第42話 犯行

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 あんたたちはこんな経験をしたことはないか?

 朝、目が覚めて時計を見ると、起きるはずの時間をとっくに過ぎている。しかも、そんな日に限って大切な仕事が入ってるんだ。大慌てで家を出て大遅刻で怒られるのも覚悟で相手が待つ部屋の扉を開いた瞬間……

 はっと目が覚めると、傍らで目覚まし時計が鳴っている。

 時間をみたらちゃんと予定通りの時間に目覚めて、ああ、なんだ夢だったのか、と安堵するってやつ。


 いま、おれはまさにそんな状況。ただ、困ったことに、おれの場合、目が覚めたとき、すでに起床予定時刻を三十分もオーバーしていたことだ。

 昨晩、マコトの店で飲みすぎたのか? いや、それほど飲んだつもりはないから、おれも気づかないうちに疲れがたまっていたのかもしれない。

 それにしても、こんなタイミングで寝過ごすこともないだろうに。

 自分自身にぶつくさ文句を垂れたところで状況は改善するわけではない。今日はリョウコの写真展当日だ。さすがに人前にでるのにジーパンというわけにはいかないため、最近はめっきりと着ける機会が減ったネクタイをまいて、スーツのジャケットに袖を通す。


「くそ、今日は朝食抜きか」


 誰にいうでもなく悪態をつきながら、おれは大急ぎで事務所を出た。

 くすんだ蛍光灯の明かりが落ちるテナントビルの階段を一つ降りたところで、マコトの店の入口をちらりと見遣る。いつもなら「OPEN」の看板がかかっているあしびばの大きなウッドドアには「本日、朝食は臨時休業いたします」と紙が貼りつけてあった。

 そういえば、マコトにも手伝いをお願いしていたんだった。どちらにしてもおれの朝食は抜きになっていたのか。仕方がない、むこうで時間ができたらなにか食料を調達しよう。


 いつもなら車で向かうところだが、おれの愛車はこういう寒い日にはエンジンの調子が悪くなる。どうしようかと一瞬悩んだちょうどそのとき、目の前をタクシーが横切った。それを慌てて停めると、後部座席に滑り込み運転手に行き先を告げた。

 行き先が近場で期待外れだったのか、無愛想な返事を運転手がしたところで、今度はおれのスマホがポケットの中でぶるぶると震えて呑気なメロディーを奏でた。このメロディーはコウジからの着信音だ。おれが遅れているので嫌味の電話だろう。


「アキオか? いまどこだ?」


 前置きなしにコウジはそういった。どことなくいつもの調子と違って緊迫感がある声だ。


「悪い、ちょっと出遅れて今タクシーでむかっているところだ。なにかあったのか?」

「ああ、ちょっとな。タクシーならすぐ着くか」

「急ぐのか?」


 コウジの返事に少し間があった。やつはまるで内緒話をするように声をひそめた。


「アキオ、リョウコとは一緒じゃないよな?」


 おれは昨日あしびばを出たあとはその足で一つ上のおれの事務所に戻っている。もちろん、リョウコと一緒じゃない。


「まさか、リョウコがまだ来てないのか?」

「ああ。リョウコは昨日なにかいっていたか?」

「八時過ぎにはそっちに入るっていっていた」


 おれは腕時計に目を落とす。時間は九時を回ったところだ。開場まではまだ一時間弱あるが、リョウコのスタジオから文化センターまでは最低でも三十分はかかる。


「電話は?」

「出ないな」

「そっちにリョウコの事務所の場所がわかるスタッフはいるか?」

「ああ、さっき一人むかわせた。おまえはどこか心当たりはあるか?」

「いや、いまは彼女の事務所以外に思いつくところはない。とりあえずもうすぐそっちに着くから、対応を考えよう」

「それがな、問題はそれだけじゃない」

「なんだって?」


 おれの声に運転手が一瞬びくりと肩を強張らせた。

 まさか例の脅迫状の犯人が本格的に妨害をしてきたのだろうか。

 おれの心臓を打つリズムが早くなっていく。


「リョウコの写真のうち何枚かにシミ汚れがついていてこのままでは展示できない状態になっている」

「まさか……でも、昨日おれたちが設営した時にはなにも……」

「とりあえず、今のところはその写真をはずしてしまうほかないと思っている。まあ、じたばたしても仕方がないとは思うが、リョウコが来ていないことのほうが心配だ。なにか思い当たることがないか、こっちに着くまでに考えておいてくれ」


