第36話 蛾、太鼓、エメラルド

 深夜、エーミールは捕虫網を取った。

 アフリカの熱帯雨林に彼の求める新種は存在するはずである。


「旦那。今はやめといたほうがいいですよ」


 ガイドリーダーのキンタクンテが言った。

 理知的な人間であり、迷信を理由にする男ではない。

 だからこそ、エーミールはキンタクンテを雇ったわけだが、そのキンタクンテが制止するのである。

 エーミールは不機嫌になった。


「そうか、君もそういうやつなのか」


 一言だけ発して夜のジャングルヘ進み出た。

 キンタクンテも付き合ってやるか、というような素振りでキャンプ地を出る。

 他のガイドは嫌がった。

 キンタクンテは仲間に、


「無理についてこなくてもいい」

 

 とだけ言った。

 

 エーミールとキンタクンテはトラップを仕掛けた場所までやってきた。

 遠くからトラップを見た途端、エーミールの顔に驚愕の色が表れる。


「あの蛾はなんだ?」


 エメラルドの鱗粉が目を焼くほどに鮮やかな蛾だ。

 それだけならまだ何ともなかった。

 強い緑に輝く蛾は、あたりにべったりと、何百、何千、何万と止まっていた。

 キンタクンテに尋ねる。

 

「珍しいですね。あれはまだ学名がない蛾ですよ……あまりにもお目にかかれないですし、この辺の住民でも一生に一度か二度見れたらいいほうです」


 返ってきた答えに、エーミールは興奮しかけた。

 事実、現地住民が歓迎の意を表すときに打ち鳴らした何百もの太鼓のように鼓動が早まっていた。

 しかし、訝しみの気持ちが同時に浮かんできた。

 これだけの数を誇る蛾が、どうして学名がないのだろう?


「ここではあの蛾のことは何ていうんだ?」


「百年蛾、なんて言いますよ。実際、百年以上生きた人間なら二度は見てます」


「なんだって? ……じゃあ新種じゃないのか?」


「いや、学名はありませんよ。これは確かです。そもそも蛾に興味を示す人間がここに来ることは少ないので」


 エーミールは唸るだけだった。

 とりあえず、標本用に何十匹か捕まえて帰還することにした。


「ところで、なぜ君は今夜は行くなと止めたんだ?」


「ああ、それですか。風の噂でアルヤンカ国とナイジャンケ国の境目でちょっとした小競り合いがあったので、ここに敗走した兵士が来るかもと思ったんですよ。運良く、来ていないようなので助かりましたね」


 エーミールは自らを恥じた。


「それなら理由をきちんと聞いておくべきだった」


「いえ、いいんですよ。それより、この蛾の研究をするべきです」


 キンタクンテは笑った。



 後日、エーミールは発見した蛾を欧米の学会で公開した。

 百年蛾という現地の名前を通称に、そして正式な手順によって学名がつけられたのである。

 さらに後の研究によって、エーミールの百年蛾は、七十一年周期で羽化するという大変に珍しい、奇妙奇天烈な種であることがわかった。

 素数年に大量発生する種は、一部の蝉が知られているものの、蛾がそのような習性を、しかも七十一年という大きな数字で発生するというのは奇怪極まりない。

 この事実は、残念なことにエーミールが存命のうちには判明しなかった。

 もしわかっていたら、エーミールはキンタクンテにどれだけ感謝しただろうか。

 今となっては計り知ることはできない。

 

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