4、一回休み(1)
金曜日の夜だというのに誰かが線路に飛び込んだ。落ちたのは向かいのホームにいた女だった。月曜の朝なら少しくらい同情してやったもんだが、休日を前にして死のうだなんてまともな思考とは思えない。最期の最期で大勢の人間に迷惑をかけるような奴なのだからどうせ生きている間も、ロクなことをしてこなかったのだろう。どうせ死ぬのなら平沼先輩のように職場で死んで一矢報いれば良いのに。
死体を片すまで待ってはいられない。タクシーで帰るしかない。そう思い階段を下りて改札を出ようとした時、走り寄ってきた知らない男に声をかけられた。その男は息を切らしていて、目からは涙が出ていた。よく見るとさっき死んだ女と一緒にいた男だった。
良いんですか。轢かれたの、あなたの知人では?
聞いたが男はそんなことどうでも良いと返した。
とにかくここを離れましょう。あなたにお話したいことがあります。
全てが急で、俺にはこいつの言動を理解しかねた。金曜日の夜ということもあって酔っ払いに絡まれることは多々あるが、シラフのキチガイに声をかけられたことは初めてだった。こんなやつに時間を取られるのは勘弁だ。どうにかして逃げようと試みたがこの男は俺の名前を言い当てた。そしてこう続ける。
美沙希が死にました。
みさきなんて名前のやつは俺の人生に複数人存在していた。しかしあの時線路内に落ちていった女の残像を思い返して、もしかしたらあれは高校の時のあの美沙希だったのではないかと思った。彼にそれを伝えると彼は首を縦に二回振った。
正直、美沙希と関わるのはもう御免だった。だからこの男とも関わりたくはなかった。しかし彼が目の前で美沙希が死んだのを放ってまで俺と話したいと思うのには何かわけがあるに違いないと思った。近くの喫茶店に入ることを提案すると、彼はもう少し遠くの喫茶店を所望した。俺はそれを了承し、妻に帰宅が遅くなることを連絡した。
ホットコーヒーが二つテーブルに運ばれてきて、早速本題に入る。そもそも彼は何者なのか。しかし彼は俺の問いには答えなかった。そんなことは後でいい。そう言って彼は淡々と語り出した。彼の話は彼の高校時代から始まった。そこが全ての始まりであり、彼の人生のスタートラインだったらしい。彼の話を聞き始めたところで、俺と彼が同じ高校の出身であることがわかった。さらに言えば同じクラスメイトで、彼も俺同様に当時美沙希のことが好きであったことまでわかった。これだけでこの男の特定に至った。顔が変わっているからわからなかったが、美沙希の近くによくいた男がいた。それがこいつだった。あの時、俺が羨ましいと感じていた、あの男だった。
いつも美沙希の近くにいて、いつも楽しそうにしていやがった。こいつが美沙希以外の人間と話しているところは見たことがなかった。他に友達もいなかったはずだ。スクールカーストで言えば彼は底辺。ただ、美沙希が近くにいた。それだけで俺にとっては羨ましかった。狡いと思っていた。当時俺はこいつと美沙希は付き合っているものだと思っていた。だから俺は、あの当時美沙希に心の内を明かすことすらしなかったんだ。
しかしいつだったか美沙希はあの平沼先輩と付き合い始めた。俺からしたらわけがわからなかった。美沙希の考えていることがわからなくなった。あれだけ仲良くしている男子がいて、近所に住んでいただけのポッと出の先輩を選ぶのかと。聞くと彼の方も美沙希に告白をしていたようだった。しかし彼はフラれた。受験を控えているからという理由であったようだが、それでは平沼先輩と付き合っている事実と矛盾する。あれからこの男は美沙希とあまり話さなくなった。
彼の話は実に興味深い話だった。俺が知っている美沙希と、彼の知っている美沙希は間違いなく同一人物であるのに、まるで別人の話を聞いているかのようだった。
このズレこそが美沙希という女を語っている。人によって話し方も表情すらも変えて、自分のことだけを考えて上手く世を渡ろうとする。それが美沙希であって俺の前とこの男の前とでは、違う人間に見えるのは当たり前のことだった。問題があるとすれば美沙希はそれを無意識にやっているということだった。彼女には悪気なんて一切ないのだ。無意識のうちに、彼女は周りを不幸にしていく。
美沙希はそういう女なのだ。
高校時代に美沙希が本当に心を寄せていた男子の話が出てきたが、きっとそれも事実じゃない。ただ話を聞く限りではもしかしたら美沙希は嘘をついているつもりもないのかもしれない。嘘をついている内に自分のことも、自分の気持ちも、過去に抱いていた想いも、どれが本当でどれが嘘かわからなくなってしまったという可能性がある。だから美沙希の中ではそれが真実になってしまっているのかもしれない。本当にバカな女だ。
彼の話は一度区切れた。高校の話はここで終わりのようだ。彼曰く彼の大学生活に美沙希が出てくることはないようだ。ただそれでも美沙希のことを忘れられなかった彼は大学を卒業して数ヶ月後、美沙希に飲み会に誘われ再会を果たす。平沼先輩と別れたと聞いて、向かったその飲み会には大勢の人と変わり果てた美沙希の姿があった。
彼はそこで黙り込む。床に視線を落としたかと思うと、睨め付けるように俺のことを見るのだ。
そこで俺は思い出した。あの時、階段の踊り場に一人でいたのはこいつだったのではないか、と。
彼は何も喋らない。次はお前の番だとでも言うかのようだった。
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