第9話 番外編 テル・トールマンの手記(3)

 『セレタ』と呼ばれる彼らの里は、ひとつの大きな家族である。母系制の大家族が、そのままひとつの集落になっているのだ。

 セレタにいる男性は、すべて、セレタの女性たちの男兄弟である。ここで『おじいさん』といえば祖母の配偶者ではなく祖母の兄弟だし、『おじさん』というのも、おばの配偶者や父の兄弟ではなく、母の兄弟や従兄弟など、すべて母系の血縁だ。

 が、彼らはそういう厳密な関係性を全く気にせず、年の近い相手はいとこだろうとまたいとこだろうともっと遠い関係だろうと関係なく兄とか姉とか弟、妹と呼び習わし、世代が上のものは年齢に応じて『おじさん』『おばさん』『おじいさん』『おばあさん』ですませているので、実際の関係は、少しでも遠くなるとほとんどわからなくなっている。いずれにしても血縁には違いないので、それで十分であるらしい。


 森の中には、そのような里が、ほどほどの距離を保って幾つも散在しているという。


 同じセレタのものはみな血縁なので、婚姻は、他のセレタとの間で行われる。

 母系社会だが、婚姻は入婿制ではなく、『恋の季節』と呼ばれる繁殖期を迎えた男女それぞれが自分のセレタを出て森に分け入り、そこで巡りあった相手としばらく森に仮住まいして女性が子を宿した後、またそれぞれに自分のセレタに戻るのである。

 この『恋の季節』は、全員が毎年迎えるというものではなく、迎えるものは各セレタにつき年に数人で、迎える時期も、おおよそ初夏の頃と決まっているが多少の幅があり、全員が一斉にというわけではない。そんなわけで、各セレタから同時期に森に出てきている男女は、森の定めた運命の一対であるのだという。

 彼らが共に過ごす期間は短いが、ひとたび『恋の季節』を共にした二人の絆は、一生のものになる。自分のセレタに戻った女性が子供を産むと、父親である男は、狩りの獲物や自分のセレタの特産物などの贈り物を携えて女性側のセレタを折々に訪ねるのだ。その関係は、どちらかが死ぬまで続く。

 彼らは、そうした『恋の季節』を、一生のうちに何度か迎えるらしい。その都度森へ行っては、そのたびに出会った別の相手と一時的な蜜月を送り、子を成すという。そして、そうした相手の全員と、その後も続く強い絆を保ち続ける。

 その際、一人の男が同じセレタの女性二人と絆を結ぶことは、通常はないという。その逆も同様で、『恋人』は一つのセレタには一人しかいないものだそうだ。どういう仕組みでか、そのような成り行きになるらしい。これもおそらく、この森ではいろいろなことがそうであるように、森の計らい、導きであるのだろう。

 このようして他のセレタに『恋人』や子を持つ男性が単独で女性を訪問することが、セレタ間のほぼ唯一の行き来であり、それ以外にはセレタ間の交流はないらしい。なので、男性には他のセレタを訪ねる機会があるが、女性たちは『恋の季節』以外には自分のセレタの周辺を出ることもなく、結果、一度も他のセレタを見ることなく一生を終えるのが普通だという。


 セレタは、夏と冬とで、その姿を変える。

 彼らは、夏は地上で――半ばは樹上で――、冬場は主に地下で暮らしているのだ。


 セレタの『夏の家』は、大きな母屋を取り囲むように個人あるいは数人用の小さな『寝小屋』が散在する形である。

 寝小屋の多くは、樹上に設けられている。私は体重が重いため――言っておくが決して太っているわけではなく、〈森の民〉に比べて重いというだけである――樹上の寝小屋に登ったことがないが、下から見上げると、巨大な鳥の巣のようである。下からでは木の葉に隠れてよくわからないが、簡単な屋根や壁もあるそうだ。小屋に出入りするためには縄梯子を垂らしてあるが、身の軽い子供や若者は、縄に構わずするすると木に登り、降りる時も、縄を伝わず飛び降りることが多い。縄は小屋の入り口以外にもあちこちの枝から垂らしてあって、それにぶらさがって枝伝いに互いの小屋を訪ね合ったりすることもでき、夏場のセレタで樹上を見上げれば、子供たち若者たちが猿か小鳥のように枝から枝へと身軽に渡る姿がひっきりなしに見られる。

 年をとったもの、たまたま木登りが苦手なもの、そうでなくとも樹上より地上を好むものは、地面に個別の、または数人共同の寝小屋を建てており、私もそうした寝小屋を一つ与えられている。私は身体が大きいので、彼らはわざわざ私用に、一回り大きな小屋を建ててくれたのだ。それでも小屋の中で立ち上がることは出来ないが、彼ら自身の寝小屋の天井も、通常は、座ったり寝そべったりする高さしかない。日中のほとんどを戸外で過ごし、炊事も食事も母屋で済まして、寝小屋は寝るだけの場所なので、それで十分なのだ。

 これらの寝小屋は、一夏だけ使われ、翌年はまた新しく作られる。


 彼らは基本的には木を伐らない。そういう文化なのである。木の種類や季節によっては、若木を間引くことや枝葉や樹皮を採取することがあるが、大きく育った木を根本から伐り倒すのは、ごく限られた特別な機会のみである。なので、彼らの一夏用の寝小屋は、主に、束ねた細枝や葉、草を編んだ筵などで作られる。

