第1話 蜘蛛を飼う男(1)

 人々が夏の夜に短冊に記す願いごとは個人から発するものばかりではないだろう。あなたも私も住まわせてもらっている社会というものがあって、そこにいる全員が例外なく同じことを願っていると、かなりの確信をもって発せられるものがある。「世界が平和になりますように」――などは、常に天のほとりで唱えられる代表的呪文だ、と樹伸きのぶは思った。彼は「健康長寿」など、すでに叶えてしまっている御仁ごじんだった。けれども平和の方は目下取り組み中だったので、考察は続けられた。


――私が生まれてから百三十年の間に、平和が必要なかった時代があっただろうか。平和を願わずにいる人々が暮らしていた世界があっただろうか。こんなにも願い続けているのにまだ願わなければならない願いごとが他にあるだろうか?

 同じ国であっても、ある個人は平和なのに別の個人は平和でないことがある。ある個人のとある一週間は平和であったのに同じ個人の別の一週間は平和でないことがある――考えだしたらキリがない──これが、平和が願いごととして永遠に必要であり続ける理由だろう。


 樹伸は大庭主だいていしゅだった。東味亜ひがしみあ国政府が国民の平和への希求に対して講じた積極的な策が大庭主制度だと彼は思う。世界遺産には届かずとも貴重な自然物を中心に庭を制定し、観光局が選出した「大庭主」(人品卑しからぬ人物ということになっている)に管理責任の役を与えたものである。

 東味亜国・中央都から東南へ下った港のある小都市・穹沙きゅうさ市には、十七の地区に登録された大庭だいていが二十か所ある。これにより、人々は身近に美しい庭をいくつか持つことが叶った。コンピューターの画面上でしか出会えない世界各国に散らばった垂涎の風景ではない、ご近所の気軽な庭園。自然芸術であり、自慢の観光名所であり、有力な他者によって永く守られゆく広大で強固な土地であり、古今東西の不可思議コレクションが無数に納められた公認の空間であり――つまり、極めて平和な彩りをした平和な場所ということで、国土の一部を平和化するのに成功していたのだった。


 最近、穹沙市で噂にのぼった真新しい平和に、不死鳥フェニックス地区の女大庭主が世界中の名品奇品を集めて作った「品物の森」というものがあって、そこに忍び込んだ大泥棒がそのまま行方不明になっている、というものがあった。人が一人連絡不通になったことは平和とは呼べないかもしれない。でも樹伸は思う。そこが公の庭の中であるなら大丈夫だろうと。庭はジャングルと違って人命をどうにかする場所ではない。また大泥棒であれば、彼と電話が通じなくても困るのは警察くらいだ。


 百三十年持ちこたえてくれた体が今朝も平和の空気を吸っている。

 樹伸の散歩は入念であるが気楽だ。植物園が自慢の自宅の庭の観光予約は今日は九件。いざとなれば妻もいるし、昼前に帰ればいいのだからと、隣の天馬ペガサス地区まで足を伸ばした。両隣三、四地区にあるたいていの大庭主とは顔見知りと記憶していたが、唯一、この地区の六丁目にある大庭の門はくぐったことがなかった。

 年中草花に囲まれ色彩豊かな五丁目の大通りを抜けると、まるでドラマの不穏な前触れのように陽光が身を縮めた気がした。重たい雲でも頭につかえているのか。足を止め、空を見上げた。ものの見事に澄んでいて、今日は一日快晴である保証は厚かった。


「キッパータックって名前じゃなかったかなあ。砂の滝がある大庭で……」それくらいの情報は噂で耳にしていた。そして今、目の前にある。

 その庭を取り囲んでいる塀は高く、薄汚れている。背後には大きな森の姿も控えていて、悪者の根城みたいにも見える。門のそばに政府公認の大庭であることを示す案内板があるにはあるが、文字が消えかかっており読みづらい。口うるさい観光局の役人がよく許しているものだ。国から出ている庭整備のための補助金は適切に使わないと家庭の経済状況を細かく調査される事態になりかねない。やる気もなく無防備な庭主らしい――を、呼び出してみることにした。せっかくここまで来たのだから見ないで帰るのも変だ。もし荒れているようなら同じ大庭主としてひとこと言ってやってもいい。

