わる洞窟がある』と書かれてあるのを読み、私はファンタジー小説だと信じ込んでいましたが、それが実は現実の話で、しかも、サインさんがその洞窟を発見したのがガモニーさんの土地、つまり、今はこの庭園の西エリアに含まれている、崖の辺りだということを知ったのです」

「今、我々が調査しているあの崖ですか?」

「ええ」頷くルカラシー。「その洞窟は一夜にして姿を消したそうです。跡形もなく……。本にそう綴られていました。誰もそんな話、信じないでしょうね。でも私の恋人・ラウラは、そういう洞窟はあるものだと話してくれました。人間だけが、洞窟というのは悠久の時間をかけてできあがっていると思い込んでいるのだと。巨大な石像が一瞬で造られた事実もこの世にはあるのに、と言っていました」

 聴きながら、井の肉付きのいい顎はぐっと押し込まれた。笑いや軽々しい感想を抑えたのではなく、警察としても一人の人間としても到底太刀打ちできない類の……、と思い知らされたからだった。

「その洞窟がなにか、タムと関係が?」

「情報を集めているところです」首を振る井。「その、ラウラさんのように霊魂となれば、我々のような生身の人間がわからないことも容易に掴めるようになるのかしら?」

「タムのことを訊いても彼女は答えませんよ」ルカラシーは見透かしたように笑った。「人間の心が一番不確かで掴みにくいと、ラウラはいつも言いますから。人間の感情も一夜で消える洞窟のようだと。ときに私の心もわからないと嘆いたり、怒って数日口を利いてくれないこともあるのですから」

「そうですか……」

「タムも人間だ、ということだけは事実のようです」

 長い長い沈黙の後、ふいに思い出したというように二人はそのジョークに笑い合った。


 東味亜警察・穹沙きゅうさ署でも〈洞窟探し〉は急ピッチで進められていた。出頭してきたサムソン神酒みきが告白したマジック・ケーヴのことを、易々と信じる人間はたしかに少なかった。しかし福田江ふくだえまもるがタウンハウスに荷物を残したまま姿を消していた。福田江と神酒を利用すれば穹沙市の庭園を襲うことは簡単だっただろうし、神酒が列挙したタム一味の特徴はすべて目撃者の話と一致していた。藁をも掴む思いだった。穹沙署は手に入れた情報をただちに中央警察と共有し、さらわれたと見える福田江護の捜索、福田江とコナリアン・ヂュオという男にしか視えないという金色の光の目撃情報、謎の洞窟に関する情報集めが躍起となって開始された。同時に、神酒の精神状態についての調査も行われていた。 

 唯一、彼が握りしめて話さなかった事実があった。レイサのことだ。レイサの父親を探してやりたい。そのために警察の協力を仰ぎたい。しかし神酒は「マジック・ケーヴに潜んでいるタム・ゼブラスソーンを早く見つけだして捕まえてくれ」と言うに留まった。タムがなぜ庭園を襲ったのか、ルカラシーを目の敵にしている理由も、なにも知らないと彼は語った。そして取調室で、ひたすら泣き続けた。タムが結婚したことなど知る由もなかった。しかしタムなら、レイサはなにも関係なかったことにするはずだ。風の噂に聞いた幼なじみの父親の仇をタムは勝手に取っただけ。見知らぬ男たちに脅されて、レイサはわけもわからぬまま福田江の介護をした。きっとタムは裁判で公に向けて、「レイサの父親を探せ!」とガラガラ声で訴えるだろう。初恋の相手を、誰にも知られず想い続ける独りよがりな男の犯行。ありふれた茶番。その物語を、神酒はくり返しくり返し脳内で再生しては唇を噛みしめた。タムが捕まらなければ、永遠に実現しない──。


 巡査長・二本松にほんまつ亨治きょうじは上司が行う取り調べを別室のモニターで監視しながら、「彼はおそらく嘘は言っていない」と信じた。しかし心が願う場所への通路を自由に出現させる洞窟やら、特定の人物にしか視えない光や洞窟の入口やらが、捜査員たちを大いに惑わせていた。口を開くより滂沱ぼうだと涙することが多くなった神酒に、二本松とコンビを組む八代やしろは首を捻る。

「カウンセリングはちゃんと受けてるんですかね。彼の言うことを全部信用するのは早計かもですよ?」

 署内の休憩室に場所を移した二人。二本松は「それでも合点がいくことばかりだ」と低音を吐きだす。「あれだけあちこちの庭園を好き放題に荒らせたんだからな。警察も監視カメラも無能じゃなかった。物理マジックがあったんだ」

「タムから洗脳を受けているかも。そんなSFチックな洞窟、漫画チックなやつらなら思いつきそうですし、手品っぽいやり口でだまして、そう思い込ませられているのかも。それか捜査撹乱の意図で作りごとを言っているって可能性もありだな」

「手品の線も捨てきれない。しかし、事件現場近くで怪しく漂う黒っぽい光を見たという人の話を聞いたことがあるんだ」二本松は強壮剤入の漢方ドリンクをすすりながら言った。「人魂も幽霊も私はあまり信じていないが、直観やひらめきが目に視えるならそういうものもあるかもしれない」

「えー、二本松さん、マジですか?」八代は顔をしかめた。「脳の働きでしょ? 普通は視えないっスよ。それこそ負のオーラってやつじゃないです? 実際、金色の光を調べようとすると宗教やスピリチュアル関係のサイトしかヒットしないし」

「知り合いに頼んで、福田江護から金色の光の話を聞いた人間がいないか調べてもらっている」

 飲み終えた瓶をゴミ回収機に放り込むと、二本松は鏡でも覗き込むみたいに窓辺に寄った。冬空はパセティックでも、メランコリックでもない色を彼に見せていた。それに勇気をもらっていた日々があったことを思い出せ、ということかもしれない。ここが踏ん張りどころ。泣くのはだけでいい。





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