第22話 鹿、小母さん、肖像
あまり他人に景気のいい話をするものではない。
いつだったか、友人の営む温泉宿が資金難で潰れかかっていたときもそうだ。
ちょうど祖父の遺産が転がり込んできていた私に、彼は泣きついてきた。
友人の頼みである以上、
条件というのは、あと二回までなら金の融通をする、しかしそれ以上は断る、というシンプルなもの。
友人は承諾して見事経営を立て直した。
そこまではいい。
よくなかったのは、彼が私の景気が良いことをうっかり漏らしてしまったことだ。
ここからが本題だ。
経営が改善してから一か月後、私のところに妙な小母さんが訪ねて来始めた。
最初に会ったのは祖父の遺産のアトリエだった。
私もいくらか抽象画をたしなむので、思い切って大作を描いてみようかと行ってみた玄関先、件の小母さんがニタニタとしながら立っている。
挨拶を軽くしてアトリエに入ろうとすると、
「ねえ、絵を買いませんか、ねえ、いいじゃないですか、ねえ」
と小母さんは早口でまくし立てる。
何の絵かわからないし、値段も言わない、ただ売りつけることばかり考えている態度がありありと見えたので、無視してアトリエに入った。
その小母さんは一年間ずっと現れた。
全く同じ様子で絵を売ろうとしてくるので不気味も不気味である。
何度かははっきりと断り、警察も呼んだものの、鹿のように逃げ足は速く、鹿のように図々しく執拗に戻ってくるのだ。
温泉宿の友人もあの小母さんに悩まされていたらしい。
三年間やってき続けて、泊まるつもりもなくただ絵を売りつけようとするばかりだったそうだ。
ついに堪忍袋の緒が切れ、二度と来るな、と言ったはいいものの、今度は「お金持ちを知りませんか、ねえ、お金持ちを」と執拗に迫り、友人は根負けしてしまった。
つまり、私のことを話してしまったわけである。
私のところにも三年も小母さんが現れ続けた。
何とかあしらい続けたものの、もうだんだんと疲れてきた。
いかなる手段をとっても追い払わなけば、と決心したときのことである。
時たま、祖父の日記帳を整理していた。
その中に、ある肖像画の話が出てきた。
一般的なキャンバスのサイズとは異なり、手のひらに収まるくらいの絵。
どんな客人にも見せたことがないという。
ただ、うざったらしい人間を遠ざける働きがあると書いてあった。
物は試しである。
例の肖像画を見つけた私は、あの小母さんに見せてやろうと思い立った。
いつものようにやってきた小母さんを、アトリエに招き入れた。
小母さんに訝しむ様子が出るかと思ったのは誤りだった。
むしろ却って増長し、「絵を買いなさい、買いなさいよ、ねえ」とまくし立てるだけだった。
そこで私はこう言った。
「絵を買ってもいいですよ、ただ代わりに引き取ってもらいたい絵があるのです」
すると小母さんはますます嫌な笑みを浮かべた。
が、それも件の肖像画を取り出すまでだった。
ここからは急に与太話めいてくる。
まあ気にせず聞いてほしい。
肖像画が小母さんに向け叫んだのだ。
「ああよし! よし! お前が私の代わりだ!」
しばし沈黙があった。
十秒ほどの間があったろうか。
小母さんがふらふらと立ち上がり、私に向かって、
「あの絵は焼き捨てなさい。そうすればもうこの女は現れないだろう」
と言った。
私は彼女の豹変に驚かず、むしろ粛々と焼却炉に肖像画を放り込んだ。
以来、その小母さんは現れなかった。
私の語りたいことはここまでだ。
あまり他人に景気のいい話をするものではない。
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