いつか必ず、きっと

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いつか必ず、きっと


 汗が頬を伝い、顎から地面へと滴り落ちた。

 酷暑の頃は過ぎたが、世間は未だ茹だるような残暑が続き、アスファルトを濡らした雫は、あっという間に乾いて消える。


「クソ…ッ、何が今日の射手座の運勢は、ラッキー度第一位だってんだ!」


 今朝ワイドショーの占いで、最高の運勢だと言っていたのに、とてもツイているとは言い難い。ささやかな風さえも遮られてしまう空気の澱んだコンクリートジャングルの路地裏で、俺は暑さに耐えながら、息を潜めて様子を探っていた。

 見つめる先は、薄汚れた赤レンガの雑居ビル。煤けた看板の文字は、今はもう全く判読できない。

 どうしてこんな暑い中、こんな寂れた場所で潜んでいるかというと、ある男を追跡してきたからだ。ヤツはごく普通の顔立ちをした、中肉中背のどこにでもいるサラリーマン。優しいマイホームパパを装っているが、そのじつ家族にさえ見せることのない、裏の顔をひた隠している。

 額に浮かぶ汗を袖口で拭い、ネクタイの結び目を緩めて襟元に風を送る。体温で暖められた熱気が頬をかすめて酷く不快だ。


 ヤツを初めて知ったのは、俺がまだ青二才と呼ばれていた頃だった。管轄内で刃物による殺人事件が立て続けに起き、俺は県警に敷かれた捜査対策本部に回された。


「絶対にホシを上げてやる…ッ」


 狂気に満ちた、残忍すぎる犯行。被害者はいつも若い女性だった。

 切り刻まれ変わり果てた大切な人に縋りつき、声を枯らして泣き崩れる遺族を目の当たりにする度、俺を含めた捜査関係者の誰もが、犯人逮捕の決意を新たにしたものだ。

 しかし気持ちとは裏腹に、なかなか犯人の目星はつかない。そんな中、一本の通報から、一人の容疑者が浮かび上がった。

 当時はまだ公立高校に通う、十七歳のごく普通の少年。彼にはたった一度だけ万引きによる補導歴があったが、それ以外は至極真面目な学生だった。

 犯行推定時間のアリバイがはっきりせず、目撃証言に姿形が似ていたため警察署に連行し取り調べを行ったが、気弱そうな少年は終始ビクビクと怯えた様子で、訊ねられたことに対しオドオドと答えた。

 被害者の一人である女子高生との間に接点があったことがわかると、一気に捜査の目は彼に集中したのだが―――


(何かがおかしい…)


 言いようのない違和感に、胸の奥がモヤモヤとした。

 通報者の特定ができなかったのだ。公衆電話からだというところまでは辿れたのだが、人物はわからないまま。しかも犯人にしかわかり得ない詳細を語り、一方的に切られたらしい。

 迷走していた状況に一筋の希望の光として差し込んだ情報は、一時捜査員たちの活路となったように見せて容疑者を彼一人に絞らせたが、その実真相からは遠ざけられたように感じた。

 決定打となる証拠がないまま拘留期限は切れ、少年は釈放された。唯一の手掛かりであるタレコミの信憑性が怪しくなり、結局事件は迷宮入りしてしまった。

 それっきりプツリと途絶えた足取り。このまま犯人を逃してしまうのかと懸念した。が、しかし、よく似た犯行が十数年の時を経て、先月、再び、行われたのだ。

 河川敷に投げ捨てられた、無残な遺体。個人の判別が困難なほど細切れにされた顔や指先。艶やかで美しかったであろう長い髪も散切りにされ、余りにもひどい状態だった。けれど俺にはピンと感じるものがあった。そしてもう一つ、遺体発見現場を覆ったブルーシートの隙間から見える野次馬の中に、当時容疑者として連行されたあの少年の姿が。しかも…


「あいつ、笑ってやがるッ」


 痛ましそうに眉根を寄せていながらも、その目の奥は愉快に歪められた怪しい光が揺らいでいた。

 ―――瞬間、ヤツが真犯人だと確信した。

 その日から俺は男を徹底的に調べ尽くした。

 以前よりもやや痩せてはいたが、平均的な体形に、十人並みの顔貌。現在は中小企業勤務の会社員で、妻と子供二人の四人家族。十年以上前はまだ高校生だったヤツは、犯行時刻は塾の授業中だったと告げたらしい。だが、時々無断欠席していたという証言もあり、調書を読み返すほどに小さな食い違いが気にかかった。

 それにヤツはなぜ今回、会社や自宅から離れている河川敷を選んだのだろうか?

 何が何でも証拠を押さえ、絶対にすべてを吐かせてやると意気込み、まだ終業時間には早い夕暮れの頃に社屋を出たヤツを、俺は一人で尾行した。

 容疑者の男はホームで電車を二本見送り、利用客の少ない小さな駅で降車。わざわざ人気のない小道を選んでゆくのには、何か特別な理由があるはずだ。 

 そして辿り着いたのは、冒頭に述べた古いビル。


「…一体中で何をしているんだ?」


 張り込んで二時間が過ぎる頃、なかなか出てくる気配のない男に痺れを切らした俺は、ホルダーから銃を抜くと、足音を忍ばせて建物内に侵入した。

 一階から順に、内部を確かめつつ上がってゆく。二階、三階…。そして最上階まで来たが、求める姿は見当たらない。


「! ヤツめ、どこへ行った?!」


 ドアの一つ一つを蹴破りながら探していると、突如背後から男に声をかけられた。


「どうしました? どなたかをお探しで?」


 嘲りを含んだ柔らかな声音。反射的に振り返ろうとしたが、同時に脳天を襲った衝撃に、俺はコンクリートの床に倒れ伏した。

 カラン、カラララ…と鉄パイプがコンクリートに当たり、ガンガンと痛む頭に響いた。赤く染まって霞んだ視界に、男物の革靴が映る。


「ああ、やっぱり貴方だったんですねェ」


 楽しそうに弾んだヤツの声。俺は渾身の力で左手を伸ばし、ヤツのズボンの裾を掴んだ。


「前の時からずーっと、貴方だけは本当の僕を見てくれていると思ってましたよ。わざわざ通報した甲斐あって、取調室でのやり取りはとても楽しかった。なのにこんな形でせっかくの理解者を失う事になるなんて———」


 そう言ってヤツは俺の右手から銃をむしり取ると、何の躊躇いもなく銃口を俺に向ける。


「本当、実に残念です」

「逃、げ切れると思うな。絶対に逆転してや……っ!」


 ズガン! ズガンズガンズガン!


 発砲音と共に衝撃が襲い、背中から腰に渡って激痛が与えられた。

 痛みと苦しみに消えかかる意識の狭間―――嗅ぎなれない硝煙の匂いに、男はウットリと微笑んでいた。





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