 そういうとコウジは電話を切った。その間にタクシーは新港入口の交差点を曲がり、あとはこのまままっすぐ七百メートルもいけば文化センターに到着する。時間にすれば一分もかからないだろう。

 スマホからリョウコへ電話をかけてみるも、電源が切れているというお決まりのアナウンスが流れるだけ。おれはリョウコへの連絡はいったん諦め、昨日から今日までの記憶をたどる。

 昨日の午後三時ごろに設営を終え、その後、リョウコがマコトを案内しているから、その時点では問題はなかったはずだ。そのあとでホールを出るときも見て回ったがおかしな点はなかったし、鍵もかけたのを確認している。

 ホワイエという共用エリアである以上、他に出入りする人物があった可能性はあるが、あの日会場を出たのはおれたちが最後だったし、ホールの利用予定はなかった。誰かが出入りすれば職員は気付く可能性が高い。ならば管理事務所できけばわかるはずだ。

 それにしてもシミ汚れというのは、世界遺産や文化遺産登録されている建造物に油がまかれる事件との関連性があるのだろうか。

 リョウコがいっていたみたいに、世界遺産登録への反対グループがいてこのイベントそのものを妨害しようとしているということか。

 考えを巡らせているうちに、タクシーは文化ホール正面の芝生広場前に到着する。残り百メートルほどをダッシュで駆け抜けて、おれは展示会場へと飛び込んだ。


「遅れてすまなかった。それで状況は?」

「汚損されている写真は全部で五枚。どれも展示会場内のA4サイズのものだ。今回は額に保護ガラスをはめていなかったせいで写真もマットもダメだ」

「リョウコのほうは?」

「彼女のスタジオにむかったスタッフからむこうにはいなかったと連絡があった」


 コウジがいうと、続けてワタルが真剣な声をだした。


「スタジオに彼女の車も見当たらんかったらしいから、外出しとるのは間違いなさそうじゃが、一応、ワンの同僚に彼女の車を見かけたら連絡くれるように頼んである」


 想定外の事態に焦りがあるのか、ワタルもやや早口になっている。おれは二人からの報告を聞きながらパネルで囲まれた展示会場内に入り、汚損された写真を確認する。汚されていた写真は「島の自然」に一枚、「島の生物」に二枚、「島の文化」に二枚。合計で五枚だった。その中にはリョウコが新聞に掲載されたこともあるといっていた地区運動会でのムカデ競争の写真も含まれていた。


「リョウコが不在で指示できる人間がいなくてスタッフも混乱してるんだ。どうする、アキオ」


 おれの後をついてきていたコウジがたずねる。おれは少し考えてから、スタッフに指示をする。

「裏の控室に、段ボール箱がある。その中にはまだ何枚か予備のマットが余っているから、汚れたマットの交換はできる」

「けど、肝心の写真はどうする? 汚れた写真じゃせっかくの写真展も台無しだ」

「それはなんとかなる。受付に今日配布する予定のパンフレットがあっただろう? あれを一部持ってきてくれるか?」


 おれがワタルにそういうと、普段はあまり見せない機敏な動作で展示会場の入口のテーブルに積んであったパンフレットを持ってきた。


「これは今日、リョウコさんが展示しとる写真の一覧じゃが」

「まさか、この小さい写真を飾るつもりか?」


 コウジがここにきていつもの人を小馬鹿にしたような含み笑いをする。


「写真はなんとかなる。それよりもおれはリョウコを探す。せっかくの写真展に本人がいないんじゃ格好がつかないしな」


 ホールの外、ガラス扉のむこうのエントランス部分には開場を待っている来場者が数人、列を作って並んでいた。熱心な支持者がいたもんだ。

 おれはワタルに汚れた写真を外して額をきれいに拭いておくように頼み、いったんホワイエを出る。コウジもおれの後をついてきた。おれたちはエントランスから正面玄関へとまわり、ロビーの一角にある管理室の小窓をノックして中の職員に声をかけた。


