第8話 蜘蛛を数える(1)
その二つの地区に
このいきさつの末、寺院の横に茂っているだけの森林がオマケ的に大庭に選定されることになった。寺院も森林も海鳥女地区のはずれにあるので、ひたすら海を眺めている観光客には背中に目を持ってもらうか振り向いてもらうしかなかったし、寺院しかないと不満を言われぬためにはこうするよりほかはなかったのである。
第八番大庭の現
家に入ると、リビングのテーブルで、事務員の
馴鹿布は彼女の後ろに突っ立ったまま、画面の写真をさっと目でなでると、「叶君」と声をかけた。
「うわっ、先生……びっくりした」振り返った叶は大口を開けていた。「お帰りだったんですね」
「熱心だな」馴鹿布はかばんを肩からおろすと大きな正方形の木製のベンチの上に載せた。「君がいつになく熱心なのはありがたいんだが、もう、彼の写真は全部削除してくれて構わない」
「えええ!」叶は険しい表情に変わった。「私が頑張って撮った写真、こんなにあるのに……」
馴鹿布は改めてその、叶が「頑張った」という写真を吟味した。
砂漠のような砂地に立つ建造物に寄りかかってポーズを取るピッポ・ガルフォネオージ。寸胴の鍋を抱えるコック服を着たピッポ。鉢植えの花を手に──きっと包帯の下は微笑んでいるのだろう──こちらを向いているピッポ。公園で若い女性と握手をしているピッポ。
「君は真面目にやる気があるのか?」馴鹿布は冷蔵庫からプラスティックボトルの緑茶を出すと飲みながら言った。
「もぉー」叶は頬を膨らませた。「私の仕事は彼の日常を写真に収めるだけ──先生がそうおっしゃったんじゃないですか。実によく撮れてません?」
「ホームページに載せたいから一枚くれないか? と言われそうな写真だな」
「全然言われなかったですけど……」
「どうやって声をかけた? 変装はしたんだろうな?」
「もちろん。言いつけどおり、軽ーく変装して近づきました」
部下が部下なりに察して
「ほ、ほんとですか?」
「うむ。思ったより手こずったが、彼の素顔を見てきた。私の記憶が薄まらないうちにと帰りに
あまりのことに、叶はしばらく語を失い口をあんぐり開けていたが、指のコントローラーをはずすと、席を立って馴鹿布のすぐ前にやってきた。
「で、で、ガルフォネオージさんの素顔って、どっどっ、どんな感じだったんです?」
馴鹿布は
「いや、あの謎の包帯王子の素顔ですよ? そんな『普通の青年』なんてつまらなさ極まる言葉で済ませないでくださいよ。嫌だわ、先生ったら」
叶は再びテーブルに飛び戻り、タブレットやらノートやらをさっと片づけると、椅子を引っ張ってきて尊敬する「大先生」の前に
「さあ、じっくり聴かせてください。彼の素顔をどうやって暴いたのか。それと大庭ファンの女性たちの憧れ、ピッポ・ガルフォネオージ氏の素顔をどうかどうか──」
「なにを興奮しとるんだ、アイドルじゃあるまいし」
「立派なアイドルでしょう!」叶は声を大にした。「彼は庭こそ荒野みたいなものでそれほど人気はないですが、『注目の大庭主特集』ではあの
「彼が作るスープは絶品らしいね」片足をもう一方の
拳をぶんぶん振って不満を表す叶。「スープがなんだって言うんです。彼自身の人物の魅力でしょう?」
「まったく」馴鹿布は呆れて天井を仰いだ。
六十歳の誕生日を機に探偵業から引退した。迷子の猫を探す依頼をもらったきっかけで知り合った人物が、「第八番大庭の庭主になってくれる人物を観光局が探している」という情報を教えてくれ、馴鹿布さえよければ推薦すると言ってくれた。体もあちこちガタがきていたし、管理に手がかかってはと念のため調べてみると、第八番大庭は森林庭園という名称で、文字どおりただの森だった。前庭主もその前も比較的若い男だったから、この庭の張り合いのなさと懐に入ってくる観光手当の少なさにやる気をなくし投げだしたらしい。
馴鹿布は自分にふさわしい仕事だと思った。第二の人生を、家庭のはみだし者や脱走癖のあるペットを追いかけることなく、自然にただ静かに抱かれて過ごすのである。見物客の少なさなどどうでもいいことだった。森は森として、海鳥女地区の北東のはずれに、人間が眩しすぎる光から自らを守るために頭上に乗せておく小さな帽子のように、街の一端をやさしく保護する機能をすればいいだけだ。その帽子は馴鹿布にも安らぎの木陰を与えてくれるだろう──。
しかし、テレビや携帯端末上のニュースに小悪党タム・ゼブラスソーンが躍りでてくることになる。手に入れた平和な生活はたしかに脅かされているだろうが、自分が思った以上に恐怖を感じていることを知る。あの泥棒(?)が森林庭園にやってきたとして、一体なにが盗まれるというのか。が、穹沙市の大庭主はほとんど大庭と関係のない個人の品を盗まれている。「あれ」は盗みよりも嫌がらせに力を入れているのだ。それが怖いのか? いや……。
馴鹿布は六十年生きた勘で、この心の小さな悲鳴には大きな振動元が存在することを見抜いた。そして居ても立ってもいられなくなり、体は半人半馬地区の「犯罪記念館」に走っていた。
「穹沙市犯罪記念館」は、東味亜で起こった有名な犯罪を記録・展示し、無料で開放することで国民に周知と防犯意識を高めることを目的とした施設だ。そこにはタム・ゼブラスソーン関連の展示ももちろんあった。彼はその一角を舐めるように観て、ほとんど味わって、一階ロビーにあるカフェに移動した。
そこに穹沙署の
彼は二本松がやってくると、言い放った。
「私は大庭主の中に、タムに情報を流している裏切り者がおるんじゃないかと思っている……」
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