 恒久的な建物である母屋には特別な機会に伐った木も使われているが、太い丸太や板を使っているのは柱などの基本構造だけで、屋根は樹皮と乾燥した草で葺き、壁は編んだ細枝で出来ている。そういうと掘建て小屋を想像するかもしれないが、造りは精緻で、風雨にも耐えうる堂々とした館であり、見た目にも、やわらかな丸みを帯びた屋根がどことなく可愛らしい。

 巨大な平屋建ての母屋には、共同の炊事場と、雨天時には様々な手仕事の共同作業場にもなる大食堂兼集会場、世話の必要な病人や長老格のものたちの居室、セレタの財産を収める物置き部屋、半地下式の食料貯蔵庫などがある。炊事場や食堂には巨大な一枚板のテーブルや切り株の椅子など、立派な木製の家具もある。細枝を編んだ、籐細工のような家具も使われている。

 また、隣接する別棟として、湯屋や、赤ん坊を共同で保育する『赤ちゃん部屋』がある。

 その他に、セレタの中には、燻製小屋や、染色や皮なめしなど各種の作業小屋が点在していて、これらもある程度恒久的な建物らしい。


 『冬の家』は、地下にある。セレタの地下に巨大な洞穴があって、冬場は皆でぬくぬくとそこに篭もるのだ。

 これは、木の根の下に自然にできた空洞に幾年にも渡って手を加えてきたものだそうで、食料貯蔵庫を含む幾つかの室が通路で繋げられており、各室ごとに一箇所から数カ所、通風と採光を兼ねて、地上に通じる細い穴が掘ってある。この通風孔は、雪や落ち葉が直接降り込まないように、垂直の縦穴ではなく斜めになっており、その地上の開口部は、草葺の屋根をさしかけて雪で埋まらないようにしてある。だから居室に直射日光が差しこむことはないが、少なくとも真っ暗闇ではなく、日中は目が慣れれば周囲がぼんやり見える程度の明かりはあるので、細かい手作業等は無理でもたいていの用は貴重な蝋燭を灯さずとも足せる。

 皆が集う主室には灯火も置かれ、暖房と調理用を兼ねた暖炉があって、地上に通じる煙突が設けてある。この室は天井も高く、私でも頭がつかえないのがありがたかった。


 彼らはその『冬の家』で、冬の間の大半の時間を、のんびり眠ってすごす。といって、別に動物のように完全に冬眠してしまうわけではないが、明らかに夏場より睡眠時間が長いようだ。二倍は眠っている気がする。食料集めに忙しい夏場と違って、急ぎの仕事がないからだろう。

 ここでは、普段働き者で早起きな彼らも好きな時に寝たり起きたりして、起きている時は主室に集まって、昼間はおしゃべりをしながら様々な手仕事をするし、夕べには皆で、あるいは数人で集まって、炉明かりの元、物語を語ったり遊戯をしたり楽器を演奏したりして楽しむこともある。彼らは、子供たちのする他愛のない遊戯から、大人たちが木の盤を囲んで車座になって繰り広げる非常に緻密で複雑なルールに則った知的なゲームまで、様々な娯楽を楽しんでいる。


 私も一冬、この『冬の家』での暮らしを経験したが、彼らのように長く眠ることが出来ないため、時間を持て余して困った。男たちには外に狩りに行く機会もあったが、私は大きな音を立てたりして邪魔になるからと狩には連れて行ってもらえないのだ。

 が、彼らのうちのたまたま起きているものから様々な話をゆっくりと聞かせてもらうことができたし、たいして役立たないながらも手作業を手伝ったりして時間をつぶしたものだ。

 彼らの盤ゲームも教えてもらったが、一冬中負けっぱなしだったのは悔しいことだ。負け惜しみを言うようであるが、ルールが非常に複雑で簡単には覚えられない実に高度な遊戯で、彼らにあっても一人前の指し手になるには何冬もかかるのが普通だそうなのだ。

 そういえば、その際に気づいたことだが、彼らは、数の暗算に非常に長けている。このゲームには、勝とうと思ったら非常に複雑な計算が必要になるのだが、彼らはそれを、瞬時に暗算でやっているようなのだ。私は最初、それに気づかずに、なぜ彼らが巧みに作戦を立てられるのかわからずにいた。そのうち、計算によって作戦が立てられることに気づき、丸一日考え込んだ挙句にその計算式も割り出したが、その段階で、彼らがそれを暗算でしているらしいことに気づいて衝撃を受けた。

 私にはその複雑な計算が暗算できなかったので、棒きれで地面に数字を書いて筆算していて、彼らに、何をしているのかと不思議がられたものだ。

 文字を持たない彼らは数字も持たないが、何人かが私のしている筆算に興味を持ったので説明してみたところ、最初は概念をつかめず首をひねっていたものの、いったん事情を飲み込むとすぐに理解し、たちまち筆算ができるようになった。

 が、しばらく珍しがってやってみた後で、そんなことは別にいちいち棒きれなど持ち出さずともすぐわかるのに、なぜわざわざこんな面倒なことをする必要があるのかと、みな、止めてしまった。

 それで思い返してみたのだが、そういえば彼らは平素から、何十個の木の実を十何人で分けると一人幾つで幾つ余るというような二桁以上の計算を、考える様子も見せずに瞬時にやってのけていた。

 もとより知性の高い人たちであるとは思っていたが、これにはおそれいるばかりだった。

 これは彼らの種族的な特徴であり、生まれつきの特技であろうと思うので、私があのゲームに負けるのは仕方のないことなのである。

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