5、投了
美沙希が頭に巻いていた包帯を解くと包帯は風に揺られて飛んでいってしまった。
「近づかないで」
僕が美沙希に歩み寄ろうとすると、美沙希は大声で怒鳴った。電車はもうすぐそこまで迫っている。黄色い線の外側で、目の見えない美沙希が線路に背を向けて立っているのは自殺行為でしかなかった。
もし仮に美沙希が言っていることが本当で、嘘偽りが一つもなかったとして。美沙希の中には赤ちゃんがいる、これが事実だったとして。そんなことが許されるはずがなかった。僕は人を殺していて、それを遺棄していて、それでいて美沙希に嘘をついている。そんな奴が父親になって良いはずがなかった。僕と美沙希の間に子供ができるだなんて、そんなことあって良いはずがない。もう時間の問題なんだ。僕はいずれ捕まるだろう。死体を隠したところで、そんなのは時間稼ぎにしかならない。警察はとっくに僕をマークしているはずだ。なにかのきっかけさえあれば、僕はすぐにでも逮捕される。
美沙希の言う通り生まれてくる子供は不幸になるだけだ。
「ねぇ、何を黙ってるの? 時間がないよ早く、キミがついてる嘘を……教えてよ」
美沙希はそうせかしてくる。でも僕は言わない。言いたくない。だってタイミングは今じゃない。もっと。もっと。もっと長い時間をかけなければ意味がない。僕が長い間苦しめられたみたいに、美沙希にはそれ相応に苦しんでもらわなければならない。そのためにはこんなちょっとの時間じゃ足りないんだ。
「あっそ、キミはそれでも本当のことを言おうとしないんだね」
美沙希はただ僕の方を見ていた。
見えないはずのその目で僕を睨め付ける。
「まぁわかるよ、私だってそうだから。結局は、さ。嘘をつくことが悪いんじゃないんだよ。だってみんなさ、嘘をついてなくたってどうせ許してはくれないんだから。だったら、それらしい嘘をついた方がその人の為だと思わない? その人をできるだけ傷つけまいと嘘をついてるんだもん、それの何が悪いの?」
僕は、美沙希の為に嘘をついているわけじゃない。
電車が、来る。
「風俗嬢だから付き合えません、ってそういえば良かったの? 彼女が風俗嬢だなんて哀れだなって思ったから彼氏がいるって嘘をついてあげたのに、それの何が不満なの?」
僕には何の話をしているのかさっぱりだった。
「何のことって思ってるでしょ? だろうね、キミは嘘つきだもんね」
嘘つき嘘つき嘘つき嘘つき嘘つき嘘つき嘘つき。
うそつき。
うるさい、黙れ。
僕はふと思った。僕は一体、いつ美沙希に本当のことを話すのだろうと。長い間、嘘をつき続けようとはしていた。でもそれはいつまでだ。一体、いつがそのタイミングなんだ。長い間嘘をつき続けていれば、美沙希に本当のことを言った時、美沙希は絶望するだろう。そう思って嘘をついてきた。
……本当か。
本当にそう思ってきたか。心の底からそれを信じて嘘をついてきたか。嶋を名乗っているから僕は美沙希と一緒に居ることができる。嶋ではないことを白状したら、きっともう一緒に居ることはできないだろう。あれ。違う。そんなことはどうだっていい。違う。違うだろ。何を考えているんだ、僕は。それじゃあまるで
「キミは……私ともっと一緒に居たかった?」
美沙希と目が合った。
なあ、美沙希。もう僕もわからない。本音を隠しすぎて、どれが本当なのかもうさっぱりだ。きっとお前もそうなんだろ。
電車がホームに入ると同時に美沙希は踵を返した。
「ごめん、時間切れだよ。結局キミも私も同じだったね」
美沙希は線路にむかって一歩前に歩みだす。
ばか、やめろ。違う。言う。言うから。本当のことを全部話すから。聞いてくれ。僕の話を聞いてくれ。美沙希。違うんだ。僕は。僕は。
「あれ……嶋……くん?」
美沙希は向かいのホームを見ながら、そう呟いて右手を前に突き出した。その姿はまるで救いを求めるかのようだった。
僕は目の前で美沙希が電車に轢かれるのをただただ眺めていた。前に突き出した右手が電車に触れて、美沙希は線路内に引きずり込まれていった。僕は何も言えずにそこに突っ立っていた。
最後に美沙希が言った言葉が嘘でないのなら、向かいのホームにいた男を追わなければ。僕は駅の階段を全力で下りて行った。
全部、なくなってしまえば楽なのに。嘘も本当も、全部わからなくなって頭がおかしくなっちゃえばいいのに。全部見えなくなってしまえばいいのに。僕も美沙希みたいに目がつぶれてしまえばいいのに。真っ暗になっちゃえば、それが一番楽なのに。
そうだ、どうせ僕の人生にはゴールなんて用意されてない。だったら最初から何も見えてない方がいいんだ。
なあ、美沙希。結局お前は何を考えていたんだ。あの日、平沼先輩に告白された時、本当に一切僕のことが過らなかったのか。結局何もわかってない。美沙希の言ったことの何が本当で何が嘘なのか、わからない。なあ美沙希。教えてくれ。
美沙希が死んだところで、答えは出ない。むしろ迷宮入りだ。
きっと僕はこの先もずっと美沙希のことが忘れられないのだろう。
ずっと美沙希に囚われて生きていくのだろう。
美沙希。
僕はずっと、これからもずっと、ずっと。
美沙希、お前のことが大嫌いだ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます