3、あがりが見えない(9)
揺れる電車の中で美沙希は平沼先輩との思い出を語っていた。初めてデートしたこと、初めてプレゼントをもらったこと、初めて出会った時のこと、告白された時のこと。ただそこに笑顔はなかった。まるで他人事のように淡々と語っていた。
平沼家の墓は寺の入り口に入るとすぐに見つかった。美沙希と僕は墓の前で手を合わせる。美沙希は一体どういうつもりで手を合わせているのだろうか。そして僕も、なんで平沼先輩に手を合わせているのだろう。
この行為に意味なんてない。
平沼先輩。死のうと思ったその時。あなたの頭にはこの女の顔が浮かんだのでしょうか。あれだけ酷い労働環境でも、それでも頑張れると言っていたのはこの女がいたからでしたよね。守りたい存在があったからですよね。でもこいつはあなたを切り捨てた。切り捨てられたじゃないですか。僕は知っています。この女が大学を卒業する頃に平沼先輩を捨てて、他の男と付き合い始めていたことを。悔しくはないですか。嫌になりませんか。僕はあなた方二人がどういった経緯で別れたのかまで存じておりません。でももし、あなたが死にたいと思った時、美沙希が近くにいたらあなたは死ななかったんじゃないですか。他の道を選択できたのではないですか。美沙希は最初からあなたに恋心なんて抱いてなかったんですよ。そんな女を好きになって、裏切られて、死んで。なんなんだよ。なんで死んだんだよ。お前は、美沙希に選ばれたのに。あの日、あの学校で、あなたは美沙希に選ばれたのに。それなのに、なんで死ぬんだ。ふざけんな。死にたかったのは……僕の方だ。
「懐かしい匂いがする」
帰路につくと美沙希はあちこちを嗅ぎながらそう言った。
「学校の近くだね、懐かしいなぁ」
「よくわかるな」
「そりゃそうだよ。キミと寄り道して帰ったりしたのも、覚えてるよ」
嶋も美沙希と仲良くしていたということか。僕はあの頃自分と美沙希しか見えていなかったから、美沙希の交友関係までわからない。それどころか自分のクラスメイトですらほとんど覚えていない。
「せっかくだから学校、寄って行こうよ」
美沙希が笑っている。久々に見た気がする。でもその願いだけは叶えたくなかった。あの場所は僕にとってのふりだしで、そしてあそこまでの道のりは美沙希との思い出の場所なのだ。そんなところもう行きたくなんてない。
「帰るよ」
「ええ、なんでよ」
「行ってどうすんだよ、どうせ見えないだろ」
「ひどーい、差別だ差別だ」
「うるさいな、行くぞ」
そういえばあの頃もこうしてなんてことない会話をして帰っていたんだ。居心地も良くて、だから好きになって。ずっとずっと、幸せでいられたらいいと、そう思ったんだ。
改札を抜けて、駅のホームで美沙希と一緒に電車を待つ。自分が今座っている椅子で、美沙希と平沼先輩がクリスマスにキスをしていたことを思い出す。嫌な記憶だ。でも脳裏に焼き付いて取れないのだから仕方がない。
「実はね」と美沙希が口を開く。
「キミに話しておきたいことがあるの」
僕は前に進んでいる。ゴールの見えない道をただただ歩き続けている。いろんなものを背負って、いろんな後悔をして、僕はここまで生きてきた。生きてきてしまった。こんな世界なくなっちゃえばいいのに。そう思ったところで、世界はそう簡単にはなくなってくれない。どれだけ辛い思いをしたってそれだけじゃ落ちるだけだ。辛い思いをどうやって乗り越えようかと考えた人だけが救われるんだ。僕は乗り越えようとはしなかった。ただ辛い辛いと思い続けて、目の前に現れる壁を避けて進んだ結果がこれだ。
自分が歩いてきた軌跡は酷く非人道的で、取り返しはつかない。
僕は、悪い。
でも僕という人間がこうなってしまったのは、やはり今僕の目の前にいるこの美沙希という女のせいだと思うのだ。あの時、美沙希と付き合えていたら。あの時、平沼先輩と美沙希が付き合わなければ。あの時、美沙希が僕を拒否してくれれば。受験勉強だなんて変な建前で僕のことをフらないでいてくれたら。答えがきちんと出ていたら、こんなことにはならなかったんだ。
結局僕は今でも、美沙希が何を考えているのかわからない。僕があの時フられた理由だって、僕はまだ知らないのだ。
「朝目が覚めても真っ暗で、一日が始まらないの。でもその方がいいやって思うの。見たくないものまで見えちゃうのなら、何も見えない方が良いと思わない?」
気付くと美沙希が話し始めていた。
「私ね、自分が悪い人間なんだって自覚があるんだ。いろんな人を不幸にしているんだろうなって。今もそう。目の見えない私の手を、キミは引いて歩いてくれる。迷惑をかけてる。私みたいな人は本当はいない方が良いんだって、そう思うんだ」
美沙希はゆっくりと席を立つ。
「高校の時は楽しかったね。後先なんて考えないで、まさか自分がこんなになっちゃうだなんて考えないで。その時その時をただ楽しんでた。でもね、あの時からずっと変わらないの。私はね、ずっと人の目ばかり気にして生きてたから。目が見えなくなった今でもね、人の目が気になるの。誰かに監視されてるみたいな気がするの。本当はこんな姿……誰にだって見られたくないの」
あと二分で、電車が来る。
「あと二分くらいで電車が来るね」
気味が悪いくらいに美沙希の腹時計は正確さを増していた。
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