「昨日写真展の準備をしていた者なんだけど、すこし聞きたいんだ。昨日、おれたちが準備を終えた後に、ホールに入った人っていたかな?」

「昨日ねぇ。そういえば、髪の長い女性が一人、忘れ物を取りに来たといって中に入りましたよ。すぐに出てきましたけど」

「髪の長い人? リョウコか?」


 コウジがおれのうしろでつぶやいた。リョウコとは現場で別れたのでその後の動きはわからないが、なにかを取りに戻ったということか。


「それ以外はだれも入ってなかった?」

「そう思うけどね」

「わかった。ありがとう」


 そういって礼をいうと、おれはまわれ右をしてロビーを出て、ふたたびホール前のエントランスへとやってきた。ホール入口前の人の列は時間が経つごとに長くなり、その数はすでに五十人は超えていそうだ。皆スマホや文庫本を片手に、会場までの時間を寒空の下で待っていた。おれがその人の合間を縫ってホールに戻ろうとしたときだった。


「ちくしょう! だれだ、写真展の邪魔をしやがったのは!」


 エントランスにいただれもがその声に驚いて、手にしたスマホや文庫本などから顔をあげて声の主へと視線をむけた。もちろん、おれもその中の一人だったのだが、それがコウジが発した叫び声だとすぐにわかった。


「おい、でかい声出すなよ。注目されてるぞ」

「悪いな。むしゃくしゃしてつい」


 そういったものの、コウジはまったく反省している様子も見せずにいつも通りのヘラヘラとした薄い笑いを浮かべている。

 ホワイエに戻るとワタルが駆け寄ってきた。


「いわれた通りにしたが、このあとはどうしたらいい」

「写真のことなんだが、ワタル。悪いが、最寄りのコンビニまで急いでいってくれないか? タクシー使ってでもなんでもいいから」


 ワタルはおれが突然コンビニに行けといった理由にいまいちピンとこなかったのか、眉間にしわを寄せてきき返した。


「それは構わんが、コンビニになにを買いに行くんだ?」

「リョウコの写真だ」


 ワタルはますますきょとんとしておれを見返す。

 おれは写真展のパンフレットの中から汚された五枚の写真をマジックペンで丸で囲むと、さらにそのタイトルの下に記載されたアルファベットの文字にマーカーでラインを引いて、ワタルに手渡した。


「そいつは、ネットプリントというサービスを利用して、コンビニのコピー機から印刷ができるんだ。操作自体は難しくないはずだ。A4サイズの光沢紙で印刷をして、それを予備のマットとともに額に入れて写真の額を元の位置に戻しておいてくれ」

「まさかコンビニで同じ写真がプリントできるちゃあ、驚きじゃ。それで、アキオはどうするつもりかい?」

「おれはリョウコを迎えにいってくる」


 そういうと、ワタルもコウジも目を見開いて驚いた。


「まさか、リョウコの居場所がわかるのか?」


 そういうコウジにむかっておれはにやりと笑ってみせた。いつもやつにやられている仕返しだ。


「まあな。開場時間に間に合えばいいけど、そうならなかったとしても必ず連れてきてみせるさ。じゃあ、写真のほうは頼んだぞ」


 おれはホールを飛び出すと、冬空の下、海風の舞う芝生広場を走り抜けて大通りでタクシーを拾う。おれが運転手に告げたのは、おれの事務所の住所だった。

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