「は……い、どちら様で?」インターフォンから若い男の声。

「観光に来ました。予約はしてないんですが、門を開けてもらえますか?」

 弱った表情をぶらさげて庭主が現れた。開けたくなさそうに重そうな門を開く。

 樹伸は愛想よく言った。「精衛地区で大庭主をやってる若取わかとり樹伸といいます。はじめまして。ぶらぶら散歩していたんですが、こちらの庭はまだ覗いたことがないことに気づきましてね」

「大庭主さんですか……」

「あなたがキッパータックさん?」

「そうです……」

 がっしりとした体つきの樹伸とは正反対の小柄で痩せた暗い顔つきの男だった。手入れ中だったのか、作業着に身を包んでいる。


「うちは門衛を雇っているから常に開けっぱなしって感じだ。客もほぼ毎日来るし」案内する男の後ろをついていきながら樹伸は話した。「こちらの名物はたしか、砂の滝――だったね?」

「滝はあちらです――」

 実にそっけない、日本風の庭だった。一角が白く光っている。近づくと、空の高いところからまっすぐ地面までレースのカーテンのような直線がおりているのがわかって、朝日を眩しく返したりくねって波打ったりをくり返していた。

「こりゃすごい。……触れるかね?」

「はい」

 樹伸は滝が落ちて積もっている砂場へ駆けていき、そこへ両手を突っ込んだ。砂を掴むと指を開いてまじまじと観察する。

「ほとんど透明だな。細かい氷の粒みたいだ。感触も、なにも持っていないみたいに軽い。不思議だ。不思議な砂だ。こいつはすごいぞ」

 ただ突っ立っている庭主の方へ振り向きにこっと笑いかけたが、若い男は言葉が通じていないかのようにぼんやりしているだけだった。

 滝はわかるだけで七、八本は落ちてきていて、その下は半透明な丘ができあがっていた。浜辺で深い眠りに陥っているクラゲの頭のようだ。キッパータックの大庭は規模としては小さな方だったが、砂場は土地の四分の一ほどを占める迫力で、特になにかで囲まれているわけでもなくそこにあった。丘は際限なく降り注ぐ砂で十分に積もると形を崩した。しかし、波が海に溶けるように音もなく砂場に吸収されていく。本当に溶けてなくなっているかのように。そうでなければ、この場一帯砂で溢れ返ってしまうだろう。キッパータックの邸宅も庭も全部飲み込まれてしまうはずだ。

「この砂はどこから来てどこへ消えていってしまっているんだ?」

 空の上の見えない滝の源へ、足下の砂場へと、忙しく視線を往来させている樹伸の横へ来て、キッパータックも砂を掴んだ。

「わかっていることは」彼は答えた。「この砂はここ以外の場所へ移すと消えてしまうということです。そのはかなさでこの場でも消えてしまっているのかもしれません。でも、よくわからないんです」

「消えなきゃ増える一方だよ。といってもこれだけの砂場を形成している、全部がなくなってしまっているわけでもないらしい。うーん……」

 庭に文句をつけてやろうという最初の計画のことも忘れて、樹伸は夢中になって駆け回り、砂を調べはじめた。ときどき滝の下へ潜り込むと、修行者のように打たれてみた。当然、全身砂だらけになるはずなのに、体はこそばゆさを微塵も拾わず、砂はほとんど透明なのでどこへ行ったのかもわからない。服のひだにたまったものがわずかに光って見える程度だった。

 庭主が急にもじもじしはじめた。「あー、あのう、若取さん」

「うん?」

「僕、そろそろ仕事に出かけなければならないんです。せっかく来て頂いたのに悪いんですが……」

「仕事!?」

 樹伸は砂場から退出すると、キッパータックの真正面に立った。「あんた、副業を持っているのか?」

「副業ではありません。庭主の方が副業でして、これから向かう仕事が本業なんです。清掃の仕事をしているんです」

「大庭主は国が定めた職業だよ? 人々のために美しい庭を提供することによって世の中に平和をもたらす――」

「依頼主も大庭主です」キッパータックは道具をかき集めて車庫へ急ぎだした。「僕は大庭主になる前からずっと清掃の仕事をしています」

「信じられないよ、そんなこと」樹伸も追いかけていった。「それでここの庭はこう、閑散としているんだ。あんなすばらしい滝があるというのに、きちんと手入れして観光客に披露することもせずに、よその庭の清掃に行くだなんて――」

「ごめんなさい、遅刻しそうだ」

 キッパータックは車に乗り込むと窓から顔を出した。「若取さん、一時間で戻ります。その間ゆっくりご覧になってください」

「客を置いていくのかー!」


 樹伸はこうしてよその大庭の主となった。

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