第1話 蜘蛛を飼う男(1)
人々が夏の夜に短冊に記す願いごとは個人から発するものばかりではないだろう。あなたも私も住まわせてもらっている社会というものがあって、そこにいる全員が例外なく同じことを願っていると、かなりの確信をもって発せられるものがある。「世界が平和になりますように」――などは、常に天のほとりで唱えられる代表的呪文だ、と
――私が生まれてから百三十年の間に、平和が必要なかった時代があっただろうか。平和を願わずにいる人々が暮らしていた世界がどこかにあっただろうか。こんなにも願い続けているのにまだ願わなければならない願いごとが他にあるだろうか?
同じ国であっても、ある個人は平和なのに別の個人は平和でないことがある。ある個人のとある一週間は平和であったのに同じ個人の別の一週間は平和でないことがある――考えだしたらキリがない──これが、平和が願いごととして永遠に必要であり続ける理由だろう。
樹伸は
東味亜国・中央都から東南へ下った港のある小都市・
最近、穹沙市で噂にのぼった真新しい平和に、
百三十年持ちこたえてくれた体が今朝も平和の空気を吸っている。
樹伸の散歩は入念であるが気楽だ。植物園が自慢の自宅の庭の観光予約は今日は九件。いざとなれば妻もいるし、昼前に帰ればいいのだからと、隣の
年中草花に囲まれ色彩豊かな五丁目の大通りを横切ると、まるでドラマの不穏な前触れのように陽光が身を縮めた気がした。重たい雲でも頭につかえているのか? 足を止め、見上げたものの物の見事に澄んでいて、今日は一日快晴である保証は厚かった。
「キッパータックって名前じゃなかったかなあ。砂の滝がある大庭で……」それくらいの情報は噂で耳にしていた。そして今、目の前にある。
漆喰の外壁が取り囲んでいた。背後には大きな森の姿も控えていて、悪者の根城みたいにも見える。門のそばに政府公認の大庭であることを示す案内板があるにはあるが、文字が消えかかっており読みづらい。口うるさい観光局がよく許しているものだ。国から出ている庭整備のための補助金は適切に使わないと家庭の経済状況を細かく調査される事態になりかねない。やる気もなく無防備な庭主らしい――を、呼び出してみることにした。せっかくここまで来たのだから見ないで帰るのも変だ。もし荒れているようなら同じ大庭主としてひとこと言ってやってもいい。
「は……い、どちら様で?」インターフォンから若い男の声。
「観光に来ました。予約はしてないんですが、門を開けてもらえますか?」
弱った表情をぶらさげて庭主が現れた。開けたくなさそうに重そうな門を開く。
樹伸は愛想よく言った。「
「大庭主さんですか……」
「あなたがキッパータックさん?」
「そうです……」
がっしりとした体つきの樹伸とは正反対の小柄で痩せた暗い顔つきの男だった。手入れ中だったのか、作業着に身を包んでいる。
「うちは門衛を雇っているから常に開けっぱなしって感じだ。客もほぼ毎日来るし」案内する男の後ろをついていきながら樹伸は話した。「こちらの名物はたしか、砂の滝――だったね?」
「滝はあちらです――」
実にそっけない和風の庭で、植栽も
「こりゃすごい。……触れるかね?」
「はい」
樹伸は滝が落ちて積もっている砂場へ駆けていき、そこへ両手を突っ込んだ。砂を掴むと指を開いてまじまじと観察する。
「ほとんど透明だな。細かい氷の粒みたいだ。感触も、なにも持っていないみたいに軽い。不思議だ。不思議な砂だ。こいつはすごいぞ」
ただ突っ立っている庭主の方へ振り向きにこっと笑いかけたが、若い男は言葉が通じていないかのようにぼんやりしているだけだった。
滝はわかるだけで七、八本は落ちてきていて、その下は半透明な丘ができあがっていた。浜辺で深い眠りに陥っているクラゲの頭のようだ。キッパータックの大庭は規模としては小さな方だったが、砂場は土地の四分の一ほどを占める迫力で、特になにかで囲まれているわけでもなくそこにあった。丘は際限なく降り注ぐ砂で十分に積もると形を崩した。しかし、波が海に溶けるように音もなく砂場に吸収されていく。本当に溶けてなくなっているかのように。そうでなければ、この場一帯砂で溢れ返ってしまうだろう。キッパータックの邸宅も庭も全部飲み込まれてしまうはずだ。
「この砂はどこから来てどこへ消えていってしまっているんだ?」
空の上の見えない滝の源へ、足下の砂場へと、忙しく視線を往来させている樹伸の横へ来て、キッパータックも砂を掴んだ。
「わかっていることは」彼は答えた。「この砂はここ以外の場所へ移すと消えてしまうということです。そのはかなさでこの場でも消えてしまっているのかもしれません。でも、よくわからないんです」
「消えなきゃ増える一方だよ。といってもこれだけの砂場を形成している、全部がなくなってしまっているわけでもないらしい。うーん……」
庭に文句をつけてやろうという最初の計画のことも忘れて、樹伸は夢中になって駆け回り、砂を調べはじめた。ときどき滝の下へ潜り込むと、修行者のように打たれてみた。当然、全身砂だらけになってよさそうなのに、体はこそばゆさを微塵も拾わず、砂はほとんど透明なのでどこへ行ったのかもわからない。服の
庭主が急にもじもじしはじめた。「あー、あのう、若取さん」
「うん?」
「僕、そろそろ仕事に出かけなければならないんです。せっかく来ていただいて、悪いんですが……」
「仕事!?」
樹伸は砂場から退出すると、キッパータックの真正面に立った。「あんた、副業を持っているのか?」
「副業ではありません。庭主の方が副業でして、これから向かう仕事が本業なんです。清掃の仕事をしているんです」
「大庭主は国が定めた職業だよ? 人々のために美しい庭を提供することによって世の中に平和をもたらす――」
「依頼主も大庭主です」キッパータックは道具をかき集めて車庫へ急ぎだした。「僕は大庭主になる前からずっと清掃の仕事をしています」
「信じられないよ、そんなこと」樹伸も追いかけていった。「それでここの庭はこう、閑散としているんだ。あんなすばらしい滝があるというのに、きちんと手入れして観光客に披露することもせずに、よその庭の清掃に行くだなんて――」
「ごめんなさい、遅刻しそうだ」
キッパータックは白いバンに乗り込むと窓から顔を出した。「若取さん、一時間で戻ります。その間ゆっくりご覧になってください」
「客を置いていくのかー!」
樹伸はこうしてよその大庭の主となった。
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