生の品質

第16話 白衣の天使

     💊


 九月に入って半ばも過ぎようとしているのに、この島を照らす太陽は空気を読むのが苦手らしく、連日三十度超えの真夏日が続いている。

 ただ、数日間降り続いた雨がやみ、今日みたいにスッキリと晴れると、島を取り巻いている空気もどこか、磨かれて透明度が増したような爽やかさを感じさせてくれる。


 この日、おれは島の西部での手伝いをひとつこなしてから、市内にある事務所にむけて車を走らせていた。

 なんでも屋業については、まあ順調。最近はそれ以外にフリーの仕事も入るようになって、収入面に余裕が出たこともあり、おれは車を手に入れたのだ。もちろん中古の。

 雨の多いこの島でスクーターでの移動はかなり過酷だったからな。

 おれが買ったのは、もう三十年近くも昔の車だ。天井がキャンバストップになったレトロな空色の車で、愛嬌あるふたつの丸いヘッドライトが古めかしくも、この島の海と空にぴったりな気がして、衝動買いしてしまったのだ。

 快適さが金で買えるというのは紛れもない事実だ。


 日も傾き始め、久しぶりに茜色に染まる夕空が見れそうだったこともあって、海を見下ろす岬に作られた公園の駐車場へ車を入れて、夕焼け見物としゃれこむことにした。

 眼下には夕日スポットにもなっている美しいビーチがあり、岬からは大きく湾になった砂浜と、そこにひろがる集落の屋根が朱く染められていく様子が、ジオラマを眺めているような気分で見下ろすことができるのだ。シーズンが過ぎ観光客も少なくなったし、運が良ければ夕焼けを独占できるかもしれない。

 しかし、そんなおれの思いとは裏腹に駐車場にはすでに一台の車が停まっていた。

 シルバーの軽自動車で、車のサイドには「訪問看護ステーション でいご」という、社名がプリントされていた。

 その車から少し離れた場所に車を停め車外へ出ると、湾のむこうに延びる島影をかすめながら沈み行く夕日をじっと眺めていた。

 そのときおれがなにを考えていたかは、あんたたちの想像に任せるとして、そんな状態で突然、後ろから声をかけられたら普通、誰だって驚くよな?

 背後で女の声がしたのは、まさにそんな状況。

 

「あの、すみません」


 完全に無防備だったおれは体をビクンとさせて振り返った。心拍数が一気にあがる。

 そこに立っていたのは、髪を後ろでひとつに束ね、さらにそれをぐるりと団子状にして留めている細身の女性だった。身長は高くもなく、かといってとりわけ低いわけでもない、一六十センチメートル弱といったところだろうか。

 ただ、彼女から違和感を拭えない理由は、彼女が着ていた服装のせいだ。


 彼女の着ている白いシャツは、体の正面ではなく、左肩あたりから真下にむかって重ね合わせられており、さらに腰のあたりには何本ものペンのさしてある大きなポケットがついていて、パンツや靴にいたるまで真っ白だ。おれがそんな格好の女性を見るのは、こんな夕日の綺麗な景勝地なんかじゃなく、あの無機質でどこか冷たいリノリウムの床にうつる蛍光灯が作る空間。

 彼女の真っ白なナース服(といってもワンピースじゃないけどね)が夕日を受けて滲むような赤に染められていた。

 女性がひとり、ナース服でこんな場所にいる理由を一瞬考え、ちょうどそのとき、さっき停まっていた車のサイドに「訪問看護ステー-ション でいご」というプリントがされていたことを思い出す。

 なんとなく直感で彼女がなにか困難に直面しているのではないかと、そう感じ取った。


 もっとも、現時点でも逆ナンパである線も捨てがたいが。


 おれは動揺したことを悟られないよう、つとめて冷静にいった。


「何かありましたか?」

「すみません、突然。実は、車が故障したみたいで……わたしあまり詳しくなくて……」


 彼女は、恥ずかしげに顔を伏せる。その仕草におれはほんの少し、頬に熱がこもるのを感じた。よく見れば、愛らしい大きな瞳に、長いまつ毛がくるんと上を向いて、ありていにいえば、とても美人だ。

 ナンパでないのが残念ではあったが、とにかく、おれの直感は間違ってはいないようだった。


「車が動かなくなった?」

「はい。ここまでは問題なく動いていたんです。夕日が綺麗だったので、少し寄り道をしようとしてここで車を停めたあと、いざ帰ろうとしたらうんともすんとも……」

「わかった。ちょっと見てみるよ。鍵は?」

「車についています」


 小さくうなずきながら、おれは十メートルほどむこうに停めてあった彼女の軽自動車へと歩いていった。

 ドアを開けると、キーが付きっぱなしであることを知らせるアラームが鳴る。おれは運転席に座って、ブレーキを踏みイグニッションキーを捻る。確かにうんともすんともいわないが、バッテリーからの通電はしているようだ。

 おれはもう一度手順を踏みなおそうと、シフトコラムに手を置いて、つい苦笑いを浮かべた。

 おれのちょっとした動作のあと、もう一度エンジンをスタートさせると、今度は何の問題もなかったかのようにエンジンはあっさりと始動した。


「ええー!? なんで?」


 大きな口を開けて、呆れたように驚く彼女に、おれは運転席から降りていう。


「シフトレバーがドライブにはいったままキーを切っていたんだ。レバーをパーキングに合わせてなかったから、エンジンがかからなかったんだよ。大丈夫。故障じゃないよ。むしろ、安全装置だ」

「よかったぁ。今からステーションに帰らないといけないのに、すっかり途方に暮れていたんです。ありがとうございました」


 彼女はそういって深々と頭をさげた。


「えっと、君は看護師さんなの?」

「はい、訪問看護をしているたいら美咲みさきといいます。本当に助かりました」

「おれは、大澤アキオ。市内でなんでも屋をやっているんだ」


 なんでも屋と聞くと彼女は一瞬、きょとんとした表情を浮かべたが、すぐににっこりと、小首をかしげる仕草をしてみせた。

 そのとき、おれは確かに見たんだ。「白衣の天使」ってやつをね。

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